第9話:覚醒と、二十年の沈黙
八十二・七パーセント。鑑定士が読み上げた数字に、ヴェルナーは万年筆を止めた。
王国勇者認定局付属の特殊能力鑑定室主任。感情の乏しい瞳をした男が、分厚い報告書を証言台に広げている。
「追放された冒険者のうち、特定の条件下にある者の八十二・七パーセントが、短期間のうちに能力の爆発的進化——すなわち『覚醒』を遂げています。被告リーゼ・ハイルマンのケースは、その典型例です」
これまで「奇跡」や「隠れた努力」で片付けられていた異常な能力が、統計に基づいた「現象」として定義された瞬間だった。法廷がざわめく。
「我々は三年前、この現象の危険性を予見し、勇者認定局上層部へ詳細な報告書を提出しました。覚醒した個人の突出した能力が、既存の経済圏を破壊する可能性がある、と」
「勇者認定局の回答は?」
「"極めて興味深いデータですね"。それだけでした」
ヴェルナーは胃薬を噛み砕いた。三年前の官僚が吐いたその一言が、今日の法廷の遠因だ。
続いて証言台に立ったのは、商人ギルド代表マルクス・ゴールドハイム。痩せた初老の男。三十年間薬品商をやってきた、実直な人物である。
「我々は三年前から動いておりました。"覚醒者の経済活動に関する規制の要請書"を三度提出しています。市場の混乱を未然に防ぐため、生産量や価格の監視体制を整えるべきだと。しかし財務省の回答は毎回"前向きに検討する"のみ。勇者認定局に至っては、一度も返答がございませんでした」
マルクスの視線がヘルムートを射抜いた。市場の破壊者としてリーゼを追い詰めている王国側が、その引き金が引かれることを知りながら放置していた。その事実が、法廷の前に晒されている。
リーゼだけが悪いのか。王国は何をしていたのだ。
ヴェルナーの内心で問いが渦を巻いている。だが裁判官は問いを抱えたまま裁かねばならない。
◇◇◇
証人尋問は続く。
法廷の入り口から、一人の女性がゆっくりと入ってきた。
エルマ・ベッカー、五十二歳。
使い古されたエプロンこそ外しているが、指先には長年薬草を扱い続けた者特有の、落ちない灰色の染みが残っている。誰を睨むでもなく、静かに証言台へ向かった。
「……王都の裏通りで、亡くなった夫の店を二十年ほど守ってまいりました。従業員が三人と、将来を楽しみにしていた見習いが一人。小さな、どこにでもある薬屋です」
エルマの声は小さい。けれども法廷の隅まで染み渡るような重みがあった。
「半年前、ある日を境に、お客様が一人も来なくなりました。うちで売っている一番安いポーションより、被告さんの一番高いポーションのほうがずっと質が良く、そしてずっと安かったからです。仕入れ値より安い販売価格には、逆立ちしたって勝てません」
恨み言はなかった。感情的な絶叫もない。事実だけを、淡々と。
「従業員の退職金は、夫と貯めてきた老後の資金を全て崩して支払いました。ですが、見習いの子にだけは、次の行き先を見つけてあげられなかった。王都中の薬屋が、同じように潰れていたからです」
ゲルダが慎重な面持ちで立ち上がった。
「証人。被告のポーションが粗悪だったと言いたいのですか」
「いいえ。滅相もございません。被告さんのポーションは、本当に素晴らしいものでした。消費者の方々は、間違いなく以前より幸せになったはずです」
エルマは穏やかに、しかし迷いなく答えた。
「ただ——去っていくお客様たちが、皆様申し訳なさそうに"ごめんね、エルマさん"と仰るんです。安くて良いものが目の前にあるのに、それを買わないのは家族への不義理ですから」
エルマは一度口を閉じ、膝の上で手を組み直した。
「誰も悪くないんです。誰も悪くないのに、私たちの二十年は、ただ消えてなくなりました」
被告席で、リーゼが深く項垂れた。肩が隠しようもなく震えている。
ヴェルナーは胃薬に手を伸ばしかけて、やめた。この痛みは錠剤で治る種のものじゃない。
法廷には笑いも罵倒もなかった。まともな人間が、まともな営みの果てに、静かに絶望している。ただそれだけの事実が横たわっている。
◇◇◇
ヴェルナーは水を一口含み、判決書を開いた。
「主文。被告リーゼ・ハイルマンは、原告・王都薬品商人ギルドに対し、金八百万クローネを支払え。また、薬品の製造量について、適正な調整を行うよう勧告する」
八百万。リーゼの現在の資産状況からすれば、再起不能に追い込む額ではない。けれども九十四軒の廃業に対する補償としては、一軒あたり八万五千クローネ。多いとも少ないとも言い切れない。法が導き出せる精一杯の数字だった。
傍聴席の商人たちから微かな溜息が漏れた。落胆と、しかし「裁判官はまともだ」という安堵の混じったもの。
「続いて。原告・王国財務省による損害賠償請求および是正措置の申し立てについて——これを棄却する」
法廷がざわめいた。ヘルムートの眉がわずかに動く。
「理由は明白です。王国は三年前の時点で、鑑定士および商人ギルドの双方から市場混乱の警告を受けていた。にもかかわらず何ら法的規制を敷かず、これを放置しています。自らの不作為によって混乱を招いた当事者が、一市民を訴えるのは信義則に反する」
冷静に続ける。ただし次の一言だけは、普段の抑制をわずかに超えていた。
「規制が必要だと思うなら、法律を作ってから裁判所に来なさい」
◇◇◇
「判事、一点。和解案の提示をお認めいただけますか」
ゲルダが立ち上がった。金の匂いを嗅ぎ取った猟犬のような笑みだ。
「私の依頼人は、八百万クローネの支払いを速やかに完了させます。その上で、商人ギルド代表マルクス殿に提案がある。リーゼ・ハイルマンの製造ラインを、商人ギルドの正規流通網に組み込むんです。価格はギルドが定める適正価格。利益は折半。これでいかがでしょう」
マルクスが目を見開いた。
競合として潰し合うのではなく、リーゼという圧倒的な「蛇口」をギルドの管理下に置く。共存というより、覚醒者を既存の秩序に編入する現実的な解だった。
「彼女を敵に回して破滅するか、最強の仕入れ先にして共に再建するか。商人に二択は必要ないはずよ、マルクス殿」
ゲルダの瞳が光っている。弁護士としての有能さと金の亡者ぶりが同時に発揮される、通常運転だ。
法廷は和解に向けた空気に包まれかけた。穏やかに終わりそうに見える。
もっとも、ヴェルナーの胃はまったく穏やかではなかったが。
◇◇◇
ところが、休廷後に戻った法廷の空気は、まるで別物だった。
傍聴席の最前列に、さっきまでいなかった王国の役人たちが並んでいる。この国には民事と刑事を分離する手続法がまだない。同じ法廷で、同じ裁判官が、同じ日に両方を裁く。制度の未熟さが、被告にも裁判官にも容赦なく牙を剥く。
ヘルムート・シュタインが立ち上がった。
肩書きが変わっている。財務省代理官ではない。王国検察官だ。
「被告人リーゼ・ハイルマンに対し、王国経済秩序法第七条"市場秩序の意図的攪乱"、および同法第十五条"不当廉売による経済基盤の毀損"の罪により起訴する」
法廷が凍りついた。
「求刑——懲役七年」
民事の「金を払え」から、刑事の「自由を奪え」へ。
ゲルダの顔色が変わっている。百戦錬磨の彼女でさえ、ヘルムートが民事の結果を踏み台にしてここまで正確に刑事を組み立ててくるとは読んでいなかった。唇を噛み、手元の資料を乱暴に捲っている。
「……本気なのね」
ゲルダの低い声が、ヴェルナーの耳にも届いた。
被告席でリーゼが呆然としていた。和解調書を大事そうに抱えたまま、何が起きているのか理解が追いついていない。
「……牢屋に、入るんですか?」
リーゼの声が、静まり返った法廷に響いた。
「お金は払うって約束しました。悪いことしたから謝って、お金を返せば許してもらえるんじゃないんですか?」
その問いに、答える者はいなかった。




