第76話:解放
「第二。成長速度について。——被告。追放後、何をしていましたか」
ロレンツの静かな問いかけが法廷に落ちる。検察側の立証が一つ崩れ、法廷の空気が微妙に変化し始めた中での質問だった。
ナタンは相変わらず背を丸めている。だが、その沈黙は先ほどまでの完全な無気力とはわずかに異なっていた。乾いた唇がゆっくりと開く。
「……ベテランの斥候に師事しました。ミヒャエル老です。港区で引退していた元A級の斥候です」
掠れた声が紡いだ名前に、法廷の誰もが目立った反応を示さなかった。検察官も傍聴席の冒険者たちも、その名に心当たりがないようだ。
ロレンツは手元の記録を確認し、小さく頷く。
「証人として、ミヒャエル氏を呼びます」
傍聴席のさらに後ろ、法廷の出入り口を塞ぐように立っていた警備の者が扉を開けた。そこに、一人の老人が立っている。
杖をついた老人が入廷する。背は低い。だが足音は消えている。
彼は静かに、しかし迷いのない足取りで法廷の中心へと進み出る。七十代という年齢を感じさせる深い皺が顔に刻まれているが、その身のこなしには現役を退いて久しい今もなお、A級斥候として研ぎ澄まされた身体性が確実に残っていた。
「証人、虚偽の証言をしないことを誓いますか」
書記官の問いに対し、ミヒャエルは法壇を真っ直ぐに見据えたまま、短く応じた。
「……誓う」
深く、低い。短く応じただけだった。その響きには、この老人が長年背負ってきた死線の重さがある。
「ミヒャエル氏。被告は半年間、あなたに師事していたとのことですが」
ロレンツの問いに、ミヒャエルは杖に両手を重ねたまま、ゆっくりと頷いた。
「ああ。毎日来た。雨の日も雪の日も。基礎の反復だけだ」
一切の装飾を排した事実の羅列。そこには誇張も弁明もない。ただ、彼自身の目で見てきた半年間の記録だけが、重みを持って語られる。
「あなたから見て、被告の成長は不自然でしたか」
「不自然?」
ミヒャエルは初めて眉を動かし、小さく鼻を鳴らした。そして、一段低い被告席で背を丸めるナタンへ、鋭い視線を落とす。
「——逆だ。初日に走らせて分かった。重心が高い。歩幅が合っていない。聞けば、前衛の剣士に合わせて歩幅を広げろと言われていたと」
老人の断定的な言葉が、法廷の空気を切り裂く。傍聴席のエルザが、弾かれたように顔を上げた。
「斥候が前衛の歩幅で動いたら足音が消せるわけがない。膝にも負荷がかかる。——あいつはパーティーで潰されていた。それだけだ」
容赦のない真実だった。技術の未熟さではなく、誤った指導による身体の破壊。ミヒャエルは長年の経験から導き出された確信を、ただ淡々と述べる。
傍聴席で余裕の態度を崩さなかったガレスの腕組みが、わずかに動いた。彼の視線が初めて被告席から外れ、証言台の老人へと固定される。その表情から、先ほどまでの「やれやれ」といった余裕が静かに陰り始めていた。
「半年かけて、本来の歩幅に戻した。重心を落とした。基礎を叩き直した。自由にやらせたら伸びた」
ミヒャエルは言葉を切り、再び法壇へと視線を戻す。彼の語る半年間の物語は、あまりにも短く、そして圧倒的に生々しい。
ロレンツは手元の記録から顔を上げ、慎重に言葉を選んで問う。
「ナタン氏が新しい技を覚えた、ということではない、と」
その問いは、検察が提示した「技能窃取」という大前提に直結するものだった。ミヒャエルは杖を握る手に力を込め、はっきりと首を横に振る。
「逆だ。——あいつは何も新しく覚えていない。元から持っていたものを、出せるようになっただけだ」
ミヒャエルはそこで言葉を区切った。深く息を吸い込み、ゆっくりと息を吐く。法廷から一切の音が消えた。
「——覚醒ではない。解放だ」
老斥候は、それだけを口にした。
法廷が静まり返る。傍聴席のざわめきも止まり、誰一人として声を発することができない。
その静寂の中で、被告席のナタンがゆっくりと顔を上げた。ずっと床を見つめ続けていた彼の瞳が、証言台の老人を真っ直ぐに見つめている。その目元が、かすかに潤んでいた。
ロレンツは羽ペンを置き、ミヒャエルへと静かに一礼する。
「……ミヒャエル氏、ありがとうございました」
ミヒャエルは短く頷き、来た時と同じように足音を立てることなく法廷を後にした。彼の背中が扉の向こうに消えた後も、法廷には強烈な余韻が残されている。
ロレンツは視線を動かし、演台の後ろで沈黙する検察官を見据えた。
「C級からB級への成長に半年。元A級斥候の指導を受けて毎日修練。——これは不自然な成長ですか。それとも、まともな指導を受けた人間の普通の成長ですか」
ロレンツの冷徹な問いかけに、検察官は何も答えることができなかった。




