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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
税務調査5016号 冒険者ギルド
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第64話:冒険者の確定申告

「この素材売ったら、全部酒代だな」


冒険者ゴットフリートが、魔獣の角をカウンターに放り出す。 リベルタス冒険者ギルドは、朝の活気に満ちている。 掲示板に群がる連中の熱気と、使い込まれた革製品の匂いが充満する日常の風景だ。 後輩のテオが、ふと素朴な疑問を口にした。


「先輩、税金とか取られるんですか?」


ゴットフリートは鼻で笑う。


「冒険者に税金なんてあるわけないだろ」


受付嬢も苦笑し、手慣れた様子で素材の査定を進める。 だが、入り口の扉が、やけに几帳面なリズムで押し開かれた。 書類の束を抱えた黒衣の男が、二人の部下を引き連れて現れる。 リベルタス市徴税吏長、ディートリッヒ・ケスラーだ。 ギルド内の空気が、一瞬で変わる。 かつてギルド本部に三千万クローネ以上の追徴課税を叩きつけた男の顔を見て、数人のベテランが固まった。


ディートリッヒが、ホールを一瞥する。


「リベルタス市徴税吏長、ディートリッヒ・ケスラーです。本日は冒険者各位の、直近三年分の所得申告状況について査察を行います」


「……査察……」


受付嬢の声が裏返る。 ディートリッヒは迷いのない足取りでカウンターへ歩み寄った。


「まず、ギルドが冒険者に支払った報酬の三年分の一覧を提出してください」


逆らえる空気ではない。分厚い帳簿が即座に差し出された。 彼は眼鏡の奥の瞳を動かし、ページを一枚ずつ丁寧にめくっていく。 指先が紙を擦る音だけが、静まり返ったホールに響く。 しばらくして指を止めたディートリッヒは、淡々と数字を口にした。


「所属冒険者三百二十八名。うち所得申告を行った者は四十二名」


眉一つ動かさない。


「残り二百八十六名は、無申告です」


ギルドが静まる。 誰も目を合わせようとせず、天井のシミや自分のブーツの汚れに全神経を集中し始めた。 ディートリッヒはその沈黙を無視し、手元のリストを読み上げる。


「では、申告済みの四十二名から順次確認します。——ゴットフリートさん」


「……俺からかよ」


◇◇◇


「あなたは三か年分の所得を適切に申告していますね。まずはその点を確認します」


ディートリッヒは手元の書類をトントンと整え、眼鏡の位置を直す。 ゴットフリートは引きつった笑みを浮かべ、これ見よがしに胸を張ってみせた。


「ああ。見ての通り、俺は真面目な冒険者だからな」


「ギルドから支払われた報酬。年額百八十万クローネ。三年間で計五百四十万クローネ。……こちらの申告額と完全に一致します」


吏長の淡々とした言葉に、男は安堵の息を漏らす。


「だろ? 何の問題もないはずだ」


だが、ディートリッヒの手が、別の束から一枚の紙を滑らかに引き抜いた。


「では次に。——素材買取商ヴォルフ氏の取引記録です」


ゴットフリートの頬がピクリと震える。 視線が泳ぎ、無理やり正面に固定された。


「事前にヴォルフ氏の店舗を訪問し、取引記録を確認させていただきました」


周囲から小さな悲鳴が上がった。


「あなたは過去三年間にわたり、ヴォルフ氏に対して年額約六十万クローネ相当の魔獣素材を売却していますね。三カ年で計百八十万クローネです」


ゴットフリートの額から汗が滴る。


「……」


「この売却益が、あなたの申告書には一切記載されていません」


「……素材の売り上げも、申告しなきゃいけないのか?」


「当然です。事業所得に該当します。ダンジョンで得た素材の売却は、冒険者としての事業活動ですから。三カ年分で百八十万クローネの過少申告です」


ディートリッヒは計算書にペンを走らせる。


「自主的に修正申告を行うなら延滞税のみで済みます。当方で更正処分を下せば加算税が課されます。どちらを選びますか」


「……修正、します」


「賢明な判断です」


ディートリッヒが次の書類を準備する間、傍観していた冒険者たちの顔は土気色だ。


「嘘だろ……」


「ちゃんと申告してたゴットフリートさんですら、あれかよ」


◇◇◇


「テオさん。あなたは過去一年間、所得の申告を行っていません」


次に名前を呼ばれたのは、まだ成人も間近な少年冒険者だった。 テオは不思議そうに首を傾げ、大きな瞳をぱちくりとさせる。


「……申告って、しなきゃいけなかったんですか」


素朴な問いかけが、凍りついたギルドに波紋を広げた。 ディートリッヒは眉一つ動かさず、書類をめくる。


「国民の義務です。……帳簿はありますか」


「帳簿って何ですか」


周囲のベテランたちが一斉に顔を覆った。


「あいつ、言いやがった……」


「一番言っちゃいけないことを、あんなにピュアな顔で……」


ディートリッヒは眼鏡を指先で押し上げる。


「収入と支出の記録です」


「……ないです。そんなの書いたことありません」


テオは困ったように笑い、自慢の短剣の柄をさする。


「帳簿がない場合は推定課税を適用します。ギルドの報酬記録とダンジョンの入場記録から、あなたの所得をこちらで推定します」


「推定って……実際と違ったらどうなるんですか」


テオが身をすくめる。吏長の声はどこまでも平坦だ。


「実際より高くなる可能性があります。帳簿があれば、武器の修理代やポーション代を経費として差し引けますが、証拠がない以上は認められません。全額が所得として計算されます」


「全額……!? ポーション代だけでも、相当使ったんですよ!」


ディートリッヒは首を横に振る。


「証明できないものは認められません」


「でも実際は、そんなに稼いでません! 毎日パンの耳を食べてるのに!」


「帳簿があれば、それを証明できました」


テオはがっくりと肩を落とし、しばらく床の木目を凝視していた。


「…………今からつけても、遅いですか」


「過去の分については遅いです」


「…………」


呆然とするテオの背中に、吏長の声が投げかけられる。


「今後は帳簿をつけることをお勧めします。——領収書は捨てないでください」


◇◇◇


「ハインツさん。あなたは申告を行っていますね。拝見します」


ディートリッヒは手元の書類に視線を落とす。 自信満々のハインツが、カウンターに身を乗り出して鼻を鳴らした。


「ちゃんとやってますよ。経費もバッチリ、完璧な申告書だ」


ディートリッヒの眉間に、皺が刻まれる。


「……経費が非常に多い。まず食費。月額三万クローネを全額計上していますね」


「飯も仕事のために食ってますから! 体が資本なんですよ」


ディートリッヒはペンを走らせる。


「自宅での食事は生活費であり、経費にはなりません。認められるのは業務中の食事のみです」


「ダンジョンの中で食った飯はどうなんだ!」


「出張中の食事として認められる部分はありますが、この明細には毎日の朝食と夕食が含まれています」


赤ペンで数字を書き換える。


「三万クローネのうち、認容するのは約八千クローネです」


「二万二千クローネも削られるのか……」


ハインツの顔から自信が剥がれ落ちる。ディートリッヒの指が次の項目を指した。


「次に。被服費。月額一万五千クローネ」


「戦闘で破れるんですよ。服代くらい認めてくれよ」


「鎧や戦闘用の衣服なら経費です。しかしこの明細には普段着、寝間着、下着が含まれています」


「下着も戦闘で破れたんですけど」


「下着は経費になりません」


「戦闘で破れるんですよ!」


「それでも経費になりません」


「じゃあ何なら経費になるんですか!」


「鎧です」


「鎧より下着の方が重要なんですけど!」


「下着は業務の有無にかかわらず必要な生活必需品です。業務との直接的な関連性が認められません」


ハインツの膝が折れる。 周囲の冒険者たちは、爆笑を堪える者と、「次は俺だ」と震える者に二分された。


「……何なら、何なら経費になるんですか」


「武器の修理代、ポーション代、業務用装備、そして出張時の宿泊費。もちろん、領収書があるものに限ります」


「領収書はありますか」


ハインツは懐を弄り、クシャクシャの紙屑を幾つか取り出す。


「……半分くらいは、あると思う」


「半分は認めます。残り半分は否認です」


ディートリッヒはペンを滑らせる。


「所得を再計算します」


◇◇◇


ディートリッヒはギルドの扉を背にし、秋の街路へ踏み出す。 表通りの景色は、数時間前とは一変していた。 普段なら研磨の火花と熱気に包まれる武器屋は、閑古鳥が鳴いている。 店主が暇そうに店先を掃く一方、その向かいにある税理士事務所には、鎧姿の男たちが長蛇の列をなしていた。


「修正申告を手伝ってくれ! 素材の売却益を書き忘れてたんだ!」


列の先頭で、一人の冒険者が悲鳴のような声を上げる。 受付の税理士は、分厚い眼鏡を指で押し上げた。


「予約は現在、三ヶ月待ちです」


「三ヶ月だと!? その間に延滞税が溜まっていくじゃないか!」


「ですから、もっと早く来てくださいと以前から申し上げていたはずです」


「以前って……そんなこと言ったか?」


「毎年言っています」


別の冒険者が、頭を抱えながら書類の束を税理士に突き出した。


「なあ、帳簿のつけ方がさっぱりわからないんだ。頼む、教えてくれ」


「記帳指導は別料金になります」


「金を取るのか!」


「私も事業者ですから。無料では働けません」


あるベテラン冒険者が、インクの滲んだ羊皮紙を見つめる。


「魔物討伐より難しい……」


税理士は表情を変えず、次の書類に印を突いた。


「帳簿は魔物より強いです」


ディートリッヒは、行列の脇を音もなく通り過ぎる。 その顔に表情はない。


◇◇◇


ディートリッヒが査察結果を書き込んだ書類を、受付嬢に差し出す。


「整理します。所属冒険者三百二十八名のうち——」


適正な申告はわずか十二名。過少申告が三十名。そして残り二百八十六名が無申告。


「無申告所得の推定総額は約四千八百万クローネ。追徴税額は概算で約九百六十万クローネに達します。さらにギルドの源泉徴収義務違反に対する加算税も上乗せされます」


「九百六十万……」


受付嬢が、魂の抜けたような声で数字を繰り返す。 ディートリッヒは今後の是正策が記された書類を差し出した。冒険者への個別対応、無申告者への推定課税、申告書式の新設。そしてギルドが負うべき義務。


「源泉徴収って、具体的に何をすればいいんですか」


「報酬を渡す前に、あなたが先に税金を差し引く制度です」


「……それ、冒険者に嫌われませんか」


「税務署は嫌われる仕事です」


「私は受付嬢であって税務署ではないんですが」


「今後はそうなります」


「…………」


受付嬢は深い溜息を吐いた。最後に一つだけ、ずっと気になっていた疑問を口にする。


「……楽しいですか、これ」


「課税に善悪はありません」


◇◇◇


ギルドの掲示板に、真新しい羊皮紙が貼り出された。


「【重要】冒険者の皆様へ。本年度より年間所得の確定申告が義務化されます。申告書式はギルド受付にて配布中。不明な点は市の税務相談窓口へ。——リベルタス市徴税局」


その前で、かつての自由な冒険者たちが立ち尽くしている。


「……修正申告、六十万クローネの追徴だってよ」


ゴットフリートが力なく通知書を見つめた。ハインツが隣から口を出す。


「経費で全部落とせば、税金なんてゼロになりますよ!」


「下着は落とせないって言われたぞ」


テオの一言が、ハインツの希望を粉々にする。


「とりあえず、税理士のところに行くか……」


「三ヶ月待ちだってよ」


「…………冒険者やめようかな」


「俺も」


◇◇◇


リベルタス市徴税局。ディートリッヒの執務室。


部下が報告書を抱えて入室した。


「吏長。推定課税の通知を二百八十六名に送付完了しました。そのうち四十七名から『帳簿を今からつけるので待ってほしい』との申し出が届いています」


「過去の分については、推定で確定です。今後の分については帳簿を認めると伝えなさい」


ディートリッヒはペンを置くことなく、指示を飛ばす。 部下は困った顔で、もう一件の報告を付け加えた。


「……あと一名、『冒険者をやめて農民になる。農民には税金がないはずだ』と言っている者がいます」


「農民にも税金はあります」


「……伝えます」


「農民の申告状況も確認が必要ですね」


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