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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-209号 聖なる加護の囲い込み 合意無効確認請求事件
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第38話:法廷に出てきたマヌケ

 鑑定士ドロテア・シュミットが、銀色の小さな鏡を法壇の前に据える。

 手のひら大のその魔道具は心鏡ゼーレンシュピーゲルと呼ばれ、持ち込まれただけで廷内の空気が変わる。

 ドロテアはその機能を説明する。


「被験者に質問をし、回答時の精神状態を色彩で可視化します。白が正常。一切の干渉を受けない自由意思による回答です。黄から赤は認識汚染。緑から青は魔力汚染。両方が重なると、色は複雑に混ざり合います」


 マティアス判事が被告席を見る。


「被告側の同意は。弁護人」


「異議はありません」


 エルマ・リントナーが、晴れやかな笑みを浮かべて立ち上がる。


「全員が白になるはずですから」


 ヴィクトールは何も言わない。ただ、足を組み替えた。楽しみにしている人間の仕草だ。


 鑑定の最初の一人として、アンナ・ホフマンが鏡の前に立つ。

 ドロテアが問いかける。


「アンナ・ホフマン。あなたはアルベルト・ヴァイスと一緒にいることを望みますか」


「はい。望みます」


 アンナの回答と同時に、心鏡が光を放つ。

 現れたのは、黄色だ。そこに、濁った緑が混じり合っている。


「……黄色? 待ってください」

 エルマが戸惑いの声を漏らす。

「これは恋愛感情です。誰かを好きだという情熱は、判断を鈍らせるもの。それは汚染などではなく」


「恋愛感情で心鏡が黄色になることはありません」

 ドロテアが淡々と否定した。

「黄は認識汚染。 恩義や負い目による意思の歪みです。加えて緑が混じっています。これは被告のスキルによる魔力的干渉の兆候です」


 エルマが言葉を失う。

 続けて二人目。

 聖職者見習いのソフィー・メルツが、祈るように手を組んで鏡に向き合う。


「ソフィー・メルツ。あなたは被告のもとを離れることを考えたことがありますか」


「あの方は神に遣わされた方です。離れるなど、考えられません」


 心鏡が光る。

 今度は赤だ。その中心に、深い青が滲んでいる。

 法廷全体が、大きなざわめきに包まれた。


「赤。認識汚染が重度です。本人の意思が個人としての判断ではなく、信仰体系の中での義務として構成されています。加えて青。魔力汚染も重度。長期間の近接により、スキルの影響が精神の深層まで浸透しています」


「信仰は自由意思です!」

 エルマが食い下がる。

「信仰に基づく行動を汚染と呼ぶのは、個人の尊厳に対する冒涜ではありませんか」


「信仰は自由です」

 ヴィクトールが、椅子に深く腰掛けたまま口を開く。退屈そうですらある。


「ただし、信仰の対象が同居人の場合は話が変わります」


 エルマが唇を噛む。ヴィクトールはそれを見て、わずかに口角を上げた。反論の余地がない人間の顔は、いつ見ても気持ちがいい。


 そして三人目。元奴隷の女性、ベアトリス・シュタイナーが呼び出された。


「ベアトリス・シュタイナー。あなたは今、自由だと感じていますか」


「はい。アルベルト様に解放していただきました。私は、自由です」


 心鏡が光を放つ。

 鏡面を埋め尽くしたのは、鮮明な紫だった。

 法廷が、静まり返る。

 ざわめきさえ起きない。重苦しい沈黙だけが場を支配する。


 陪席席のルイーゼの手が、一瞬だけ自分の手首に触れた。

 コントラクトの刻印があった場所。今はもう消えている。だが体が覚えている。


「紫。認識汚染と魔力汚染の完全な複合です」


 ドロテアの声が、事実を告げる。


「元奴隷という経歴による心理的依存。行き場のなさ。恩義。そこに被告のスキル『聖なる加護』の魔力的干渉が重なっている。二重に縛られています」


 ヴィクトールが立ち上がった。


「弁護士。白になるはずでしたね。紫でした。 どう弁護されますか。まさか紫の意味がわかりませんとは言わないでしょうね」


「……被告に、悪意はありません。スキルの影響は無意識のもので——」


「無意識であっても、魔力による精神への影響は『干渉』です。 『悪意がなかった』と『干渉がなかった』は別の問題です。弁護士。あなたの被告は無自覚に七人の脳を侵していたんですよ。悪意がないから許されるなら、酔っ払いの馬車に轢かれても無罪ですか」


 エルマが立ち上がる。


「裁判長。弁護人である私自身の鑑定を申請します。私の合意が自由意思であることを証明します」


 マティアスが一瞬、眉をひそめる。


「……弁護人自身の鑑定は異例ですが、許可します」


 ドロテアが銀の鏡を掲げ、エルマの正面に立った。


「エルマ・リントナー。あなたはアルベルト・ヴァイスのもとに、自分の判断で合流しましたか」


「はい。職業的判断です」


 迷いのない回答。

 直後、心鏡が光を放つ。

 映し出されたのは、澄み渡るような白。

 しかし。

 光が収まるにつれ、白の端に、薄く、あまりに淡く、緑が滲み出した。


 エルマの顔が止まった。


「……緑? ——私は、職業的判断で——」


「認識汚染はほぼありません。職業的判断というのは事実でしょう」


 ドロテアの声は、平坦だ。


「ですが、魔力汚染の兆候があります。薄いですが、ゼロではない。被告のスキルの影響圏に長期間いた結果です」


「…………私も?」


 ヴィクトール・レンツが、一瞬だけ沈黙する。

 それは彼にしては珍しい、嘲りを含まない静寂だった。哀れんでいるのではない。壊れた玩具を見て、もう遊べないことを惜しんでいる。


「弁護士。あなたの認識は汚染されていなかった。職業的判断で来た。それは認めます。だがスキルの魔力的影響は受けている。 あなた自身が気づかないまま」


 ヴィクトールの声が、法廷に落ちる。


「あなたは自分だけは大丈夫だと思っていた。弁護士だから。論理的だから。だが魔力は論理で防げない。 あなたがどれだけ冷静でも、スキルは体に効く。毎日同じ屋根の下にいれば、体が汚染される」


 エルマは何も言い返さない。

 ただ、立ち尽くす彼女の背中が、わずかに小さく見えた。


「あなたは他の六名の『合意』を確認した。あなた自身が汚染された状態で。汚染された鑑定人が『全員大丈夫』と言った。それがこの法廷の現実です」


「……気づかなかった」


 エルマが、小さく漏らす。


「ええ。気づかないのが魔力汚染です。 認識汚染は自覚できる。恩義も依存も、問われれば考えられる。だが魔力汚染は自覚できない。白だと思っていた。それなのに結果を見てみれば、保証した本人がコレだ。あなたは少し考えればわかることを見ずに、のこのこ法廷に出てきたマヌケだと証明されたということです」


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