第25話:四回目
冬の乾燥した夜風が、火の粉を高く舞い上げる。
魔法学院の寄宿舎二階から噴き出した火の手は、瞬く間に木造の屋根を舐めた。パチパチと爆ぜる乾いた音が、夜の静寂を無慈悲に引き裂いていく。
逃げ遅れた学生たちの叫び声が、煙の向こう側から絶え間なく聞こえる。
その混乱の渦中に、サイモン・ツヴァイトは立っていた。
彼は恐怖に震えてはいない。むしろ、その瞳には強い使命感が宿っている。
「僕が、助けなきゃ」
九ヶ月の抑制訓練。それは、この瞬間のためにあったのだと彼は確信する。
階下では、女子学生の一人が逃げ場を失い、崩れ落ちた梁の前に立ち尽くしている。十代半ばの少女、クララだ。
サイモンは右手を掲げようとし、その指先が微かに震えた。
魔法行使禁止。
九ヶ月前、リディア裁判官が言い渡した凍りつくような声が、脳裏をよぎる。
『次はキャベツでは済みません』
その言葉が、耳の奥で呪文のように反復した。今ここで魔法を使えば、執行猶予は取り消され、自分は罪人になる。
だが、目の前で火の粉が少女の髪を焦がそうとしていた。
消防の鐘の音は、まだ遠い。
使わなければ、この子は死ぬ。
使えば、自分はまた——。
天秤は、一瞬で傾いた。法よりも、目の前の命を救う自分の力が正しい。その独善が、彼の迷いを打ち消す。
「……大丈夫、僕が救うから」
確信を込めて、彼は右手を突き出した。
「氷河!」
刹那、寄宿舎の空気が劇的に凍りつく。
炎は一瞬で消滅する。だが、代わりに発生したのは、凄まじい質量を持つ氷の塊だ。
二階の床は、突如として出現した数トンの氷の重みに耐えきれない。
メキメキと、建物全体が悲鳴を上げた。
次の瞬間、天井が崩落する。
巨大な氷塊と瓦礫が、一階にいたクララを目掛けて降り注いだ。
鈍い音が響く。
それは、石や木材が砕ける音の中に混じった、もっと生々しい、繊維質なものが破壊される音だった。
「……あ」
サイモンの視界の先で、クララの体が瓦礫の下敷きになっている。
雪のような白い煙が立ち込める中、彼女の両足は、不自然な方向に曲がっていた。
静寂が訪れる。
助かった、という安堵の声はどこからも上がらない。
ただ、瓦礫の隙間から漏れ出す少女の、言葉にならない嗚咽だけが、凍てついた夜の空気に溶けていった。
◇◇◇
一時間後。現場は市警備隊と救護班によって封鎖された。
担架で運ばれていくクララの顔は、痛みとショックで幽霊のように白い。彼女の両足には、既に厚いギプスが巻かれている。
サイモンは、すすで汚れた顔のまま、瓦礫の傍らに座り込んでいた。
彼の前には、一人の女性が立っている。市検察官のベルタ・ハイネだ。
「……僕は、助けようとしたんです」
サイモンは、縋るような目でベルタを見上げる。
「火がすごくて、彼女が危なくて。だから、魔法で火を消しただけなんです。少し、出力が大きすぎたかもしれないけど、でも僕は、正しいことをしたはずだ」
「サイモン・ツヴァイト」
ベルタは冷たく、彼の言葉を遮った。
彼女の手には、九ヶ月前に作成された判決記録の写しがある。
「魔法の使用禁止。執行猶予。そして、あなた自身の誓い」
ベルタは記録の一行を、月明かりの下で指し示す。
「『もう絶対にやりません』。——その言葉、記録に残っています。今のあなたの弁明も、すべて記録されます」
「でも、善意だったんです! 悪いことをしようとしたんじゃない!」
「善意で人の足を折った事実に、法的な差はありません」
ベルタは背後の警備兵に無機質な合図を送る。
「サイモン・ツヴァイト。執行猶予の取消、および新たな過失傷害の容疑で逮捕します」
手錠がかけられる乾いた金属音が響いた。
サイモンはその音を聞きながら、何度も首を振る。
「違うんだ。僕は、間違ってない。僕は、彼女を火から救ったんだ……」
連行されていく彼の背中を、ベルタは無言で見送った。その視線には、怒りも同情も含まれていない。
◇◇◇
一週間後。アカデミア・マギストラ、第一法廷。
場所は九ヶ月前と同じだが、そこにある空気は別物だった。
法壇の上には、三人の裁判官が座っている。
中央には、白髪の老人オットー・レーマン。四十年のキャリアを持つ、この管区の裁判長だ。彼は感情を一切表に出さず、ただ手元の膨大な資料を読み込んでいる。
その右側には、外部から招聘されたグスタフ・アイゼンが座る。
感情を剥ぎ取ったような、無機質な視線。彼はかつて、「自分は正しい」と信じて罪を犯した男に死刑を下した時と、全く同じ顔をしていた。
左側には、王都から招聘されたヴェルナー・クラフト。普段は胃薬を手放さない痩せた男だが、今は表情を引き締め、被告席のサイモンを静かに見つめている。
傍聴席の最前列には、松葉杖を横に置いたクララと、その両親が座っている。
母親は娘の肩を抱き、父親は怒りを押し殺したように拳を握りしめた。
リディア・クロムウェルは、傍聴席の最後列の隅に身を寄せている。
前回の裁判を担当した彼女は、中立性の観点から今回は審理に加われない。
九ヶ月前、自分が座っていたあの椅子を、彼女は遠くから見つめた。
当時は、サイモンの抜けた言動にツッコミを入れ、ヴィルヘルムの飄々とした態度をたしなめる余裕があった。
今は、そんな気配は微塵もない。
法廷は静まり返っている。
紙が擦れる音と、誰かの重い呼吸音だけが、天井の染みに吸い込まれていった。
オットー裁判長が、ゆっくりと顔を上げる。
その重厚な動作だけで、法廷内の緊張が一段階跳ね上がった。
「本件は重大魔法災害審理規則に基づき、合議体にて審理を行います」
オットーの声は、低く、法廷の隅々まで染み渡るような響きを持っている。
「被告サイモン・ツヴァイト。前へ」
サイモンが立ち上がる。その足取りには、前編の時のような頼りなさはない。
自分は正しいことをした。その信念が、彼を支えているように見えた。
オットーは、眼鏡越しにサイモンを静かに見つめ、一拍、長い沈黙を置く。
「開廷します」
木槌が一度、重く響いた。
その音は、もはやコメディの始まりを告げる合図ではなかった。




