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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-007号 SSS級の暴走 器物損壊事件
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第25話:四回目

 冬の乾燥した夜風が、火の粉を高く舞い上げる。


 魔法学院の寄宿舎二階から噴き出した火の手は、瞬く間に木造の屋根を舐めた。パチパチと爆ぜる乾いた音が、夜の静寂を無慈悲に引き裂いていく。


 逃げ遅れた学生たちの叫び声が、煙の向こう側から絶え間なく聞こえる。


 その混乱の渦中に、サイモン・ツヴァイトは立っていた。


 彼は恐怖に震えてはいない。むしろ、その瞳には強い使命感が宿っている。


「僕が、助けなきゃ」


 九ヶ月の抑制訓練。それは、この瞬間のためにあったのだと彼は確信する。


 階下では、女子学生の一人が逃げ場を失い、崩れ落ちた梁の前に立ち尽くしている。十代半ばの少女、クララだ。


 サイモンは右手を掲げようとし、その指先が微かに震えた。


 魔法行使禁止。


 九ヶ月前、リディア裁判官が言い渡した凍りつくような声が、脳裏をよぎる。


『次はキャベツでは済みません』


 その言葉が、耳の奥で呪文のように反復した。今ここで魔法を使えば、執行猶予は取り消され、自分は罪人になる。


 だが、目の前で火の粉が少女の髪を焦がそうとしていた。


 消防の鐘の音は、まだ遠い。


 使わなければ、この子は死ぬ。


 使えば、自分はまた——。


 天秤は、一瞬で傾いた。法よりも、目の前の命を救う自分の力が正しい。その独善が、彼の迷いを打ち消す。


「……大丈夫、僕が救うから」


 確信を込めて、彼は右手を突き出した。


氷河グレイシア!」


 刹那、寄宿舎の空気が劇的に凍りつく。


 炎は一瞬で消滅する。だが、代わりに発生したのは、凄まじい質量を持つ氷の塊だ。


 二階の床は、突如として出現した数トンの氷の重みに耐えきれない。


 メキメキと、建物全体が悲鳴を上げた。


 次の瞬間、天井が崩落する。


 巨大な氷塊と瓦礫が、一階にいたクララを目掛けて降り注いだ。


 鈍い音が響く。


 それは、石や木材が砕ける音の中に混じった、もっと生々しい、繊維質なものが破壊される音だった。


「……あ」


 サイモンの視界の先で、クララの体が瓦礫の下敷きになっている。


 雪のような白い煙が立ち込める中、彼女の両足は、不自然な方向に曲がっていた。


 静寂が訪れる。


 助かった、という安堵の声はどこからも上がらない。


 ただ、瓦礫の隙間から漏れ出す少女の、言葉にならない嗚咽だけが、凍てついた夜の空気に溶けていった。


◇◇◇


 一時間後。現場は市警備隊と救護班によって封鎖された。


 担架で運ばれていくクララの顔は、痛みとショックで幽霊のように白い。彼女の両足には、既に厚いギプスが巻かれている。


 サイモンは、すすで汚れた顔のまま、瓦礫の傍らに座り込んでいた。


 彼の前には、一人の女性が立っている。市検察官のベルタ・ハイネだ。


「……僕は、助けようとしたんです」


 サイモンは、縋るような目でベルタを見上げる。


「火がすごくて、彼女が危なくて。だから、魔法で火を消しただけなんです。少し、出力が大きすぎたかもしれないけど、でも僕は、正しいことをしたはずだ」


「サイモン・ツヴァイト」


 ベルタは冷たく、彼の言葉を遮った。


 彼女の手には、九ヶ月前に作成された判決記録の写しがある。


「魔法の使用禁止。執行猶予。そして、あなた自身の誓い」


 ベルタは記録の一行を、月明かりの下で指し示す。


「『もう絶対にやりません』。——その言葉、記録に残っています。今のあなたの弁明も、すべて記録されます」


「でも、善意だったんです! 悪いことをしようとしたんじゃない!」


「善意で人の足を折った事実に、法的な差はありません」


 ベルタは背後の警備兵に無機質な合図を送る。


「サイモン・ツヴァイト。執行猶予の取消、および新たな過失傷害の容疑で逮捕します」


 手錠がかけられる乾いた金属音が響いた。


 サイモンはその音を聞きながら、何度も首を振る。


「違うんだ。僕は、間違ってない。僕は、彼女を火から救ったんだ……」


 連行されていく彼の背中を、ベルタは無言で見送った。その視線には、怒りも同情も含まれていない。


◇◇◇


 一週間後。アカデミア・マギストラ、第一法廷。


 場所は九ヶ月前と同じだが、そこにある空気は別物だった。


 法壇の上には、三人の裁判官が座っている。


 中央には、白髪の老人オットー・レーマン。四十年のキャリアを持つ、この管区の裁判長だ。彼は感情を一切表に出さず、ただ手元の膨大な資料を読み込んでいる。


 その右側には、外部から招聘されたグスタフ・アイゼンが座る。


 感情を剥ぎ取ったような、無機質な視線。彼はかつて、「自分は正しい」と信じて罪を犯した男に死刑を下した時と、全く同じ顔をしていた。


 左側には、王都から招聘されたヴェルナー・クラフト。普段は胃薬を手放さない痩せた男だが、今は表情を引き締め、被告席のサイモンを静かに見つめている。


 傍聴席の最前列には、松葉杖を横に置いたクララと、その両親が座っている。


 母親は娘の肩を抱き、父親は怒りを押し殺したように拳を握りしめた。


 リディア・クロムウェルは、傍聴席の最後列の隅に身を寄せている。


 前回の裁判を担当した彼女は、中立性の観点から今回は審理に加われない。


 九ヶ月前、自分が座っていたあの椅子を、彼女は遠くから見つめた。


 当時は、サイモンの抜けた言動にツッコミを入れ、ヴィルヘルムの飄々とした態度をたしなめる余裕があった。


 今は、そんな気配は微塵もない。


 法廷は静まり返っている。


 紙が擦れる音と、誰かの重い呼吸音だけが、天井の染みに吸い込まれていった。


 オットー裁判長が、ゆっくりと顔を上げる。


 その重厚な動作だけで、法廷内の緊張が一段階跳ね上がった。


「本件は重大魔法災害審理規則に基づき、合議体にて審理を行います」


 オットーの声は、低く、法廷の隅々まで染み渡るような響きを持っている。


「被告サイモン・ツヴァイト。前へ」


 サイモンが立ち上がる。その足取りには、前編の時のような頼りなさはない。


 自分は正しいことをした。その信念が、彼を支えているように見えた。


 オットーは、眼鏡越しにサイモンを静かに見つめ、一拍、長い沈黙を置く。


「開廷します」


 木槌が一度、重く響いた。


 その音は、もはやコメディの始まりを告げる合図ではなかった。


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