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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-905号 奴隷不法解放 損害賠償請求事件
24/29

幕間:判決のあと

 宗教自治区の地下深く、百八十年ぶりに「送還の祭壇」が脈動している。


 大理石の床に刻まれた魔術幾何学が、高純度の精霊銀を触媒にして青白い燐光を放つ。


祭壇の周囲には、儀式の「正当性」を監視するために送り込まれた神殿関係者たちが並んでいる。神官が四名、書記が二名、そしてその筆頭——ベネディクト枢機官が、祭壇から溢れる魔力に顔をしかめながら最後列に立っていた。


 彼は腕を組み、法衣の裾を握りしめている。送還を「妨害」する権限は、判決によって剥奪されている。だが「監視」する権限は残っている。この場で何が行われ、誰が何を言ったか。全てを記録し、後日の「材料」にするために、彼はここにいる。


 六人の目が、祭壇の上の二人を見つめている。


その光の渦を背にして、神判官イグナーツ・メルヒオールは立っていた。


 手には、儀式の工程が記された最終確認用の羊皮紙。彼はそれを事務的に検分し、祭壇の傍らに立つユイへと視線を向けた。


「術式の充填率、九十八パーセント。定刻通り、刑を執行します」


イグナーツの声に感情の起伏はない。ここが聖域ではなく、あくまで「刑の執行場」であることを、その響きが示している。


ユイは聖女服を脱ぎ捨て、召喚された時と同じブラウスとタイトスカート姿に戻っていた。二年前の布地は、今の彼女には少しだけ窮屈に見える。手首には、この世界で買った安物の腕輪が一つだけ残っている。唯一、自分の意思で手に入れたものだ。


「ありがとうございました」


ユイが、静かに頭を下げた。


 イグナーツは羊皮紙から目を離さない。周囲の神官たちが聞いている。この場の全ての言葉が、後日の審問で使われる可能性がある。だから彼は、いつも通りの声で答える。


「礼を言われることはしていません。神律に従って判決を出しただけです。あなたが帰りたかったから帰すのではなく、刑罰として追放を執行する。それだけのことです」


「…………はい。そういうことにしておきます」


ユイは微かに口角を上げた。判決の瞬間に見せた涙はもうない。理不尽な残業を終えてオフィスを後にする時のような、どこか晴れ晴れとした表情だった。


祭壇の光が強まり、空間が歪み始める。


 ユイは一歩、光の淵へと足を進め、思い出したように懐から一通の封書を取り出した。飾り気のない白い封筒だ。


「これ。イグナーツさんに」


差し出された封書を、イグナーツは無言で受け取る。この国の羊皮紙よりも薄く、滑らかな紙の感触。彼は中身を確かめることなく、法衣の内ポケットへ収めた。


 その動作を、ベネディクトの目が追っていた。


「受理しました」


ユイはその動作を見届け、最後にもう一度だけ、眼鏡の奥にある瞳を見つめた。


「一つだけ聞いていいですか。——あの判決を出して、大丈夫なんですか。あなたが」


「神律に従った判決です。問題はないはずです」


「"はず"、ですか」


「……ええ。"はず"です」


ユイは何か言いかけて、やめた。代わりに手首の腕輪に触れ、祭壇のほうを振り返る。


 二年間。この世界で過ごした時間の全てが、あの青白い光の向こうに消えようとしている。楽だった。認めたくないが、楽だった。——それでも、帰る。


ユイは背筋を伸ばし、光の中へ足を踏み入れた。振り返らなかった。


 祭壇が咆哮する。青白い光が柱となって噴出し、彼女の姿を飲み込んだ。


 光が収まるまでの数秒間、地下は完全な静寂に支配される。精霊銀の燐光が消え、祭壇の魔術幾何学が沈黙し、百八十年ぶりの起動を終えた石の床だけが残った。


 焦げた空気の匂い。誰もいない祭壇。安物の腕輪すら、消えている。


「送還完了。対象の消失を確認しました」


イグナーツは淡々と告げ、神殿関係者たちに背を向けた。


 ベネディクト枢機官が、祭壇に残った精霊銀の残滓を睨みつけている。月五十万ディナールの収入源が、今この瞬間に消えた。彼の隣の神官が何か耳打ちすると、枢機官は低く「わかっている」とだけ答え、イグナーツの背中を一瞥してから、反対側の階段へと消えていった。


 その視線の意味を、イグナーツは背中で理解している。


内ポケットの封書には、触れなかった。


 地下の暗い階段を登り、祈りの鐘が鳴る回廊を抜け、白亜の執務室へと戻っていく。すれ違う神官たちが、微妙に目を逸らす。昨日まで「神判官殿」と呼んでいた連中が、今日は誰も声をかけてこない。


 法衣の重さがわずかに増したという事実だけを確認して、イグナーツは執務室の扉を開けた。


 机の上には、次の案件が積み上がっている。


イグナーツは椅子に座り、ペンを執る。


 白い部屋に、カリカリという硬質な音だけが響き始めた。


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