第22話:刑罰
「次に。送還の術式について」
ユイが一冊の文献の写しを取り出す。
「神殿の書庫、第三層、禁書棚に保管されていた文献です。"異界送還の術式と手順"。著者は百八十年前の大神官」
アウグストが遮ろうとする。
「その文献は未検証の——」
「文献の末尾に、"本術式は実施済み。聖女カタリナを元の世界に送還完了"と記録があります。実績がある。しかも大神殿の公式記録です」
傍聴席にどよめきが走る。
「私が"帰りたい"と言ったとき、大神殿は"帰る方法はない"と言いました。——嘘でした。方法はあった。百八十年前からあった。隠していた」
「なぜ隠したか。——私を帰したら"祝福料"の収入がなくなるからです」
帳簿と送還隠蔽が暴かれた。だがアウグストは、ここぞとばかりに身を乗り出した。
「原告に一つ質問があります。——あなたが送還の文献を探し始めたのは、いつですか」
「……二ヶ月前です」
「召喚から二年が経過しています。なぜ二年間探さなかったのですか」
ユイが黙る。
「帰りたいと何度も言った、とのことですが。本気で帰りたい人間が、二年間書庫を調べなかった。——本当に帰りたかったのですか?」
「帰りたかったです」
「では、なぜ」
ユイは答えない。法廷の空気だけが、重く沈んでいく。
「……元の世界で、私は中小企業の経理でした。毎日残業。手取り二十二万。休みの日は洗濯と寝るだけ。——こっちに来たら、衣食住は全部保障されて、個室をもらって、人に"ありがとう"って言われる仕事をして」
ユイの声が、かすかに震える。
「楽だったんです。認めたくないけど。元の世界より——楽だったんです」
誰も口を開けない。
「"帰りたい"って言いながら、本気で探さなかった。探さなくても暮らせたから。——それは認めます」
アウグストが畳みかける。
「つまり、あなたは自発的に留まった。これは"応じた"と何が違うのですか」
ユイがゆっくりと顔を上げた。
「違いは一つです。選んだか、選ばされたか。楽だったのは事実です。でも私はここに来ることを選んでいない。出口があることも知らされていなかった。——選べない状態で楽だったからって、それは"同意"ですか」
帳簿と送還隠蔽が暴かれてなお、アウグストは諦めない。
「原告の指摘は会計上の問題として別途検討すればよい。しかし呼応罪の構成要件は満たされています。原告は召喚され、この世界に存在し、二年間聖女として活動した。神律第七章第三条に基づき——死刑を求めます」
「私は同意していません」
「繰り返します。神律は同意を要件としていません。あなたがここにいること自体が——」
「——"応じた証拠"。わかっています。二ヶ月前に条文を読みました」
ユイの声は、もう震えていない。
「私は経理のOLです。国を割る力も、神殿を吹き飛ばす魔法も、逃亡する体力もありません。帳簿を読むことしかできません」
傍聴席がわずかにざわつく。
「読んだ上で、ここに立っています。死刑になるかもしれないと知った上で」
傍聴席の誰もが息を止めている。
「私は経理をやっていました。数字を読むのが仕事です。この二年間、帳簿を見て、条文を読んで、全部計算しました。——黙っていれば生きられる。訴えたら死ぬかもしれない。それでも訴える理由は一つです」
「私は商品じゃない」
「祝福料の原価として帳簿に載っているのは"聖女関連経費二万クローネ"。つまり私の値段は月二万クローネです。——私は月二万クローネの商品じゃない。人間です。帰りたい人間です」
◇◇◇
ルイーゼが判決文に視線を落とした。
「まず、原告ユイの請求について」
ユイが背筋を伸ばす。
「原告は、不当拘束の解除および元世界への送還の実施を求めています。しかし——王国法には異界送還を命じる法的根拠がありません。送還の術式は宗教自治区の固有技術であり、本法廷がその実施を直接命じる権限を持ちません」
「よって、原告の請求を棄却します」
法廷が静まった。ユイの顔から色が消える。傍聴席の神官たちが顔を見合わせている。勝った、という空気が宗教自治区側に広がる。
「次に、大神殿の行為について」
「大神殿による召喚は、提出された文献および証言に基づき、手続きの要件を複数充足していないものと認定します。——手続き違反」
「送還の術式が存在するにもかかわらず"帰る方法はない"と虚偽の説明を行った。——隠蔽と認定」
「祝福料の収益について、聖女への適正な分配を行わず、帳簿上も不透明な処理がなされていた。——会計上の不正と認定」
宗教自治区側の空気が一変する。勝った、と思った直後にこれだ。
「次に、宗教自治区からの反訴。原告ユイに対する呼応罪について」
法廷の全員が息を止める。
ここでルイーゼが一瞬、言葉を切った。
陪席のイグナーツが、小さく折り畳んだ紙を差し出している。いつの間に書いたのか。
ルイーゼはそれを受け取り、目を通した。数秒。表情が動かない。紙を伏せ、判決文に視線を戻す。
ベネディクトの目がイグナーツに向いた。何を渡した。だが陪席の私信を法廷で問いただすことはできない。
「本法廷は、宗教自治区の神律を直接適用する権限を持ちません。ただし、反訴として提起された以上、その法的効果については判断します」
「呼応罪の構成要件は形式的に充足している。——有罪」
法廷がざわついた。傍聴席の神官たちが頷き合っている。ユイの顔から血の気が引いていく。請求を棄却された上に、有罪。弁護人のカスパーが何か言いかけたが、ルイーゼの視線に止められた。
ルイーゼは静かに間を取った。ざわめきが収まるのを待っている。
法廷が静まり返った。全員がルイーゼを見ている。
「量刑は——神律第七章第五条の規定に基づき——強制送還を選択します」
アウグストの口が間抜けに開いた。
「……送還? 死刑ではなく?」
「死刑、投獄、追放、強制送還。いずれも神律が認めた適法な選択肢です。本件においては、被告が異界からの召喚者であることを考慮し、原状回復としての強制送還が最も適切と判断しました」
「送還費用は、不正な召喚を実行した大神殿が負担すること」
ベネディクトが立ち上がる。
「裁判官! これは——」
ルイーゼが静かに、しかし明確に答えた。
「反訴を認め、有罪にしました。刑罰も神律の規定内から選択しました。——あなた方が求めた裁きの結果です」
ベネディクトの視線がイグナーツに向いた。自分が放った矢が、自分に刺さっている。イグナーツは眼鏡の奥で、表情を変えなかった。
ベネディクトが言葉に詰まる。
「……帰れるんですか」
ユイの声が震える。自分の請求は棄却された。なのに帰れる。敵が求めた罪で、帰れる。
「あなたは有罪です。——そして、刑罰として、帰ることを命じます」
ユイの目から涙が落ちる。
◇◇◇
法廷の外。廊下。
イグナーツが壁に背を預けて立っている。ベネディクトの一行が通り過ぎるのを待っていた。
白い法衣の集団が足早に通り過ぎる。最後尾のベネディクトが、一瞬だけ足を止めた。振り返りもせず、低い声だけが廊下に落ちる。
「……覚えておけ、イグナーツ」
それだけ言って、去っていった。
イグナーツは眼鏡の位置を直し、独り言を漏らした。
「覚えておきますよ。——神律に従っただけですから」
自治区に戻れば、何が待っているか。わかっている。密命を裏切った人間の末路は、この世界のどこでも同じだ。
だが、足取りは乱れなかった。




