第21話:神律の檻
石造りの壁と磨き抜かれた木製の法壇。いつもの法廷だ。だが今日は、傍聴席の一角が異様な白さに染まっている。
宗教自治区から来た神官たちだ。純白の法衣を纏い、腕を組み、王都の法廷を値踏みするように見回している。彼らにとってここは「世俗の法廷」であり、神の秩序の外にある。
その視線を受け流しながら、ルイーゼが法壇の中央に着席した。
隣には陪席のイグナーツ・メルヒオールが座っている。宗教法の専門家として王国側が招聘した——というのが表向きだ。実際にはベネディクト枢機官が「こちらの目」として送り込んだ人間である。そのことを、ルイーゼはまだ知らない。
「書記官。開廷します」
ルイーゼの声が法廷に響く。若手の書記官が、どこか落ち着かない様子で羊皮紙を広げた。
「本日の案件。原告、ユイ。被告、聖テオフィラス宗教自治区大神殿。……内容は、大神殿に対する『不当拘束の解除』および『元世界への送還の実施』を求める訴えです」
傍聴席の神官たちが一斉に顔を上げた。
「続けて」
「これに対し、宗教自治区側からは反訴が提起されています。罪状は神律に基づく『呼応罪』。聖女としての神聖な義務を放棄し、神律を乱したことに対する——死刑の求刑です」
イグナーツの手が、一瞬だけ止まった。
◇◇◇
重厚な扉が開き、聖女ユイが入廷する。
二年前に宗教自治区へ召喚された彼女は、聖女服を脱ぎ捨て、質素な旅装で現れた。王都まで逃げてきたのだ。その顔に慈愛や法悦の兆しはない。
かつて東京の中小企業で経理を任されていたOLとしての、冷めた、そして極めて現実的な眼差し。彼女は慣れない法廷の空気に萎縮する様子もなく、淡々と原告席へ向かう。
「原告、ユイ。弁護人は」
ルイーゼの問いに、ユイの隣に座っていた若い男が立ち上がった。王都の弁護士だが、名前を聞いたことはない。宗教自治区の案件を引き受ける弁護士は少ない。
「弁護人のカスパーです。手続きの補助を行います。主張は原告本人が行います」
その言葉に、法廷の背後に控えていた宗教自治区側の席から、鼻で笑うような音が漏れる。
宗教自治区を代表するのは、神律顧問官アウグスト。法典の解釈を自在に操り、これまで数多の異端者を葬ってきた老練な法律家だ。その後ろには、ベネディクト枢機官が彫像のように深く椅子に腰掛けている。
「では、審理を開始します。原告より訴状の陳述を」
ユイは静かに立ち上がった。その声は震えておらず、むしろ乾いた響きを持って法廷に広がる。
「二年前、私は同意なしにこの世界へ連れてこられました。仕事の帰り道、横断歩道の手前で。……気がついたら、宗教自治区の祭壇にいて、『聖女様』と呼ばれていました」
彼女は一度言葉を切り、宗教自治区側の面々を見据えた。
「私はその日から、何度も言いました。『帰りたい』と。私の家があり、私の仕事があり、私の人生がある場所へ帰してほしいと。ですが、神殿の返答はいつも同じでした。『送還する方法はない。聖女として生きることが唯一の救いだ』と」
「二ヶ月前、神殿の書庫で、ある文献を見つけました。送還の方法は存在します。最初からあった。——隠されていました」
ユイはルイーゼを真っ直ぐに見た。
「私の訴えは一つです。帰してください」
ユイの訴えが終わるのを待ちかねたように、アウグストが立ち上がった。
「原告の訴えに先立ち、宗教自治区より反訴を申し立てます」
「神律第七章第三条。不正召喚呼応罪。"神の召喚に応じた者は、神の僕として奉仕する義務を負う。この義務に背く者は——最大死刑に処す"」
「原告は神の召喚に応じ、二年間宗教自治区に留まり、聖女として活動しました。これは"応じた"に該当します。そして今、大神殿を訴えている。——求刑、死刑」
法廷が凍りつく。傍聴席の神官たちが頷いている。
「……"応じた"? 私は同意していません。気づいたらここにいただけです」
「神律は"同意"を要件としていません。"召喚され、この世界に存在している"時点で成立します。あなたがここにいること自体が、応じた証拠です」
「反論はありますか」
ルイーゼの問いに、ユイは帳簿の束を机に置いた。
「あります。山ほど。——ただし法律論ではなく、数字で」
「訴えの詳細に入る前に、一つ確認させてください。大神殿の会計帳簿を提出していただけますか」
アウグストが眉を顰める。
「帳簿? 本件と何の関係が」
「私が二年間行った"祝福"の対価として、大神殿が信者から徴収した"祝福料"の総額を確認したいんです」
アウグストが立ち上がる。
「宗教自治区の内部会計は自治権の範囲です。王都の法廷に提出する義務は——」
ルイーゼが遮った。
「この法廷に出廷した以上、証拠提出命令に従っていただきます。拒否されるなら、不提出の不利益推定を適用します」
ベネディクトがアウグストの肩に手を置いた。短く何か耳打ちする。アウグストが渋々座り、帳簿が提出された。
帳簿が出てくる。ユイが受け取り、経理OLの目でページを開いた。
「……この帳簿、単式簿記ですね。お粗末すぎて笑いも出ません」
ユイが特定のページを指し示す。
「祝福料収入と神殿維持費の差額が毎月約三十万クローネ消えています。使途不明のまま。——この三十万クローネはどこに行ったんですか」
傍聴席の神官たちが顔を見合わせる。
「あと、"聖女関連経費"という項目がありますが、内訳が衣装費、食費、住居費だけで合計月二万クローネ。——私の"労働"で月五十万クローネ以上の収入を得ておきながら、私に渡しているのは月二万クローネ。利益率九十六パーセント。これ、搾取って言いませんか」
ベネディクト枢機官が口を開きかける。
「聖女は神に仕える身。世俗の報酬は——」
「"世俗の報酬は必要ない"。はい、二年間ずっと言われました。——でも神殿は世俗の金をしっかり受け取ってますよね? 神に仕えるのは私だけで、お金は神殿が受け取る。経理用語で何と言うか知ってますか。横領です」




