第20話:契約の梯子
沈黙が支配する法廷に、コンラート弁護士の足音が響く。彼はセバスティアンの目の前に一冊の分厚い法典を置いた。
「被告。あなたがどれほどハンデルスブルクの仕組みを理解していたか、確認させていただきます」
「まず、ハンデルスブルクの根幹をなす『通商隷属法典』を読んだことは」
「……ありません」
「コントラクトに認められている『身請け制度』については」
「知りません」
「コントラクトが主人の養子となった際の『相続権』については」
「……知りません」
「つまり、あなたはハンデルスブルクの法律も読まず、身請け制度も知らず、相続権の有無も調べず、何も知らずに倉庫を襲撃して契約書を燃やした。……そういうことですね?」
セバスティアンは顔を真っ赤にし、叫ぶように答えた。
「だって奴隷って書いてあったから! その名前だけで十分だ! 人を所有するなんて、どんな理由があっても許されない!」
「"奴隷って書いてあったから"」
コンラートが、その言葉を静かに繰り返した。
「名前だけ見て中身を調べなかった。看板の文字だけを見て、その中で営まれている人生の重みを想像すらしなかった。……あなたの『正義』とは、その程度のものだったわけだ」
◇◇◇
最後に証言台へ立ったのは、ルーカス・ヘルトだった。
ハンデルスブルク三大商会の一つを率いる巨頭。五十代の落ち着いた佇まいに、上質な外套。
「私は、八歳の時に行き倒れていた孤児でした」
ルーカスは静かに語り始めた。
「親もなく、金もなく、路上で死ぬのを待っていた。そんな私を拾い、コントラクトとして契約を結んでくれたのが、先代のヘルト商会当主です。彼は私に飯を与え、算術を教え、商売のイロハを叩き込んでくれた」
「私が今日こうして街の代表として立っていられるのは、あの契約書があったからです。この制度がなければ、私は名もなき死体としてドブ川に捨てられていたでしょう。我々にとって、この制度は絶望の鎖ではない。底辺から這い上がるための、唯一の梯子なのです」
ルーカスは傍聴席の商人たちを見渡した。何人かが、深く頷いている。
「ハンデルスブルクには古い格言があります。——出世したければ、奴隷になれ。聞こえは悪いが、三大商会の当主のうち二人が元コントラクトだ。格言は事実を述べているに過ぎない」
「……それは、あなたが運が良かっただけだ! 全員がそうなれるわけじゃない!」
ルーカスは動じなかった。
「しかし、全員が機会を得る。……その機会を、あなたは燃やした」
◇◇◇
「あなたは奴隷の苦しみを知らないんだ!」
セバスティアンが叫ぶ。
「裁判官様は安全な場所から、奴隷を"契約"と呼び替えて──苦しみを見ないふりをしているだけだ!」
ヴェルナーは答えなかった。答えられない。彼は没落貴族だ。コントラクトの苦しみは知らない。
だが、隣で動いた人間がいた。
ルイーゼが、法衣の内側から一枚の羊皮紙を取り出した。
端が擦り切れている。しかし大切に保管されていたことが、その折り目の丁寧さでわかる。
「被告。これを見なさい」
ルイーゼはその羊皮紙を高く掲げた。法廷中の視線が集まる。
「これは私の身請け証書です。ハンデルスブルクでは、これを『卒業証書』と呼ぶ人もいます」
傍聴席からどよめきが漏れる。商人たちの何人かが目を見開いた。
「私は幼い頃にコントラクトになりました。親も家もなく、飢え死にする寸前だった私を、ある商会が拾い、法に基づき契約を結んだ。帳簿の読み方を教わり、交渉の仕方を覚え、身請けしてここにいます。——つい数年前のことです」
「あなたが燃やした契約書は、私にとっての梯子と同じものです。私が泥沼から這い上がるために必死に掴み、一段ずつ登ってきた命綱。……あなたはそれを、二十人分、燃やした」
「……あ……」
「制度を壊すことと、制度を直すことは違います。あなたがやったのは前者です」
ルイーゼは身請け証書を丁寧に机に置いた。
◇◇◇
「判決を言い渡します」
「原告側が請求した契約残余価値三百五十万クローネについては、法廷の写しによって契約記録の復元が可能であると判断し、全額の賠償は認めません。ただし復元にかかるコスト、および不法侵入による物理的損害は甚大です」
「商会連合への賠償:倉庫損壊八万クローネ、契約書再発行十万クローネ、記録復元費用五十万クローネ。合計六十八万クローネ」
「元コントラクト十七名への賠償:契約の空白期間と精神的苦痛に対し、一人あたり五万クローネ。合計八十五万クローネ」
「賠償総額、百五十三万クローネ」
セバスティアンの顔から血の気が引く。
「次に刑事罰。不法侵入、器物損壊、契約書毀損。禁錮六ヶ月。……ただし」
「賠償金の弁済が完了するまで、通商隷属法典第二十二条を適用し、被告をデビトール──債務隷属民として、公営鉱山での労役に従事させます」
「デビトール……?」
コンラートが補足する。
「コントラクトとは違います。教育も、身請けの権利も、財産の蓄積も認められない。ただ借金を返すためだけに働く。日当から食費と管理費を差し引き、残りを返済に充てた場合──完済まで、約十二年です」
「十二年……」
「被告」
ヴェルナーが最後に告げる。
「あなたが壊そうとした制度のほうが、あなたが入る制度より遥かに人道的です。この違いを、十二年かけて学びなさい。閉廷」
◇◇◇
数ヶ月後。ハンデルスブルク郊外、公営鉱山。
煤にまみれ、粗末な麻の服を着たセバスティアンが、巨大な岩を背負って喘いでいる。彼の胸には、「4,713号」と刻まれた鉄板が揺れている。
「おい新入り。その岩、もう一つ運べ」
「僕は……解放者だ……」
「ここじゃお前は4,713号だ。名前で呼んでほしけりゃ、真面目に働け」
隣で同じように岩を運んでいた古参の男が、呆れたように声をかけた。
「兄ちゃん、何やらかしたんだ」
「……奴隷を……解放したんだ……」
「はあ? コントラクトをか? 馬鹿じゃねえのか。あいつら、飯は出るし教育もあるし、頑張れば身請けだってできる。俺なんかここ八年だぞ。あいつらのほうが、よっぽどマシだ」
マリアは新たな雇い主のもとで帳簿を広げていた。
記録は復元され、賠償金が身請け積立に加算された。
「半年遅れた。……でも、まだ間に合う」
広場では、トビアスが「おじさん」の膝の上で算術のドリルを解いている。
「ねえおじさん、"解放"って何?」
「お前が大人になったらわかるよ」
「大人になったら、自分で選べるの?」
「ああ。自分で選べる。──それが、身請けだ」
夕刻。王都中央裁判所の判事室。
ルイーゼは、身請け証書を丁寧に折り畳み、法衣の内側に戻した。
「……法廷で出すつもりはなかったんですが」
「出してよかった」
ヴェルナーが窓際で茶を啜っている。いつもの安い茶だ。
「あれは私には言えない台詞だ。没落貴族が何を言っても、制度の中にいた人間の言葉には勝てない」
ルイーゼは少し黙ってから、口を開いた。
「……次の案件ですが。ハンデルスブルクからもう一件来ています。コントラクトの契約移転に関する不服申立てです。本人の同意なしに移転されたと」
「……制度の闇のほう、ですね」
「はい」
「受理します」
ヴェルナーは茶碗を置き、次の書類に手を伸ばした。




