第19話:不法解放
石造りの壁と磨き抜かれた木製の法壇。いつもの厳粛な空気のはずだが、今日は少し毛色が違う。左右に並ぶ傍聴席を埋め尽くすのは、飾り気のない実務服に身を包んだ商人たちだ。王都中央裁判所、第三法廷に押し寄せた彼らの手元には、祈りのための聖典ではなく、使い込まれた帳簿と契約書の束が握られている。
ハンデルスブルク——王国南部の商業自治都市から、馬車で三日かけて王都まで出てきた連中だ。契約と数字で全てが回るあの街の事件を、王都の法廷で裁く。傍聴席に漂う空気がいつもと違うのは、この法廷に商都の風が持ち込まれているからだ。
法壇の中央にヴェルナー・クラフトが着席する。手元の訴状に目を通し、小さくため息を吐いた。隣には陪席のルイーゼが座っている。ハンデルスブルクの商会出身の彼女にとって、これは他人事ではない。
「書記官。開廷します。案件を」
ヴェルナーの短い指示に、若手の書記官が緊張に喉を鳴らし、羊皮紙を広げた。
「案件番号九〇五。原告、商会連合およびコントラクト十七名による共同訴訟。被告、セバスティアン・ブルーム」
商人たちが一斉に、被告席へと視線を突き立てる。
「罪状──財産権侵害、契約書毀損、倉庫不法侵入、および不法解放」
法廷が、わずかにざわついた。
ヴェルナーが、眉を動かすことなく書記官を見る。
「"不法解放"。──珍しい罪状ですね」
「はい。ハンデルスブルクの記録を遡っても、極めて稀な案件かと」
◇◇◇
重厚な扉が開き、被告人が入廷する。
セバスティアン・ブルーム。二十代半ばの青年だ。彼は枷をはめられているわけでもないのに、まるで殉教者のような足取りで被告席に立った。
驚くべきことに、その瞳には一点の曇りもない。自分こそがこの野蛮な慣習を打ち砕く「選ばれし者」であるという自負に、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
「被告、セバスティアン・ブルーム。確認しますが、弁護人は」
「いません」
セバスティアンは、迷いなく断言する。
「正義の行いに、弁護などという小細工は不要です。僕はただ、人として正しいことをした。それだけですから」
傍聴席の商人たちから、失笑が漏れる。
陪席のルイーゼが口を開いた。
「弁護人をつけることを強く推奨します。ここは感情をぶつける場所ではなく、法的手続きを交わす場所です」
「結構です。僕は奴隷を解放しただけです。この世界のどこに、それが罪になる法律があるというんですか」
原告席から、一人の男が静かに立ち上がる。
「通商隷属法典第十四条」
商会連合の代表弁護士、コンラート・フーバーだ。五十代の枯れた風貌に、氷のように冷徹な瞳。彼は手元を見ることなく、条文を口にした。
「"コントラクトの契約を、契約当事者以外の第三者が一方的に破棄・毀損することを禁じる"。違反した場合の罰則は、同法典第十五条に明確に規定されています」
コンラートは一度言葉を切り、セバスティアンを見た。
「──被告、ハンデルスブルクにはあります。あなたの言う"罪になる法律"が」
「……え?」
セバスティアンの表情が硬直する。
「それは……奴隷制度を守るための悪法でしょう? 僕はそんなものに従うつもりは──」
「従う、従わないの問題ではありません。違反したか、していないかの事実を確認しているのです」
ルイーゼが遮った。
「法廷で道徳論を戦わせたいのなら、神殿へ行きなさい。ここでは契約の毀損という『取引上の不正』が争点です。——ハンデルスブルクでは、契約書に書いてないことは存在しないのと同じですから」
ヴェルナーが引き取る。
「コンラート弁護士、請求内容を」
◇◇◇
「被告による蛮行が招いた、具体的な損害を列挙します」
コンラートは事務的に書類をめくる。
「まず、倉庫の損壊に伴う修繕費。八万クローネ」
「八万クローネ……? たかが鍵を壊しただけで──」
「特殊な魔力封印を施した扉の再施工費用を含んでいます」
コンラートの声には一切の抑揚がない。
「次に、契約書の焼失。二十名分の契約書の再発行手数料だけで、十万クローネ。しかし、真の問題は事務作業の手間ではありません。契約書には、コントラクト各人の年季の記録、身請け金の積立額、職業訓練の達成記録がすべて記載されています。原本が焼失したことにより、最新分が消えた。商業法廷の写しとの照合・復元作業にかかる費用として、別途五十万クローネを請求します」
「五十万……? 紙切れ一枚を書き直すのに──」
「その『紙切れ一枚』が、二十人の人生と労働力の価値を保証しているからです。そして、最も重いのがこれです。コントラクト二十名の、契約残余価値」
コンラートは声を一段強めた。
「各人の残り年季と月額評価額を現在価値に換算した結果──合計約三百五十万クローネ」
法廷が静まり返る。
「三百五十万……? ふざけるな! 人に、人に値段をつけるのか!」
セバスティアンの声が裏返る。
「値段ではなく契約の残余価値です。保険で言えば解約返戻金。──被告はそれを勝手に全額キャンセルした。当然弁済していただきます」
◇◇◇
「では、もう一方の原告。元コントラクト十七名を代表し、ハンナ弁護士」
ハンナ・シュトラウスが立ち上がる。
「被告は二十名を"解放"しました。そのうち十七名は解放を望んでいませんでした」
セバスティアンが叫ぶ。
「嘘だ! 奴隷が解放を望まないはずがない!」
「では一人ずつ聞きましょう。──マリア、証言台へ」
一人の若い女性が立ち上がった。二十代前半。セバスティアンを射殺さんばかりの視線で睨みつけながら証言台に立つ。
セバスティアンは彼女を見て表情を明るくした。
「マリア! 無事だったんだね。さあ、裁判官に言ってやるんだ。契約書から解放されて、どれだけ清々したか──」
「黙れ、この偽善者がッ!」
セバスティアンがのけ反る。
「自由? 解放? どの口がそんなことを言っているの! あなたのせいで、私の積み上げてきた全てが灰になったのよ!」
「な……君は奴隷だったんだぞ?」
「それが修行なんじゃない! 私はあと二年、あと二年間真面目に働けば、身請け金が貯まるはずだった。自分の店を持つ日を夢見ていたのよ!」
マリアの声が法廷に響き渡る。
「あの契約書は、私を縛る鎖じゃない。私が社会で一人前として認められるための、唯一の証明書だった。それをあなたが勝手に火を放ったせいで、『身請けへの積立記録』も、『職業訓練の修了証』も、全部消えた。ハンデルスブルクで契約を持たない者は、人間として存在していないのと同じなの!」
マリアが証言台を去り、代わって十二歳の少年が小さな体で証言台に立った。トビアス。彼はセバスティアンを睨むことすらしない。ただ困惑と不安に瞳を揺らしている。
「お兄ちゃん……なんで紙を燃やしたの? あれがないと、僕、おじさんの子供になれないかもしれないって、おじさんが泣いてたよ」
「トビアス、それは違うんだ。あのおじさんは君を労働力として……」
「僕、おじさんの家が、僕の家なんですけど。おじさんは、僕に文字を教えてくれるし、ご飯もいっぱい食べさせてくれる。大人になったら、おじさんみたいに立派な商人になれって言ってくれるんだ」
トビアスが証言を終え、保護者のもとへ駆け寄る。ルイーゼはその姿を見届け、被告席のセバスティアンに視線を固定した。
「被告。十二歳の孤児を"解放"して路上に放り出すことが、あなたの正義ですか」
「それは……もちろん、解放した後のケアも必要だと思っています。支援の手配もせずに放り出すつもりは──」
「支援の手配もせずに解放したのですか」
「……はい」




