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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-803号 婚約破棄裁判 違約金請求事件
14/29

幕間:ヴェルナー・クラフト判事の休日

 法服を着ていないヴェルナー・クラフトは、ただの痩せた男だった。


 王都の外れにある安いカフェ。窓際の席。一番安い茶を頼んで座っている。新聞は買っていない。新聞代も惜しい。没落貴族の判事の給料では、休日に贅沢をする余地がない。実家への仕送りと胃薬代を引いた残りで、月に一度だけここに来る。

 窓の外を見ている。何を見ているのでもない。何もしていない。

 法廷ではあれだけ切れ味のある判決を出す男が、休日にはこうして一人で座っている。友人が来る気配はない。来る友人がいないからだ。


 扉が開いた。


 派手な男が入ってきた。紫のコートに金の装飾。上機嫌。靴の踵が床を鳴らす音だけで、カフェの空気が変わる。

 ヴィクトール・レンツ。王都で最も嫌われている弁護士。数日前に婚約破棄裁判で三百万クローネを稼いだ男。たまたま入ってきただけだ。計算ではない。

 ヴィクトールがヴェルナーに気づいた。一瞬の間。それから笑顔で向かってくる。


 ヴェルナーの表情が固まった。帰りたい。だが茶がまだ残っている。一番安い茶を残して立つのは、没落貴族の矜持が許さない。


「隣、いいですか」


「……いい席が他にある」


 ヴィクトールはもう座っている。

 店員を呼び、何か長い名前の茶を注文した。ヴェルナーは聞いたこともない銘柄だった。値段は聞かないことにする。


「あなたと二人でいるところを見られたくない」


「安心してください。僕はあなたの法廷に立ったことがない」


「マティアスが毎回泣いている」


「泣いてはいません。胃薬を飲んでいるだけです」


 ヴェルナーは窓の外に目を戻した。ヴィクトールは構わず喋り続ける。法廷の外の男は、法廷の中と同じくらいよく喋った。ただし芝居がかった調子は消えている。普通の声だ。どこそこの判事が異動した、新しい法律の草案が出回っている、冒険者ギルドの顧問弁護士のポストが空いた。

 同業者の世間話。ヴェルナーは短く相槌を打つだけだ。

 ヴィクトールの茶が届く。一口飲んで、眉を上げた。それから唐突に言った。


「あなた、弁護士にならないんですか」


 計算ではなく、本当にふと出た言葉のように聞こえる。


「あなたの判決文は読んでいますよ。追放裁判のも、その後のも。論理構成が美しい。あれで弁護側に立ったら相当稼げる」


「裁判官です」


「裁判官の給料であの安い茶を飲んでいる」


 ヴェルナーは答えなかった。


「僕の事務所なら初年度で今の年収の五倍は保証できます。能力があるのにお金がないのは、この世界で最も非効率な状態です」


「法廷に立つ側の仕事には興味がない」


「興味がないのか、怖いのか」


 ヴェルナーは茶碗を見つめた。


「……どちらでも、答えは同じです」


 ヴィクトールはそれ以上踏み込まなかった。法廷では相手を際限なく追い詰める男が、このテーブルでは一線を引いている。

 しばらく黙った。ヴィクトールがまたどうでもいい話を始め、ヴェルナーが短く返す。その繰り返し。カフェの客は少ない。午後の光が窓から差し込んで、埃が舞っているのが見えた。

 ヴェルナーが一つだけ聞く。


「あなたは判決の後、眠れないことはあるか」


「僕は弁護士です。判決を出すのは僕じゃない」


「……そうだな」


「だから弁護士のほうが楽ですよ。判決の重さを背負わなくていい」


「それは勧誘か」


「事実です」


 ヴェルナーは茶を飲んだ。冷めている。

 ヴィクトールは何か気づいている顔をしていた。けれども聞かない。代わりにまた別の話を始める。ヴェルナーはもう相槌も打たなくなっていた。

 窓の外の光が傾き始めている。


 ヴィクトールが先に立った。


「ごちそうさまでした。——あなたの分も払っておきます」


「いらない」


「癒着にならない金額です。茶一杯ですから」


「……勝手にしろ」


 ヴィクトールが去る。カフェに一人残った。

 冷めた茶と、ヴィクトールが置いていった代金。テーブルの上に小さな硬貨が二枚。


◇◇◇


 翌朝。

 ヴェルナーが法服を着て席に着く。法服を着た瞬間に、昨日の痩せた男は消えて裁判官になる。


 ハンスが案件を読み上げた。


「午前、パン屋への侵入窃盗。午後、離婚調停」


 ヴェルナーが小さく頷いた。


「開廷します」


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