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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-803号 婚約破棄裁判 違約金請求事件
11/29

第11話:金の匂い

「最高の依頼人ですね。公爵家、違約金条項、公開破棄。——金の匂いがします」


 王都の一等地に構えた事務所で、ヴィクトール・レンツはうっとりと目を細めた。

 調度品はどれも高価だが、その趣味は吐き気がするほどに派手だ。金色の縁取りがなされたソファに深く腰掛け、彼は手元の書類を一枚ずつ、慈しむようにめくっていく。ページが進むたびに、その瞳は金額を計算する光を帯びる。感動しているのではない。値踏みしているのだ。


「……最初にそれですか」


 対面に座るカタリナ・フォン・シュヴァルツが、鋭い目つきをさらに険しくする。名門公爵家の令嬢であり、法学院を優秀な成績で卒業した知性派でもある。その彼女が、卒業式典という晴れ舞台で、来賓五百名の前で婚約破棄を叩きつけられた。理由は、聖女リリアーネに対する「いじめ」。

 いじめの事実はない。少なくとも、カタリナはそう主張している。


「勝てない裁判は受けません。僕は慈善事業家ではないので。——安心してください。あなたの勝率は九十二パーセントです」


「残り八パーセントは?」


「面白い裁判になる確率です。——あなたが嘘をついている可能性も、もちろん含まれていますが」


「嘘はついていません」


 カタリナが断言する。ヴィクトールは契約書の第十四条を指でなぞる。「正当事由なき破棄の場合、婚約期間一年あたり二百万クローネの違約金」。婚約期間三年で六百万クローネ。慰謝料と合わせて一千万クローネの請求。この契約書をカタリナ自身が起草したという事実に、ヴィクトールは職業的な敬意すら覚えている。暗算を終え、満足げに頷いた。


「カタリナ嬢。あなたもかなり性格が悪い。婚約三年目でこれほど精密な破棄前提の条項を設計する女性は、およそ善良な婚約者とは言えません。——僕はそういう依頼人が大好きです」


「……あなた、弁護士の中で最悪と聞いていましたが」


「最悪で最強です。——で、ご注文は。勝つだけでいいですか。それとも恥もかかせますか」


「勝つだけでなく、恥をかかせてください」


「追加料金はいただきません。恥をかかせるのは趣味なので」


◇◇◇


 マティアス・ブラント判事は、法服の重みよりも胃のあたりに居座る鈍い痛みを感じながら壇上に上がった。

 今日の顔ぶれを見る限り、ここは真理を追究する場ではなく、質の悪い喜劇の舞台にしか見えない。原告席には派手な紫のネクタイを締め、優雅に脚を組む男。王都で最も嫌われている弁護士、ヴィクトール・レンツ。この男がこの法廷に現れる日は、決まって裁判長室の胃薬の備蓄が底を突く。


「判事、胃薬は持ってきましたか? 僕の裁判は健康に悪い」


「……弁護人。開廷前に裁判長を煽らないでください」


 マティアスは開廷を宣言した。令嬢側は違約金六百万+慰謝料四百万の計一千万クローネ。王子側はいじめの認定+慰謝料五百万クローネの反訴。


「極めて単純な案件です。王子が契約を破った。以上」


 ヴィクトールが手元の書類をひらひらと振った。対する被告席には王室お抱えの宮廷弁護士、オスヴァルト・フォン・リヒター。五十代、銀縁眼鏡、仕立ての良い法服。第一幕の追放裁判にも登場した慇懃無礼の権化だが、今回は本気の闘志を孕んでいる。


「本件は聖女への度重なるいじめに基づく正当事由の破棄です。債務不履行は成立しません」


 被告席の隣に座るフリードリヒ王子。金髪碧眼、正義を信じて疑わない澄んだ瞳。聖女リリアーネの手を優しく握り、守護騎士のような表情で頷いている。絵画のように美しい。だが事実確認を放棄した暴君と紙一重であることに、本人は微塵も気づいていなかった。


「殿下は善意の人だそうです。しかし安心してください。善意が役に立つのは、事実確認をした場合だけです」


 ヴィクトールが鞄から一束の報告書を取り出した。学術倫理委員会の刻印が押された調査報告書である。


「いじめの第一件目。論文盗作の指摘について。聖女リリアーネの論文は、カタリナ嬢の卒業論文と七八パーセント一致。委員会が悪質な盗作と正式に認定しています。事実を指摘することは正当な行為です。これをいじめと呼ぶのは、泥棒を捕まえた警備兵を暴力犯と呼ぶようなものだ」


 フリードリヒ王子が立ち上がった。


「しかしリリアーネはあの時泣いていたんだ!」


「殿下。盗作がバレたら泣くでしょうね」


 マティアスが「座りなさい、殿下」となだめる。ヴィクトールの先制は鮮やかだ。けれども、オスヴァルトが静かに立ち上がる。


「指摘の内容が正当であることは認めましょう。しかし、問題にしているのはその方法です」


 オスヴァルトの声は低く、重い。


「カタリナ嬢はこの事実を学術倫理委員会に事前報告することもできた。にもかかわらず、王子殿下が同席する学術発表会の場で、最も公開的で、最も屈辱的な方法を選んでいる。発表会の"前に"解決する手段があったのに、しなかった。この事実だけを裁判官殿にはお留め置きください」


 ヴィクトールは涼しい顔で次の証拠を取り出した。


「第二件。聖女が王立図書館の立入禁止区域に入った際の通報。国宝級の魔導書が保管されている区域であり、通報は市民の義務です。第三件。社交場での冷たい態度。医師の診断書をご覧ください。カタリナ嬢は三十九度の熱で早退の準備中でした。高熱の患者に笑顔の接客を強要する。それこそがいじめではありませんか」


 全件正当。マティアスは証拠を眺め、頷かざるを得ない。ところが、オスヴァルトが再び切り込んできた。


「全件正当。その通りです。——しかし、全件が王子殿下の目の前で行われている」


「立入禁止区域の通報も、守衛に任せることができた。にもかかわらずカタリナ嬢は、殿下と聖女が親密に語らっている現場にわざわざ踏み込んでいる。個別には全て正当な行為です。しかし——いつ、どこで、誰の前で行われたか。全ては殿下の目の前であり、全ては聖女が最も惨めな思いをする形だ」


 マティアスが眉をひそめた。


「カタリナ嬢は法学院卒の知性をお持ちです。その知性で——合法的ないじめを設計した」


 法廷がしんと静まり返る。ヴィクトールの「正当性」という鎧に、初めて亀裂が入った。


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