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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-502号 薬師覚醒 損害賠償請求事件
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第10話:ヘルムートの五段構え

「……聞いてないわよ」


 ゲルダ・モーゲンシュテルンの声が、法廷の床を這うように響いた。


 ヘルムートの第四撃は、帳簿から始まった。


「被告人リーゼ・ハイルマンは、事業開始から八ヶ月目に、王都北区の旧伯爵邸を二千万クローネで購入しています。敷地八百坪。しかしながら、この時点での累計利益は最大に見積もっても約三百六十万クローネ。差額の一千六百四十万クローネは、どこから出たのですか」


 ゲルダが手元の資料を握りつぶしかけた。


「伯爵邸を買ったなんて、私、聞いてない」


 ヘルムートは構わず続ける。


「被告の従業員三名——いずれも冒険者Bランクの男性——に対し、給与五万クローネとは別に"薬草採取業務委託費"として月十万クローネが支払われています。合計月三十万クローネ。しかし税務局の調査により、この三十万クローネは従業員の口座を経由して被告の別口座に還流していたことが確認されました。架空の業務委託費を経費として計上し、所得を圧縮していた。脱税です」


「従業員がイケメン冒険者ばかりなのは」


 ゲルダがリーゼを睨んだ。


「……たまたま……?」


「業務委託費の還流は」


「…………」


 三連続の「聞いてない」。百戦錬磨の弁護士が、依頼人の隠し事に足元を掬われ続けている。ゲルダの手が、椅子の肘掛けを白くなるまで握りしめていた。


「さらに、検察側は証拠物件を入手しました」


 ヘルムートが机に置いたのは一冊の本だった。第五撃。


「タイトルは『追放薬師は静かに笑う』。リーゼ・ハイルマンの半生をもとにした小説です。あらすじは、"追放された薬師が覚醒し、かつての仲間を見返す"。帯の推薦文にはこうあります。"追放した勇者が後悔する姿が最高でした!"。印税の五十パーセントが被告に支払われている」


 さらにヘルムートは指摘した。第三段階では、ポーション事業の利益の一部を印税収入として計上し、事業利益を少なく見せていた疑いがあると。

 被告は「ざまぁ」の物語を売って儲けている。しかもその物語は、彼女が現実に実行した市場破壊そのものだった。


◇◇◇


 ゲルダの反論が始まる。だが、崩せない。


「"意図的攪乱"と"未必の故意"は区別されるべきです——」


 ヘルムートが条文と判例で潰す。


「被告のポーションにより、冒険者の死亡率が十四パーセント低下した事実があります——」


「量刑の考慮事項であり、構成要件の充足とは無関係です」


 ゲルダの武器が、ことごとく弾き返された。ヘルムートが積み上げた数字と判決の城壁は、正論でも暴論でも崩れない。


 最終弁論。ゲルダは立ち上がった。負けを認めた上での、最後の一矢だ。


「法がこの被告人を罰するというのなら——それは法が、命を救った人間を罰する法律だということです」


 その声は、裁判官席のヴェルナーにだけ向けられていた。


◇◇◇


「被告人、最終陳述を」


 リーゼがゆっくりと立ち上がった。真っ直ぐにヴェルナーを見つめている。


「……半分は、本当です」


 法廷が息を詰めた。


「安くていい薬をみんなに届けたい。怪我をした人を助けたい。その気持ちに嘘はありません。最初の四ヶ月は、本当にそれだけでした」


 リーゼは目を伏せた。それから、何かを振り切るように顔を上げた。


「でも、悔しかったんです。覚醒したとき、"見返してやる"と思いました。市場のデータを調べたのは、効率よく稼ぐためです。安く売れば既存の薬屋が潰れて自分だけ残れるとわかっていました」


 声が、かすかに震えている。


「薬屋組合から手紙が来たとき——"値下げをやめてくれ"という手紙です——"効いてる"って、嬉しかった。伯爵邸は買いました。従業員は……顔で選んだのは本当です。経費のことは、弁護士の先生に相談すべきでした。値上げの"転売対策"は口実です。もっと稼げるとわかったから」


 傍聴席の元薬屋の店主たちが、石のように固まっている。


 リーゼは一度俯いた。それから顔を上げる。


「でも——エルマさん。あの人の店が潰れたのは——それだけは、本当に申し訳なかったと思っています」


 善意と悪意の告白。聖女でも悪人でもない、一人の人間がそこにいた。ヴェルナーは判決書に目を落とした。


◇◇◇

 ヴェルナーは判決書を開いた。胃の痛みは不思議と引いており、もはや薬では届かない深さまで冷え切っていた。


「主文」


 ヴェルナーの声が法廷に響く。被告席のリーゼが肩を小さく跳ねさせた。ゲルダは祈るように手を組んでいる。ヘルムートは微動だにしない。


「被告人リーゼ・ハイルマンを、有罪とする」


「経済秩序法第七条の構成要件は充足している。市場データの閲覧、三段階にわたる計画的な経営、減産後の価格引き上げ。いずれも"意図的な攪乱"の認定を免れない」


 ヴェルナーの声だけが法廷に響いていた。


「"基準がなかった"は無罪の理由にならない。基準を作るのは立法の仕事であり、立法の不作為が被告人の行為を合法にするものではない。裁くのは司法の職責である」


 一度、言葉を切った。


「ただし。被告人のポーションにより、冒険者の死亡率が十四パーセント低下した事実。前科がないこと。動機の全てが私利私欲ではなかったこと。これらを量刑において考慮する」


「懲役五年の実刑。および罰金一千万クローネの支払いを命じる」


 リーゼが泣き崩れた。声にならない嗚咽が法廷に広がる。ゲルダが肩を支えたが、何も言えなかった。


 ヴェルナーは判決書を閉じ、立ち上がった。法服を翻し、壇上を降りようとする。

 足が止まった。


 裁判官として、決して口にしてはいけない言葉が喉元までせり上がっている。法に従い、正しい判決を下した。構成要件を満たし、量刑も適正だ。何も間違ってはいない。

 何も間違ってはいないのに——。


「…………すまない」


 その呟きがリーゼの耳に届いたのか、虚空に消えたのか。

 ヴェルナーは振り返らなかった。


◇◇◇


 一ヶ月後。


 リーゼは収監されていた。独房で何もしていないらしい。


 王都のポーション市場は、さらに悪化している。リーゼが二百クローネで売っていたものと同等の品が、闇市場では八百クローネを超えていた。一度壊滅した生産ラインと熟練の薬師は戻らない。

 冒険者の死亡率が再び上昇し始めている。リーゼのポーションで十四パーセント下がっていた数字が、元に戻りつつある。戻りつつある、というのは人が死に始めているということだ。


 覚醒規制法は王宮で揉めている。利権争いで、今期も成立の見込みがない。


 ヴェルナーの執務室。新聞を広げている。見出しは「"安すぎた薬師"の不在が招く危機」。


「判事。明日の案件ですが」


 ハンスが書類を差し出す。


「追放覚醒者による市場崩壊が、別の町でも——」


「……知っている」


 ヴェルナーは窓の外を見た。

 一年前と同じ夕焼け。一年前と同じ王都。だが街の中身は、一年前より確実に壊れている。法を正しく適用した結果として。


 卓上の胃薬の小瓶を手に取った。蓋を開ける。

 白い錠剤が、手のひらの上で転がった。


 飲まなかった。


「……この世界は、何も学ばない」


 一年前と同じ台詞だ。

 だが、その重さは比べものにならなかった。


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