第5話 百羽の、YES
朝。
目が覚めて最初にしたことは、スマホを確認することだった。
日向からのメッセージは、まだそのままそこにあった。
「明日、少しだけ付き合ってほしいところがあります。驚かせたりしないので」
既読のまま、返信はしていない。
驚かせたりしない、か。
洗面台の鏡を見た。訓練計画メモの跡が、テープの粘着でうっすら残っている。
憶平はそれを指でなぞってから、いつもより少しだけ深く、息を吸った。
今日は——戦わないでいよう。
在庫管理室。
吉岡がいつもより早く出社していた。珍しい。
「おはようございます」
「おう」吉岡はコーヒーを飲みながら、モニターを見たまま言った。「今日、新倉さんとどっか行くんだろ」
「……なんで知ってるんですか」
「なんとなく」
憶平は鞄を置き、椅子を引いた。今日は、まだ鳥が出ていない。
「吉岡さん」
「なに」
「僕が驚くたびに鳥が出ることを、ずっと知ってましたよね」
吉岡の手が、少し止まった。
「……まあ」
「なんで言ってくれなかったんですか」
少しの間があった。
「お前が、自分で気づく方がいいと思って」吉岡はモニターを向いたまま言った。「あと——鳥、別に迷惑じゃなかったし」
「迷惑だったと思いますよ」
「会議室のカラスはちょっとな」
「ですよね」
「でもまあ」吉岡はコーヒーをすすった。「あれのおかげで、会議が10分休憩になったから。ちょうどトイレ行きたかったし」
憶平は脱力した。
「……それは、よかったです」
「行ってこい、今日」
吉岡はそれだけ言って、またモニターに向き直った。
昼休み。日向が入口で待っていた。
「来てくれてよかったです」
「……返信できなくて、すみません」
「いいですよ、来てくれたので」
日向は歩き出し、憶平はその隣に並んだ。
会社の裏手を抜け、小さなビルの屋上へ続く外階段を上る。
「ここ、どうやって見つけたんですか」
「入社した週に、ひとりで会社の周り全部歩いたんです。好きな場所を見つけておこうと思って」
「……几帳面ですね」
「お互い様じゃないですか」
言い返せなかった。
屋上のドアを開けると、風が来た。空が広かった。小さなプランターがいくつか並んでいるだけの、何もない場所。でも確かに、空が近かった。
「いい場所でしょう」と日向が言った。
「……はい」と憶平は言った。
ベンチに並んで座り、それぞれコーヒーを飲んだ。憶平はカフェインレス、日向はブラック。
しばらく、黙っていた。
風が吹くたびに、プランターの葉が揺れた。遠くで工事の音がして、鳥が一羽、空を横切った。
本物の鳥だ。僕が出したやつじゃない。
そう思ったら、少し可笑しかった。
「佐藤さん」と日向が言った。
「はい」
「一個聞いてもいいですか」
「……はい」
「私のこと、どう思ってますか」
風が止まった気がした。
プランターの葉が、一瞬静止した。
憶平は手の中の紙コップを見た。カフェインレスの、薄いコーヒー。心臓がバクバクするのが嫌だから選んだやつ。でも今、心臓は普通にバクバクしていた。
「変なこと聞いてごめんなさい」と日向が続ける。「でも、ちゃんと聞きたくて」
「……変じゃないです」
憶平は、紙コップから目を離せないまま言った。
「その……」
憶平は口を開いた。
何を言えばいいか、わかっていた。頭の中には、ちゃんとある。ずっと前から——気づいていたのかもしれない。
ただ、言ったことがなかった。こういうことを、誰かに向かって、言ったことが。
「日向さんのことが」
バサ。
足元から、ハトが1羽飛び立った。
「——ずっと、気になっていて」
バサバサ。
2羽、5羽。
「昼休みのたびに、会えるのが」
バサバサバサ。
10羽。ムクドリ、スズメ、ヒヨドリ——種類も数も、もう数えられない。
「名前を呼ばれるだけで、なんか、温かくて」
20羽、50羽。
屋上が鳥で埋まり始めた。真っ白なハトが宙に広がり、色とりどりの小鳥が空へ散っていく。羽ばたきの音が重なって、風のようになった。
日向は呆然と空を見上げていた。
「っ……ずっと、そばにいたくて……!」
100羽。
屋上の空が、白と色彩で溢れた。
鳥たちは混乱しているわけでも、パニックになっているわけでもなかった。ただ、飛んでいた。気持ちよさそうに、幸せそうに——初めて会った日、日向が言ったように、ふわふわと。
日向は空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと憶平を見た。
頬が、少し赤い。
「すごい……これ、全部『YES』ってことでいいんだよね?」
「いや、その……」
憶平は顔を両手で覆った。
真っ赤だった。
「い、言葉で言えなくて、申し訳ございません……!」
「謝らなくていいです」日向の声が、少し笑っていた。「十分すぎるくらい、伝わりました」
その時。
鳥たちが少しずつ空へ散り始め、屋上が静けさを取り戻そうとしていた——その最後に。
一羽だけ。
見たこともないくらい派手な鳥が、ゆっくりと憶平の足元から飛び立った。
全身に金と紅のグラデーション。長い尾羽が、風にゆっくりとなびく。これまで飛び立ったどの鳥とも違う、重さと艶のある羽ばたきで、二人の頭上をゆっくりと旋回した。
極楽鳥だった。
日向が吹き出した。
「あはは、今の絶対『大好き』って意味でしょ!」
憶平は顔を覆ったまま、何も言えなかった。
言えなかったが——否定は、しなかった。
鳥たちは、もう空の向こうへ消えていた。
屋上には静けさが戻り、風だけが吹いていた。
プランターの葉が揺れる。どこかで本物の鳥が、のんきに鳴いている。
「佐藤くん」
日向が呼んだ。「さん」ではなく、「くん」だった。
「……はい」
「顔、見せてください」
憶平はゆっくりと、両手を下ろした。
まだ赤い顔で、正面を向いた。
日向は、笑っていなかった。
さっきまでの笑いが収まって、真っ直ぐな、あの目をしていた。公園でノートを開いていた目。でも今は——少し違う。
もっと近くにある、目だった。
「私も」と日向は言った。
たった二文字だった。
「ずっと、確認してたんです。自分の気持ちが本物かどうか。でも——」
日向は少し笑った。照れた笑い方だった。
「佐藤くんが『嬉しいな』って言えるようになったから、私も言えます」
「……昨日の夜、誰も聞いてなかったはずですが」
「聞いてないですよ」日向が笑った。「でも、伝わってました。スズメが教えてくれたので」




