第4話 抑えようとするほど、鳥は増える
真実を知った翌朝。
憶平は、いつもより10分早く起きた。
洗面台の鏡に、昨夜書いたメモを貼ってある。
「動じない男になる 佐藤憶平・訓練計画」
1.毎朝、マインドフルネス動画を10分視聴する
2.驚きの予兆を感じたら、腹式呼吸3回
3.「これは驚くに値しない」と心の中で唱える
4.厚底ブーツを新調する(足元強化)
我ながら、完璧な計画だと思った。
マインドフルネス動画をイヤホンで聴きながら家を出る。「あなたの感情は、あなた自身ではありません」と講師が言った。
そうだ。驚きは、僕ではない。僕は、驚かない。
駅の改札で、ICカードの残高が足りなかった。
「ひっ……!」
駅のコンコースに、スズメが2羽。
マインドフルネスの講師が、イヤホンの中で穏やかに言った。「焦りを感じたら、ただ、観察してみましょう」
「観察してる場合じゃないんです……!」
在庫管理室。
憶平は机に座り、静かに腹式呼吸をしていた。
吉岡が出社してくる。
「おはよ」
「おは——」
落ち着け。吉岡先輩の声だ。驚くに値しない。これは驚くに——
「——よう……ございます」
ムクドリ、1羽。
「あ」と吉岡が言い、窓を開けた。「今日は出るの遅かったな」
「……訓練の、成果です」
「1羽出てるけど」
「先週は2羽だったので、半減です」
「……まあ、そうか」
吉岡は納得したような、していないような顔でコーヒーを淹れた。
10時。検品作業中に、棚から在庫ファイルが落ちた。
「ひっ……!」
ヒヨドリ、2羽。
なんで2羽なんだ。吉岡先輩のときより多い。ファイルの落下音がそんなに怖かったのか僕は。
腹式呼吸。「これは驚くに値しない」と心の中で唱える。
11時。隣の部署の電話が鳴った。
「んっ……!」
スズメ、1羽。
電話音に、スズメ。どんどん感度が上がっている気がする。
11時半。外を通りかかった台車の「ガラガラ」という音に、オナガが1羽。
憶平は顔を伏せた。
「吉岡さん」
「なに」
「僕は今日、事務所内で何羽出しましたか」
「……えーと」吉岡は指を折りながら数えた。「ムクドリ、ヒヨドリ2、スズメ、オナガ。計5羽」
「先週の月曜は」
「3羽」
「……悪化してます」
「うん」
「なんでですか」
「知らん」
吉岡はそれ以上言わなかった。でも、また「何か言いたそうな顔」をしていた。
昼休み。公園のベンチ。
「今日、午前中だけで5羽出ました」
憶平が報告すると、日向は弁当のふたを開けながら「増えましたね」と言った。
「増えたんです。なぜか。訓練を始めたのに」
「うーん」日向は少し考えた。「逆じゃないですか」
「逆、とは」
「抑えようとしてるから、逆に敏感になってるんじゃないかなって。驚くまい、って身構えると、全部の音や気配が『これは驚くべきか』ってレーダーにかかるようになる。結果、何でもないものにまで反応してしまう」
憶平は黙った。
「……スポーツでも同じで、『ミスするな』って思ってプレーするとミスが増えるじゃないですか」
「運動は、あまり得意でなくて……」
「そうか、ごめんなさい。えっと——仕事でもそうですよね。『絶対に計算ミスをしないぞ』って思って電卓を叩くと、逆に指が滑るというか」
「それは……わかります」
「同じだと思います、たぶん」
「じゃあどうすれば」
日向は少し間を置いて言った。
「怖いものが怖い、嬉しいものが嬉しい——そのまま感じてみたら、どうですか。戦わないで」
「そんな……」憶平は眉を寄せた。「そんな、怖いこと」
「怖いんですか、感じることが」
「……だって、感じたら、鳥が出るじゃないですか」
「出ていいんじゃないですか」
「よくないですよ! 会議室でカラスが出てもいいわけがないでしょう!」
日向が笑った。声に出して、くすくすと。
「それはそうか」
「笑いごとじゃないです……」
「ごめんなさい。でも——出ちゃったものは、しょうがないじゃないですか」
午後の業務。
日向の言葉を反芻しながら、憶平は検品作業を続けた。
戦わないで、か。感じたまま、か。
それができれば苦労はしない。
15時。梶原専務が在庫管理室に現れた。
「佐藤くん! ちょっといいか、第三倉庫の件で」
憶平は全力で腹式呼吸した。
これは驚くに値しない。専務は毎週来る。大声も毎週出す。わかっている。慣れている。落ち着け、落ち着くんだ——
「資料持って会議室に来てくれる? すぐ!」
「は、はい……!」
落ち着け——
「今すぐ!」
「ひいぃ!!」
在庫管理室から、ムクドリが4羽・ヒヨドリが2羽・ハトが1羽、合計7羽が一斉に噴出した。
部屋が、鳥で埋まった。
吉岡が素早く窓を全開にする。専務が「うおっ」と後退する。鳥たちが廊下へ流出し、廊下を歩いていた庶務の田村さんが「きゃっ」と書類を散らす。
「も、申し訳ございません!! 田村さん!! 書類!! 管理会社に!!」
「佐藤くん落ち着いて!」と専務が言い、憶平が「専務が落ち着いてください!!」と叫び、吉岡が「両方落ち着いて」と窓から顔を出したまま言った。
廊下の鳥が全部出て行くのに、5分かかった。
憶平はその場にしゃがみ込み、コロコロをかけながらぼそぼそと言った。
「……先週より、ひどくなっています」
「うん」と吉岡が言った。「7羽は新記録じゃないかな」
「新記録、嬉しくないです……」
専務は呆然としながらも「まあ、気にすんな」と言い、資料を自分で取りに来た。悪い人ではないのだ、この人も。
終業後、憶平が残業していると、日向が顔を出した。
「今日の午後、廊下で鳥に遭遇しました」
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいです。ハト、かわいかったので」日向は部屋に入り、憶平の向かいの椅子に座った。「どうでした、今日」
「最悪でした」
「正直に言いますね」
「最悪だったので」
日向がくすりと笑った。憶平は少し、むっとした。
「笑わないでください」
「ごめんなさい。でも——最悪だったって、ちゃんと言えたじゃないですか」
「……は?」
「佐藤さん、いつも『申し訳ございません』しか言わないじゃないですか。最悪、って言ったの、初めて聞いた気がします」
「そ、それは……言葉の勢いで……」
「いいと思いますよ」日向は真顔で言った。「最悪なものを最悪と言えるのは、大事なことです」
憶平は返す言葉を探した。見つからなかった。
「……日向さんは」と、気がついたら言っていた。「なんで、そんなに……僕のことを、ちゃんと見るんですか」
静かな問いだった。自分でも意外なほど、静かに出てきた。
日向は少し間を置いた。
「佐藤さんの鳥、正直で、いいなって最初に言いましたよね」
「……はい」
「感情が全部、外に出る。隠せない。誤魔化せない。——私、そういう人が好きなんですよ、たぶん」
「たぶん、って」
「私も、今、確認してる最中なので」
その言葉の意味を、憶平はうまく処理できなかった。
「確認、って……」
「まだ秘密です」
日向は立ち上がり、鞄を持った。「おやすみなさい、佐藤さん」
「……おやすみなさい」
日向が出て行ったあと、在庫管理室に憶平ひとりが残された。
確認してる最中。
胸のあたりが、じわりと熱くなった。
チュン。スズメが1羽、控えめに飛び立ち、窓の外へ消えた。
憶平は、窓を閉めるのを忘れたまま、しばらく椅子に座っていた。
帰宅後。
憶平は洗面台のメモを剥がした。
「動じない男になる 佐藤憶平・訓練計画」
しばらく見つめてから、ゴミ箱に捨てた。
戦わないで、か。
スマホが鳴った。日向からのメッセージだった。
「明日、少しだけ付き合ってほしいところがあります。驚かせたりしないので」
既読をつけた。返信しようとして、何を書けばいいかわからなかった。
「驚かせたりしないので」。
その一言が、胸のどこかに、すとん、と落ちてきた。
今まで誰も、そんなことを約束してくれたことはなかった。
チュン——と、部屋の隅でスズメが1羽、小さく飛び立った。
憶平は顔を上げ、スズメを見た。
それから——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……そうですね」と、誰もいない部屋で呟いた。
「嬉しいな」




