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足元から鳥が立つ  作者: 琴坂伊織


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第3話 鳥図鑑と、秘密の共有

 朝。憶平はいつものルーティンをこなしながら、昨日のことを考えていた。


 観察日記。まだ秘密。


 何の観察か。自分の、何を記録しているのか。鳥のことか。それとも——


「佐藤、ぼーっとしてんぞ」


 吉岡の声に肩が跳ねる。チュン、とスズメが1羽。


「す、すみません……!」


「昨日のカラス、庶務の人たちに噂されてたぞ。『在庫管理の人が呼び込んだ』って」


「そんな……! 僕は断じて呼び込んでなどいません……!」


 吉岡は何も言わず、ただコーヒーをすすった。その横顔が、何か言いたそうに見えたのは気のせいだろうか。



 昼休み。


 憶平がいつもの隅の席へ向かおうとすると、日向が入口で待っていた。


「佐藤さん、今日は外で食べませんか」


「外、ですか」


「近くに公園があるんです。風が通って、気持ちいいですよ」


 外は、鳥が多い。


 そう思ったが、「申し訳ございません、外は少し……」と言いかけて、止まった。


 日向の目に、昨日と同じ、あの観察するような色があった。


 断ったら何かを確認されてしまいそうな、根拠のない予感。


「……少しだけ、なら」


 公園は会社から歩いて3分の小さな広場で、ベンチが数脚あるだけの静かな場所だった。昼時だが人は少ない。木漏れ日が落ちて、遠くで鳥が鳴いている。


 憶平は背後が壁になるベンチを選んで座った。


 日向はその隣に、当然のように腰を下ろした。


 弁当を半分食べたところで、日向がバッグからノートを取り出した。


「見せたいものがあって」


 A5サイズの、表紙に小さな鳥のシールが貼られたノート。開くと、几帳面な字がびっしりと並んでいた。


「10/14(月) 食堂 スズメ×1 発生状況:弁当の卵焼きを食べた直後 憶平さんの表情:わずかに緩む」


「10/15(火) 会議室 カラス×1 発生状況:梶原専務に突然指名された直後 憶平さんの表情:硬直→パニック」


「10/14(月) 在庫管理室(吉岡先輩談) ムクドリ×2 発生状況:背後から肩を叩かれた直後」


 ページをめくると、まだ続く。鳥の種類、サイズ、羽ばたきの強さ、発生タイミング、そのときの憶平の状態——全部が、丁寧に記録されていた。


 欄外に小さく走り書きがある。


「驚きの強度と鳥のサイズ、比例してる? カラス>ムクドリ>スズメ 要検証」


 憶平は、ノートから目を離せなかった。


「……これは」


「佐藤さんが入社してからの、鳥の記録です。吉岡先輩にも、昔の分を少し教えてもらいました」


「……吉岡さんが」


「嫌な気持ちにさせたくなかったから、最初は黙って観察してたんですけど」日向はノートを閉じた。「そろそろ、ちゃんと言おうと思って」


「何を」


 日向は真っ直ぐに憶平を見た。


「あの鳥、全部——佐藤さんが出してるんだと思います」


 沈黙。


 木漏れ日が揺れた。遠くで本物の鳥が、のんきに鳴いている。


「……違います」


 憶平の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「鳥に好かれやすい体質で、建物の隙間から入ってくる経路があって、僕が驚いた瞬間に鳥も驚いて飛び立つだけで——」


「うん、知ってます」日向は静かに言った。「佐藤さんはそう思ってるんですよね」


 否定も肯定もしない言い方が、かえって憶平の言葉を封じた。


「一つだけ、試させてもらえますか」


 日向は言って、弁当箱を膝に置いた。表情が少し、真剣になる。


「何をするんですか」


「驚かせます。ちょっとだけ」


「え、やめてください、それは——」


「うしろ! 蜂!!」


 バサバサバサ!


 足元から、ムクドリが3羽。


 公園の静けさをつんざいて、3羽のムクドリが一斉に噴出し、ベンチの周囲を混乱気味に飛び回った。一羽が憶平の頭上をかすめ、一羽が日向のノートの上に一瞬着地し、一羽はベンチの背もたれでばたばたしている。


「ひいぃ! どこから!! 蜂はどこですか!!」


「ないです蜂」


「え?」


「蜂は、いないです。ごめんなさい、嘘をつきました」


 ムクドリたちは徐々に落ち着いて、三羽とも空へ散っていった。


 憶平はコロコロを取り出しながら、動悸を抑えようと深呼吸した。


「…………」


「ね」と日向が静かに言った。「私が驚かせる前、この公園に鳥はいましたか?」


 憶平は答えられなかった。


 いたかもしれない。いなかったかもしれない。でも——3羽があの速さで「足元から」出てきたのは——


「建物の外です。侵入経路は、ないです」


 日向は淡々と、でも優しく続ける。


「佐藤さんが驚いた瞬間に、足元から出てきます。毎回。例外なく」


「……」


「ずっと、そうでした」


「……じゃあ、なんで」


 憶平は、自分でも気づかないうちに言葉が出ていた。


「なんで今まで……誰も、教えてくれなかったんですか」


 日向は少し、表情を曇らせた。


「みんな、言いにくかったんじゃないかな。あなたが怖がりそうで」


「怖がる……」


「だって、佐藤さんが驚くたびに鳥が出るって、かなり不思議なことじゃないですか。急に言われたら、パニックになるかもしれない。もしかしたら傷つくかもしれない。だから——言えなかったんだと思う」


 憶平は膝の上の弁当箱を見つめた。


 吉岡先輩が、毎回無言で窓を開けてくれていたこと。「どうせお前が驚いた時しか出ない」と言って、それ以上追及しなかったこと。


 みんな、知っていた。


 知っていて、言わなかった。


 怖がりそうで。


「……僕は」憶平は、ゆっくり言った。「そんなに、怖がりに見えますか」


「見えます」日向はためらわずに答えた。「でも」


 少し間があった。


「怖がりな人が、怖いものから逃げようとするのは、当たり前のことだと思う。おかしくない」


「でも……こんなの、おかしいでしょう。驚くたびに鳥が出るなんて」


「おかしいですね」


「笑えないですよ」


「笑ってないですよ」


 日向は本当に、笑っていなかった。真っ直ぐに憶平を見ていた。


「ただ——」と日向は続けた。「私は、佐藤さんの鳥が嫌いじゃないです。なんか……正直で、いいなって思ってます」


「正直、って」


「感情が全部、外に出るじゃないですか。隠せない。誤魔化せない。……私は、そういうの、好きです」


 風が吹いた。


 木の葉がざわめいて、どこかで鳥が鳴いた。


 憶平は、何も言えなかった。胸の中で何かが、静かに、でも確実に動いた気がした。


 チュン。


 控えめに、スズメが1羽。


 日向が「あ」と言って、少し嬉しそうに笑った。


 昼休みが終わり、二人は並んで会社へ戻った。


「あの、新倉さん」


「日向でいいですよ。社外っぽいときは」


「……じゃあ、日向さん」憶平は少し迷ってから続けた。「あのノート、まだ続けるんですか」


「続けます。まだわからないことがたくさんあるので」


「何が、わからないんですか」


「鳥の種類と感情の対応関係が、まだ全部は取れてなくて」日向は少し考えてから言った。「あと——どうすれば、佐藤さんが楽になるか」


 憶平は足を止めた。


「……楽に、なる?」


「驚くのって、疲れるじゃないですか。毎日」


 返す言葉が、出なかった。


 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 会社に戻り、別れ際に日向が言った。「また明日」。


 たったそれだけなのに、今日一日が少し違う色に見えた。


 ……変な人だ。


 でも今日は、その「変」の意味が、昨日とは少し違う気がした。

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