第2話 会議室のカラスと、最悪の午後
翌朝。
憶平は昨日のメモを、引き出しの奥にしまっていた。
捨てるのも変だと思ったし、かといってデスクに出しておくのも——なんとなく、落ち着かない気がして。
また教えてください、か。
何を教えるというのか。鳥に好かれやすい体質の話など、説明しようがない。
「佐藤、今日全体会議あるから忘れんなよ」
吉岡の声に肩が跳ね上がる。
「ひっ……! わ、わかってます!」
足元から、スズメが1羽。
吉岡は無言で窓を開けた。
10時。全体在庫会議まで、あと30分。
憶平は机の上に「会議用メンタル安定セット」を並べた。
カフェインレスコーヒー(済)。深呼吸のカウント表(手書き)。会議中に驚かないための心得メモ(箇条書き、7項目)。
落ち着け。落ち着くんだ、佐藤憶平。静かな場所は、驚いた時に鳥が目立つ。だから驚かなければいい。驚かなければ、鳥は出ない。シンプルな話だ。
わかっている。わかっているが——
静かな場所は、ダメだ。
図書館、映画館、葬儀場。静寂というのは、あらゆる音を2倍にする装置だ。ペンの落下音、誰かの咳払い、エアコンの振動。普段は聞こえないものが全部、聞こえる。聞こえると、身構える。身構えると、余計に驚く。
去年の会議では、専務が咳払いしただけでハトが出た。
一昨年は、スクリーンが下りてくる「ウィーン」という音で、ヒヨドリが2羽。
その前の年は——考えるのをやめよう。
会議室前の廊下まで来て、憶平は深呼吸を3回した。
大丈夫。今日こそは、大丈夫だ。
「佐藤さん、会議ですか?」
「ひっ……!」
振り向くと、日向がいた。書類を抱えて、少し不思議そうな顔をしている。
「す、すみません……! 急に声をかけられると……!」
「ごめんなさい。でも廊下で壁に向かって深呼吸してるから、具合が悪いのかと思って」
「壁に向かって……」と憶平は自分の立ち位置を見た。確かに壁の前で、壁に向かっていた。「……これは、その、気持ちを落ち着かせる一種のルーティンで」
「会議、緊張するんですか?」
「緊張、というか……静かな場所が少し、苦手で」
日向はまた、あの目でこちらを見た。観察するような、でも責めてはいない目。
「なるほど」とだけ言って、彼女は会議室へ入っていった。
会議室。
10名が長テーブルを囲み、資料を読み込む「黙読タイム」が始まった。
静かだ。
あまりにも、静かだ。
エアコンの音。ページをめくる音。隣の人の鼻息。向かいの人がペンをノックする音。カチ。カチ。カチ。
カチってなんだよ。なんでそんなにカチカチするんだよ静かにしてくれよ頼むから。
深呼吸。心得メモの1項目:「音を、ただの音として受け取る」。
受け取れていない。
憶平は資料を見つめながら、視野の端でそっと日向の方を確認した。彼女は涼しい顔で資料を読んでいる。隣の席だ。今日が入社2日目だというのに、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。
憶平は再び資料に目を落とした。
第三倉庫の在庫、先月比105%。自分が担当している棚だ。
大丈夫。数字は裏切らない。
カチ。カチ。カチ。
頼む、カチカチを止めてくれ。
黙読タイムが終わり、部署ごとの報告が始まった。
営業部、経理部、企画部と進んでいく。憶平の在庫管理は最後だ。あと少し、あと少しで終わる——
「佐藤くん!」
梶原専務が、いつもの大声で名前を呼んだ。
「第三倉庫の数字、今月は伸びてるね。何か要因があれば説明して!」
それは突然だった。
順番を飛ばした指名。大声。静寂の中の破裂音。
憶平の思考が0.5秒、停止した。
ばさり。
会議室の床——正確には、テーブルの下の、佐藤憶平の足元——から、カラスが一羽、飛び立った。
静寂。
カラスは悠々と羽ばたき、会議室を一周した。長テーブルの上を低空飛行し、専務の頭上でひとつ羽ばたき、窓の桟にとまった。くちばしを一度鳴らして、部屋を見渡す。
シーン、と会議室が静まり返った。
「……申し訳ございません!!」
最初に動いたのは憶平だった。椅子を引いて立ち上がり、頭を下げ、窓を開けようとして資料を落とし、拾おうとして隣の人の椅子を蹴り、また謝る。
カラスは特に急ぐ様子もなく、開いた窓からゆっくりと外へ出ていった。
会議室に、もう一度静寂が戻る。
「……管理会社に連絡します! 鳥の侵入経路が——」
「佐藤くん、落ち着いて」
専務が呆れたように言い、誰かが笑いをこらえる気配がした。
会議は10分の休憩を挟んで再開された。
憶平は休憩中、ひとりで会議室の隅に立ち、床に落ちた羽根を拾い集めた。コロコロで自分のスーツの裾を処理しながら、スマホで「ビル内カラス侵入 対処法」を検索した。
「大丈夫ですか」
日向が紙コップのお茶を持ってきた。
「申し訳ございません……お見苦しいところを……」
「別に、そういう意味じゃなくて」
日向は羽根のひとつをひょいと拾い、しばらく眺めた。
「専務に呼ばれたとき、ものすごく驚いてましたよね」
「そ、それは……急に大声を出されると……」
「カラスって」と日向は羽根を持ったまま言った。「驚きに敏感な鳥なんですよ。ほかの鳥より、ずっと」
「……え?」
「いえ、なんでも。お茶、飲んでください。温かいうちに」
午後の業務。
会議の後処理(管理会社への問い合わせメール、侵入経路調査依頼、議事録への「会議中に野鳥が迷い込む事案が発生、現在原因調査中」という一文追加)を終えると、憶平はぐったりと椅子にもたれた。
吉岡が珍しく振り返り、言った。
「佐藤、今日のカラス、でかかったな」
「……吉岡さんは、驚かないんですか。毎回」
「慣れた」
「慣れるものなんですか、それ」
「まあ、最初の頃はびっくりしたけど」吉岡はコーヒーをすすった。「どうせお前が驚いた時しか出ないし」
「……それは」
「鳥に好かれやすい体質なんだろ、はいはい」
吉岡はそれ以上言わず、モニターに向き直った。
どうせお前が驚いた時しか出ない。
その言葉が、なぜか引っかかった。
確かに——思い返せば、鳥が飛び立つのはいつも、何かに驚いた「直後」だ。それは偶然の一致で、鳥たちも音や気配に驚いて飛び立っているだけのはずだが——
いや、違う。僕が驚くから、鳥も驚くんだ。因果関係はそっちだ。
納得してから、なぜか今度は日向の顔が浮かんだ。
「また教えてください」というメモ。「カラスは驚きに敏感な鳥なんですよ」という一言。あの、観察するような目。
……あの人、何を考えているんだろう。
机の引き出しを開けると、昨日しまったメモがあった。スズメの絵。
憶平はそれをしばらく眺めてから、今度は引き出しではなく、手帳の間に挟んだ。
理由は、よくわからなかった。
帰り際、エレベーターで日向と乗り合わせた。
憶平は「閉」ボタンに指を添えていたが、日向が滑り込んできたので押せなかった。
「今日は災難でしたね」と日向が言う。
「……本当に、毎回すみません。会議を中断させてしまって」
「私は別に困ってないですよ」
「でもほかの方が……」
「佐藤さんって、いつも謝ってる人の心配をするんですね。自分のことより」
返す言葉がなかった。
一階に着く。
エントランスを出ると夕暮れで、空がオレンジと藍色のあいだにあった。
日向はバッグから小さなノートを取り出し、立ち止まって何か書いた。
「……何をメモしてるんですか」
「観察日記みたいなもの。前の職場からの習慣で」
「何の、観察ですか」
日向はノートを閉じ、憶平を見た。
「まだ秘密です」
そう言って、さっさと駅の方へ歩いて行った。
憶平は夕暮れの中に取り残されたまま、しばらく動けなかった。
観察、日記。
胸のあたりが、わずかにざわついた。
チュン——と、近くの街路樹で、スズメが1羽鳴いた。




