第1話 新入りと、股下のスズメ
出社。憶平は今日も始業15分前に到着している。
エレベーターの前で立ち止まり、スマホのインカメラで背後を確認。乗り込む直前に「閉」ボタンに指を添え、誰かが駆け込んでくる前に扉を閉める。
3階で降りる際、廊下の曲がり角では必ず壁に設置された防犯ミラーで先を確認してから進む。
在庫管理室に入ると、背後のドアを静かに閉め、一呼吸。
やれやれ、今日も無事に着いた。
机の引き出しからカフェインレスコーヒーのスティックを取り出し、お湯を注ぐ。ルーティンが体を落ち着かせる。
先輩・吉岡が出社してくる。
「佐藤、おはよ」と背後から肩を叩く。
「ひっ」
足元から、ムクドリが2羽。
部屋の中をぐるぐると飛び回るムクドリを見て、吉岡は「あー、出た出た」と言いながら無言で窓を開ける。外へ出て行く2羽。慣れた手つき。
「す、すみません吉岡さん! いつも! 驚かせてしまって!」
「いや、驚いてんのはお前だろ」
「申し訳ございません!!」
「謝る相手が違う」
吉岡はコーヒーを淹れながらぼやく。「つか佐藤、声かける前にわざわざ気配消すのやめてくんない? 俺がこそこそしてる人みたいじゃん」
「それは……本当に申し訳ございません……」
窓の外、ムクドリは既に空の彼方だ。
憶平はコロコロを取り出し、スーツの裾についた羽毛を丁寧に取り除く。
また鳥か。本当に、どうして僕の周りにはこう、野鳥が多いんだろう……。
検品、伝票入力、棚卸し確認。
静かで、単調で、誰も来ない時間。
憶平はこういう時間が好きだ。
数字は裏切らない。在庫は驚かない。棚は突然大声を出さない。
これでいい。これが、僕の適切な居場所だ。
昼休み。憶平は開店直後の食堂に入り、一番隅のテーブルを確保する。今日の弁当は母から送られてきた冷凍おかずセットの最終日。
卵焼きをひとつ、口に入れる。
……甘い。
出汁がじゅわっと広がる。予想よりずっとおいしい。胸のあたりがほんの少しだけ、あたたかくなった瞬間——
チュン。
弁当箱と膝のあいだから、スズメが1羽ひょっこりと飛び出した。テーブルの上をちょこんと歩き、憶平の弁当のふちに止まり、それからぱたぱたと食堂の天井へ舞い上がる。
「……またですか」
憶平は半ば反射的にコロコロを取り出す。膝の羽毛を処理しながら、天井のスズメを見上げてため息をつく。
「本当に……この建物、どこかに侵入経路があるんでしょうか。設備管理の板倉さんに相談した方が……」
「それ、佐藤さんが出したんじゃないですか?」
振り向く。
見知らぬ女性が、ランチトレイを持って立っていた。
黒髪をすっきりとまとめ、ネームプレートにはまだ「研修中」のシールが貼ってある。新入りだ。表情は人懐こいが、目だけがこちらをじっと見ている。
「……は、え?」
「あ、ごめんなさい、おかしなこと言って。隣、座っていいですか?」
「ど、どうぞ! 申し訳ございません、お見苦しいものをお見せしてしまって!」
「スズメがですか?」
「いえ、そのコロコロが……」
「かわいいじゃないですか、どっちも」
彼女はトレイを置き、当たり前のように向かいの椅子を引いた。
「新倉日向です。今日から企画部に。よろしくお願いします」
「佐藤……在庫管理の佐藤憶平です。よ、よろしくお願いします」
日向はトレーを前に、食堂の天井をぐるぐる飛んでいるスズメを見上げた。
「幸せそうな顔して飛んでますね」
「……幸せそう、ですか」
「なんか、ふわふわしてるじゃないですか。怖がってる感じじゃなくて」
憶平はそのスズメを、初めてちゃんと見た。確かに、パニックで飛んでいる感じではない。なんとなく、気持ちよさそうに、食堂の空気を泳いでいる。
「……そう、ですね」
「前の職場、ペットショップだったんで。鳥って、落ち着いてるときと焦ってるときで、羽ばたきの間隔が全然違うんですよ。あの子は今、すごく落ち着いてる」
「へえ……」
「あの卵焼き、美味しかったんですか?」
唐突な問いだった。
「え? あ、はい……まあ、その、母が送ってきたもので……」
「そういうときに来るんですよね、鳥って。佐藤さんのところ」
日向はさらりと言って、定食のみそ汁を飲んだ。
な、何を言っているんだこの人は。
「そ、それは……鳥に好かれやすい体質なので……建物の隙間から入ってくる経路がですね……」
「うんうん、そうですよね」
日向は否定も肯定もせず、ただ穏やかに頷いた。窓の外、誰かが開けてくれたらしく、スズメはするりと青空へ消えていった。
「美味しいもの食べると、幸せな気持ちになりますよね」と日向が言った。「それ、別に隠さなくていいと思いますよ」
「……何をですか」
「さあ」
日向は笑い、定食を食べ始めた。
憶平には、その会話の意味がわからなかった。でも——なぜか、不快ではなかった。
変な人だ。
コロコロをしまいながら、そう思った。
午後の業務。
いつもと同じ、数字と棚と伝票の時間。
でも今日は、なぜか少しだけ集中できなかった。
「……佐藤さんのところに来るんですよね、鳥って」
そんなわけ、ないだろう。
在庫確認の端末を叩きながら、憶平はひとりで首を振る。
鳥は、建物のどこかにある隙間から入ってくる。自分が驚いたタイミングと、鳥が飛び立つタイミングが、たまたま重なるだけだ。たまたま。
そう、たまたまだ。
「佐藤さん、今日の新入り社員と昼一緒だったんだって?」
吉岡が振り返りもせずに言う。
「え、なんで知って……」
「スズメが出てたから」
「それは鳥が好き——」
「はいはい」
吉岡はコーヒーをすすった。
定時、憶平が帰り支度をしていると、デスクに一枚のメモが挟まっていた。
「よく鳥に会うんですか? また教えてください。——新倉」
右端に、小さなスズメの絵。
下手ではなかった。




