【1】
太平洋岸の地方都市。市内のほぼ中央を南北に流れる一級河川。玉を掴んで海から天に昇るかのごとく蛇行する姿と、流域をすべて飲み込む氾濫の凄まじさから、かつては龍神の化身と畏れ敬われた。しかしすっかり飼いならされた今のコンクリート護岸にその面影はない。
市内に架かる三本の橋のうち二本は古い街道をつなぐささやかなものだが、湾岸の一本はあの狂乱時代に架けられた大橋だ。片側三車線の広大な灰色のコンクリートを誇示するように横たわり、都市の動脈としての威容を放っている。頭上に等間隔で整然と並ぶLED街灯は、血の通わない青白い光を放ち、無機質な歩道や欄干を隅々まで暴き立てている。そのあまりに均一で暴力的な明るさは、橋の上に逃げ場のない静寂を作り出していた。
橋のちょうど中ほど。等間隔に並ぶ街灯の、僅かに空白となる影の中に一人の青年がいた。彼は欄干の上に腹を預け、上半身の重心を完全に川面の方へと投げ出している。両手は錆びた鉄柵を握りしめているが、その指関節は血の気が引いて白く硬直している。吐き出される息は、冬の湿った夜気の中で白く濁り、視界をかすめては闇に溶けていく。青年の視線は、三十メートル下の漆黒へと垂直に突き刺さっている。LEDの光も届かない水面は、ただ重く、不気味なほどに静止して見える。時折、橋脚に当たって跳ね返る水の音が、湿った重低音となって足元から這い上がってくるが、彼は瞬きひとつせず、その黒い深淵を凝視し続けている。
ふいに彼は重心をさらに橋の外へと移動させた。古びた欄干の継ぎ目が「ギィ……」と、骨が軋むような低い悲鳴を上げる。その振動は手のひらを通じて、彼の腕の骨へと直接伝わった。古びたスニーカーの底がレンガ風タイルを敷き詰めた歩道から離れ、爪先だけがタイルの縁にかろうじて引っかかっている。指先が掴んでいるのは、剥がれかけの錆びた塗装の冷たさだけだ。彼の動きがまた止まった。前のめりになった姿勢のまま、凍りついたように動かない。ただ食いしばった奥歯が小さく鳴る音だけが、無人の橋の上に響いている。頬をなでる風は容赦なく体温を奪い、指先の感覚はすでに失われている。それでも、欄干を掴む力だけが、彼の意志とは無関係なほどの強さで、その冷たい鉄塊にしがみついていた。耳のすぐ裏側で、ドクンドクンと早鐘を打つ血流の音が、頭蓋骨を直接叩くようにリズムを刻む。
また長い時間が過ぎた。少し落ち着きを取り戻した青年は、自らの鼓動に混じって別の規則正しい音が近づいてくるのに気付いた。何かが道路のコンクリートを叩く音のようだ。「パカラ、パカラ。ギシリ、ギシリ。パカラ、パカラ。ギシリ、ギシリ」乾燥した硬質な音が、いつの間にか湧いてきた霧の立ち込める空間を震わせる。よく知られているが、こんなところで聞くとは思われない音。しかし視界に現れた音の主は予想されるとおりのものだった。巨大な二頭立ての馬車。だが明らかに普通の馬車ではない。おそらくこの世のものですらない。鼻孔から機関車のように激しく白い蒸気を噴き出しているのは馬の骸骨だ。うねる背骨と上下する肩甲骨が見えない筋肉の逞しさを想像させる。その後ろに続くのは、漆黒のタールで塗装された木造の馬車だ。車体はバネの軋みをあげ、夜の重力に抗うように不自然なほど静かに揺れている。
馬車は迷いなく進み、すでに欄干から歩道に降り立って呆然と見つめている青年の前で、ぴたりと動きを止めた。蹄の音が途絶えた瞬間、周囲の空気から一切の音が吸い取られたかのように消えた。下品なまでに橋の上を照らしていたLED街灯までもが息を潜め、馬車の側面に設えられた真鍮製のランプの光だけが青年の震える全身を照らしている。彼が見上げる御者台には、濃紺のアルスターコートに身を包み、目深に被ったシルクハットで顔を隠し……いや頭が無く肩に直接ハットが載っている御者と、グレーのローブを頭から被り、膝の上にジャック・オー・ランタン、ハロウィンの仮装でよく見るあのカボチャのランタンだ、を抱えた……ロリっ娘? が並んで座っている。
青年があっけにとられていると、ロリっ娘がよちよちと馬車を降りてきて彼の前に立った。いつの間に渡したのかカボチャは御者台の御者が抱えており、代わりにロリっ娘の手にはどこから出したのか分からない大きな鎌が握られている。どうやら死神ということらしい。
「何をためらっているか。お前の運命は決まっているのだ。速やかにこの鎌に刈り取られよ。首を出せ」
ロリっ娘……もとい死神が鎌を振り上げて言った。精一杯ドスを利かせているつもりだろうが、どう見ても学芸会のお芝居だ。
「こらっ! その憐れみを含んだ薄笑いはやめろ!」
死神……もといロリっ娘……じゃなかった、死神は手にした鎌を振り回したが、逆に大きな鎌に振り回されて尻もちをついた。
「お嬢! モル! そんなにムキになるなって。荷は逃げねえよ」
御者がひらりと馬車を降りて、彼がモルと呼んだ死神の横に立った。気のせいだと思うが、その手に抱えたカボチャの顔に憐れみと慈悲が浮かんで見える。
「よお、兄ちゃん。ナリはこんなでもよ、こいつは本物の死神だ。恐れおののいてやってくれよ。お約束だからな。覚悟はできてます、って路線でも構わねえけどさ」
「はあ……あの、ということはやっぱり僕はもう死んでいるのですね? 僕は川に飛び込んだんですね?」
青年はモルでなく御者のほうに訊いた。
「いや、兄ちゃんはまだ死んでねえよ。あんたがなかなか飛び込まねえから、お嬢が我慢しきれず出しちまった、じゃなくて出てきちまった、って訳だ。それとよ、俺はただの運転手だからさ、質問はそのチビッコ……死神様にしてやってくんな」
青年がモルを見ると、頬を膨らませてむくれている。
「どうせアタシは頼りないです! もう佐藤さんが死神になっちゃえばいいじゃないですか!」
「おいおい、何を言うんだ。お嬢が見た目で損しちまうのは仕方なかろう。心配するな。お嬢が優秀な死神だってことは俺が一番よく知ってる。俺はお嬢のためにしか働く気はねえよ」
「えっ、そ、そうですか? うん、やっぱり佐藤さんは解っていらっしゃる。アタシの見込んだ人だものね。でも、そんなハッキリ言われると恥ずかしいです……」
青年に向き直ったモルは真っ赤な顔で照れている。佐藤の抱えるカボチャの顔が「やれやれ」と言っているように見えるのは、やはり気のせいだろう。




