番外編 あの日、俺の理性が死んだ夜 ~鉄仮面の下で、実はこれほど喜んでいました~
午前0時。騎士団長特別室。
俺、レオニード・ヴァイスは、眉間に皺を寄せたまま書類の山と格闘していた。
だが、その内容は頭に入ってこない。
書類の端に書かれた『エリーゼ・ローズウェル公爵令嬢』という名前が、俺の思考を占領していたからだ。
「……愚かな」
吐き捨てた言葉は、あの愚鈍な王太子に向けたものだ。
最近、王太子は聖女とかいう小娘にうつつを抜かし、婚約者であるエリーゼ嬢をないがしろにしているという。
それどころか、根も葉もない噂を流し、彼女を断罪しようと企んでいることまで、俺の耳には入っていた。
エリーゼ嬢。
気高く、美しく、そして誰よりも孤独な紫水晶の瞳を持つ女性。
俺が騎士団長として初めて参加した舞踏会でのこと。
王太子の婚約者として参加していたエリーゼ嬢が、その喧騒から離れ、王宮の庭園で一人、唇を噛み締めて涙をこらえていた姿を見て以来
――俺はずっと、彼女に焦がれていた。
だが、彼女は王太子の婚約者だ。
俺のようなものが声をかけることなど許されない。
遠くから見守り、彼女に害をなす輩を裏で排除することしかできなかった。
(……もし、王太子が彼女を捨てるなら)
そこまで考え、俺はペンを握りしめた。
その時は、俺が彼女を攫ってもいいのだろうか。
いや、公爵令嬢が騎士風情に靡くはずがない。
彼女は俺を「冷徹な処刑人」として恐れているようだし……。
その時だった。
ガチャリ、と扉が開く音がした。
「……何者だ」
反射的に声を低くし、顔を上げる。
深夜の執務室にノックもなしに入ってくる無礼者など、即座につまみ出すつもりだった。
だが。
そこに立っていた人物を見た瞬間、俺の思考は真っ白に弾け飛んだ。
「――ッ!?」
マントを脱ぎ捨てたその姿。
艶やかな金髪。震える白磁の肌。
そして、身体のラインを露骨に拾う、極薄のシルクのネグリジェ。
エリーゼ嬢だ。
俺が今しがたまで想い焦がれていた女性が、なぜか半裸に近い姿で、俺の部屋に立っている。
(ゆ、夢か……? 過労が見せた幻覚か?)
俺は冷静さを保つために必死で呼吸を整えた。
机の下で、自分の太腿をつねる。痛い。現実だ。
現実だとしたら、これは何の罠だ? ハニートラップ?
いや、構わん。もし刺客だとしても、エリーゼ嬢になら刺されても本望だ。
「エリーゼ嬢……?」
名前を呼ぶ声が震えなかった自分を褒めたい。
彼女が近づいてくる。
一歩ごとに、甘く濃厚な薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
これは……媚薬効果のある香油か?
なぜ、彼女がそんなものを?
彼女は俺の目の前まで来ると、潤んだ瞳で見上げ、震える手で俺の胸に触れた。
「私……貴方とお近づきになりたくて、参りましたの」
――は?
今、なんと言った?
お近づきになりたい。
それはつまり、俺を男として求めているということか?
あの王太子ではなく、この俺を?
(落ち着け、レオニード。早合点するな。彼女は怯えている)
見れば、彼女身体は小刻みに震えている。
当然だ。
深窓の令嬢が、こんなむさ苦しい男の部屋に一人で乗り込んできたのだ。
緊張と羞恥で震えるのも無理はない。
ああ、なんていじらしい。
その怯えたような顔すら、俺の嗜虐心を煽る極上のスパイスに見えてくる。
「私を……抱いていただけませんか?」
その一言が、決定打だった。
俺の中で、長年張り詰めていた理性の糸が、音を立ててプツリと切れた。
彼女は言った。「抱いてくれ」と。
それは慈悲を乞う言葉にも聞こえたが、俺の脳内では都合よく変換された。
『貴方が好きです。私の全てをもらって』と。
世界が反転する。
もう、王太子の婚約者だとか、騎士団長の立場だとか、そんなものはどうでもいい。
目の前に、長年恋い焦がれた獲物が、自ら腹を見せて横たわっているのだ。
食らわない獣がどこにいる?
「……本気で、言っているのか?」
最後の確認だ。
ここで「やっぱり嘘です」と言われても、もう逃がすつもりはないが。
彼女はコクコクと頷いた。
「は、はい。私の全てを、貴方に差し上げます。だから……」
その先は聞かなかった。聞く必要がなかった。
全てをくれると言った。
ならば、骨の髄まで俺のものだ。
俺は彼女の細い腕を掴み、引き寄せた。
華奢だ。折れそうだ。
だが、この熱は本物だ。
「……後悔するなよ」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど低く、獰猛な響きを帯びていた。
彼女がビクリと肩を跳ねさせる。
その反応すら愛おしい。
怯えているのではない。
俺の男としての欲望に、本能で反応しているのだ(と、俺は信じることにした)。
背後の扉に鍵をかける。
カチャリ、という金属音が、二人の世界を閉ざす合図だ。
(ああ、神よ。感謝します)
俺はずっと、氷の仮面を被って生きてきた。
だが今夜だけは、ただの飢えた男に戻ろう。
朝が来て、彼女が「間違いだった」と泣いても、もう遅い。
責任を取って結婚し、一生俺の腕の中に閉じ込めてやる。
俺は凶悪な笑みを噛み殺し、震える愛しい獲物をベッドへと押し倒した。
――こうして、俺の理性は死んだ。
最高に幸福な死だった。




