第2話 身体だけの関係のはずが、外堀を埋められています
翌朝、私は小鳥のさえずりではなく、全身を襲う倦怠感と鈍い痛みで目を覚ました。
重いまぶたを持ち上げると、そこは見慣れない天井だった。
シックな色合いの天蓋、飾り気のない無骨な家具。
記憶が蘇ってくる。
「……あ」
昨夜の出来事を鮮明に思い出し、私は顔を真っ赤にしてシーツを引き上げた。
なんてことをしてしまったのだろう。
生き残るためとはいえ、あの「氷の騎士」レオニードに、あんなにも激しく、執拗に抱かれるなんて。
恐る恐る自分の身体を見下ろす。
薄いネグリジェはどこかへ消え失せ、素肌には至るところに赤い痕が散っていた。
首筋、鎖骨、胸元、太腿の内側に至るまで。
まるで所有を主張する刻印のようだ。
「……逃げなきゃ」
隣を見ると、ベッドは空だった。
レオニードはすでに騎士団の朝練に向かったのだろうか。
今のうちに公爵邸へ戻らなくては。
これだけの既成事実を作ったのだ。
婚約辞退も恙なくできるだろうし、レオニードも無下には私を殺せないはずだ。
とりあえずの目的は達成した――そう自分に言い聞かせ、ベッドから降りようとした、その時だった。
ガチャリ。
扉が開く音がして、私は悲鳴を上げてシーツにくるまった。
入ってきたのは、湯気の立つ銀盆を手にしたレオニードだった。
「起きたか、エリーゼ」
その声を聞いて、私は我が耳を疑った。
昨夜の獣のような唸り声でも、普段の氷点下の冷声でもない。
とろけるように甘く、機嫌の良さが隠しきれない声だったのだ。
「レ、レオニード様……?」
「ああ、動くな。身体が痛むだろう」
彼は迷いなくベッドサイドに歩み寄ると、トレイを置き、自然な動作で私の額に口づけた。
チュッ、という音に思考が停止する。
「顔色が悪いな。やはり昨夜は無理をさせすぎたか。……だが、貴女が可愛すぎて加減が効かなかった。すまない」
反省しているような口ぶりだが、その蒼い瞳は獲物を愛でるような熱を帯びている。
私は混乱した。
待って。これ、「都合のいい女」に対する態度じゃなくない?
「あ、あの……昨夜のことは、その……忘れていただいて構いませんので……」
私が震える声で言うと、レオニードの表情がピクリと固まった。
部屋の温度が一度、二度と下がっていく気がする。
「忘れる? ……どういう意味だ」
「えっ、ですから、あれはその場の勢いというか……」
「勢い?」
彼は怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに何か納得したように深く頷いた。
「安心しろ、エリーゼ。俺は騎士だ。純潔を捧げた貴女を捨てるような真似はしない」
彼は私の手を取り、その指先に恭しく口づけを落とした。
「責任は取る。――今朝一番で、国王陛下へ貴女が王太子との婚約を辞退する旨を伝え、俺との婚姻届を提出してきた。今頃は公爵家へも知らせが届いているだろう」
「は、い……?」
今、なんて言った?
コ、ン、イ、ン、ト、ド、ケ?
「なっ、なんですってー!?」
私は思わず叫んだ。
結婚!? 愛人契約じゃなくて!?
しかも今朝一番って、仕事が早すぎる!
「待ってください! それは困ります! 私はただ、処刑されたくなくて……!」
「処刑? 何を言っている」
彼は不思議そうに首を傾げた後、優しく、けれど絶対に逃がさないという力強さで私を抱きしめた。
「あなたはもう俺の妻だ。誰にも文句は言わせない。……たとえあなたの心の中に、いまだ王太子が居座っていようと、な」
その言葉に、背筋が凍った。
彼は誤解している。
私が「王太子への想いを断ち切るために、レオニードに抱かれた」と思っているのだ。
違う。そうじゃない。
私が恐れているのは、この後に控えている断罪イベントなのだ。
(婚約を辞退したとしても、やっぱり私が悪役だと断罪されたら? その時、夫となったレオニードまで巻き添えになるんじゃ……)
あるいは、ゲームの強制力で彼が心変わりし、愛した分だけ憎悪に変わって私を殺すかもしれない。
どちらにせよ、ここに居続けてはいけない気がする。
「……少し、一人にさせてください」
私が青ざめた顔で懇願すると、彼は不満げながらも「食事は冷めないうちに」と言い残し、部屋を出て行った。
ガチャリ。
外から鍵をかける音が聞こえた。
……監禁だ。これ、完全に監禁だわ!
それから数日、私はこの部屋――騎士団長専用の特別室から一歩も出してもらえなかった。
食事はレオニードが自ら運び、着替えも彼が用意し、あろうことか入浴まで彼が世話を焼こうとする。
(必死で拒否したが、結局一緒に入ることになった)
彼は今までの態度が嘘のように、私を溺愛していた。
隙あらば抱きしめ、キスマークを増やし、「愛している」「ずっと欲しかった」「夢みたいだ」と耳元で囁き続ける。
その甘い毒に、私の心は揺らいでいた。
けれど――。
『最近、聖女様と王太子殿下の婚約が検討されているらしいぞ。あんなにも仲睦まじいからな......』
『え、でも王太子殿下はローズウェル公爵令嬢と婚約してたよな......?』
『だからその婚約も見直されるんじゃないかって話だよ』
窓の外、見回りの騎士たちの話し声が聞こえた瞬間、私は現実に引き戻された。
シナリオは進んでいる。
断罪の日が近い。
(やっぱり、逃げなきゃ。彼を巻き込まないために)
その日の午後、レオニードが緊急の会議で部屋を空けた隙を狙った。
私はシーツを裂いてロープを作り、二階の窓から中庭へと降り立った。
ボロボロの爪、擦りむいた膝。
それでも、走った。
裏門へ向かう。
そこを抜ければ、平民街へ紛れ込めるはずだ。
心の中で彼に謝り続ける。
(ごめんなさい、レオニード様。貴方の愛は嬉しかった。でも、私は貴方を破滅させたくないの!)
息を切らして裏門に手をかけた、その時。
「――どこへ行くつもりだ、エリーゼ」
背後から響いた声は、絶対零度の冷たさだった。
心臓が跳ね上がる。
恐る恐る振り返ると、そこには抜身の剣のような殺気を纏ったレオニードが立っていた。
蒼い瞳は、見たこともないほど暗く濁っている。
「レ、レオニード様……これは、その……」
「俺を裏切るのか」
彼は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「あれほど愛を注いだのに。妻として迎えると誓ったのに。……やはりお前は、王太子の元へ帰りたいのか?」
「ち、違います! 私は貴方のために……!」
「嘘をつくな!!」
怒号と共に、私は彼に木の幹へ押し付けられた。
背中には樹皮の感触。
目の前には、嫉妬と怒りに歪んだ美しくも冷たい顔。
「俺の心を奪っておいて、やはり要らないからと捨てるつもりか? ……いい度胸だ」
彼の手が、私のドレスの胸元を乱暴に掴む。
ビリッ、と布が裂ける音が響いた。
「いやっ……!」
「逃がさないと言ったはずだ。……言葉で言っても分からないなら、身体に教え込むしかないな」
彼は私の両手首を片手で拘束し、頭上へ押し付ける。
その瞳には、もはや理性のかけらもなかった。
あるのは、ただただ深く、重く、底なしの独占欲だけ。
「貴女が二度と、俺以外の男を考えられないようにしてやる」
裏門の陰、誰に見られるかも分からない場所で。
彼は飢えた獣のように、私の唇を塞いだ。




