第1話 死にたくないので、氷の騎士様へ夜這いします
前世の記憶を思い出したのは、王立学園の卒業パーティーまであと三ヶ月と迫った、ある冬の朝のことだった。
鏡に映る自分――公爵令嬢エリーゼ・ローズウェルの、きつく吊り上がった紫水晶のような瞳を見つめた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走ったのだ。
「……嘘。ここ、『聖女と白銀の恋』の世界じゃない」
足元から血の気が引いていくのがわかった。
ここは、前世で私がプレイしていた乙女ゲームの世界。
そして私は、ヒロインである聖女をいじめ抜いた末に断罪され、処刑される悪役令嬢その人だった。
震える手で顔を覆う。
このままいけば、三ヶ月後の卒業パーティーで、婚約者である王太子殿下から婚約破棄を突きつけられる。
そして、「聖女暗殺未遂」という身に覚えのない罪を被せられ、その場で処刑が決定するのだ。
その処刑を実行するのが――王太子殿下の懐刀であり、王国最強と謳われる騎士団長、レオニード・ヴァイス。
通称、『氷の騎士』。
感情を持たぬ氷像のように美しく、そして冷酷に、私の首を切り落とす男。
「……死にたくない」
声に出すと、恐怖が現実味を帯びて襲いかかってくる。
実家である公爵家は、すでに王太子の根回しによって孤立している。
今から聖女に媚びを売ったところで手遅れだ。
国外逃亡? 温室育ちの私が一人で逃げたところで、野盗か魔物に襲われて野垂れ死ぬのがオチだ。
部屋の中をウロウロと歩き回り、爪を噛む。
どうすればいい? どうすればこの絶望的な未来を覆せる?
王太子の権力に対抗でき、かつ私の命を握っている人物。
私を殺す実行犯。
「……そうだ。レオニード様だわ」
私は足を止めた。
ゲームの中のレオニードは、王太子の忠実な剣だった。
けれど、彼が私に個人的な恨みを持っているわけではない。
彼はただ、職務に忠実なだけなのだ。
ならば。
彼にとって、私が「斬るべき罪人」ではなく、「情を交わした女」になればどうだろう?
たとえ『氷の騎士』でも、肌を重ね、愛を囁き合った女の首を刎ねるのは躊躇するはずだ。
いや、貴族社会の不文律として、愛人関係にある貴族女性を無碍にはできないはず。
そして、その『既成事実』があれば、王太子との婚約も辞退できるだろう。
「……やるしかない」
私は鏡の中の、悪役顔の自分を睨みつけた。
これは生存戦略だ。
プライドなんて捨てなさい。
私の武器はこの、無駄に艶やかで派手だと言われ続けた美貌と、豊満な肢体だけ。
狙うは、騎士団長レオニードの寝所。
処刑されるくらいなら、私はあの恐ろしい男に抱かれて、生き延びてやる!
***
決行は、その日の夜だった。
幸いなことに、公爵邸とレオニードが泊まり込んでいる王宮騎士団の宿舎は近い。
父の使いだと偽って潜入するのは容易かった。
問題は、ここからだ。
騎士団長専用の特別室の前で、私は息を殺していた。
じっと息を潜め続けて、時刻は午前0時。廊下には衛兵もいない。
マントの下に着ているのは、このために用意した薄手のネグリジェ一枚だ。
最高級のシルクは肌に吸い付くようで、体のラインをいやらしいほどに拾ってしまう。
首筋と胸の谷間には、媚薬効果があると噂の香油をたっぷりと塗りたくった。
甘く重い薔薇の香りが、自分でもくらくらするほど漂っている。
(怖い……帰りたい……)
本音を言えば、今すぐ逃げ出してふかふかのベッドに潜り込みたい。
レオニード・ヴァイスは怖い。
一度だけ夜会で見かけたことがあるが、彼は私を一瞥すらしなかった。
あの凍てつくような蒼い瞳に見据えられたら、心臓が止まるかもしれない。
でも、三ヶ月後に首が飛ぶよりはマシだ。
深呼吸を一つ。覚悟を決めて、私は重厚な扉のノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。
彼はその武勇ゆえに、暗殺者など恐れていないのだろう。
音もなく扉を開け、隙間から体を滑り込ませる。
部屋の中は、月明かりと暖炉の残り火だけで薄暗かった。
執務机のランプが一つだけ灯り、その光の中に、男の影が浮かび上がっている。
レオニード・ヴァイスだ。
書類に目を落としていた彼が、不意の侵入者の気配にペンを止める。
ゆっくりと顔が上がった。
銀糸のようなプラチナブロンドが光を反射し、冷ややかな蒼氷の瞳が私を射抜く。
「……何者だ」
低く、地を這うようなバリトンの声。
それだけで背筋が凍りついた。殺気すら感じる鋭い眼光に、足がすくむ。
しかし、ここで引くわけにはいかない。
私は震える指先で、羽織っていたマントの留め具を外した。
バサリ、と音を立ててマントが床に落ちる。
露わになったのは、薄布一枚の姿。
暖炉の火に透かされ、肌の色まで見えているはずだ。
「……っ」
レオニードの眉が、わずかに動いた。
その視線が私の顔から、胸元、腰のくびれ、そして素足へと、ねめつけるように這う。
値踏みされているような、あるいは獲物を見定めているような視線に、肌が粟立った。
「エリーゼ嬢……?」
私の名を呼ぶ声には、困惑よりも、どこか昏い響きが混じっていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、机を回ってこちらへと歩み寄ってくる。
長身の威圧感が半端ではない。
軍靴の音が、私の心臓を蹴り上げるようだ。
私の目前で、彼は足を止めた。
見上げると、整いすぎた美貌が無表情のまま私を見下ろしている。
「このような夜更けに、護衛もつけずに男の部屋へ訪れるとは。……どういうおつもりですか」
尋問のような口調。
ここで言い訳をしてはいけない。退路を断つのだ。
私は強張る唇を無理やり引き上げ、精一杯の妖艶な笑みを浮かべた――つもりだった。
一歩、彼に近づく。
濃厚な薔薇の香りが、彼の鼻先を掠める距離まで。
「レオニード様……」
「……なんでしょう」
「私……貴方とお近づきになりたくて、参りましたの」
震える手で、彼の硬い軍服の胸元に触れる。
心臓が早鐘を打っているのが彼に伝わってしまいそうだ。
「私を……抱いていただけませんか?」
言った。言ってしまった。
もう後戻りはできない。
沈黙が痛い。
数秒が数時間にも感じられる。
拒絶されたら? 軽蔑されたら? あるいは、侵入者としてこのまま斬り捨てられる?
けれど、予想に反して、レオニードは動かなかった。
ただ、その蒼い瞳の色が、ゆらりと濃くなったように見えた。
「……本気で、言っているのか?」
絞り出すような低い声。
私は涙目になりながら、コクコクと頷いた。
「は、はい。私の全てを、貴方に差し上げます。だから……」
「だから?」
「だから……その、私のことを、受け入れてください」
(命を助けてください!)という言葉は飲み込んだ。
その瞬間だった。
ガシッ、と強い力で腕を掴まれた。
「ひゃっ!?」
悲鳴を上げる間もなく、私の身体は引き寄せられ、硬い胸板に押し付けられていた。
見上げると、そこにあったのは先ほどまでの「氷の騎士」の顔ではなかった。
欲望の火が灯った、飢えた獣の瞳。
整った顔が歪み、ゾクリとするほど凶暴な笑みが浮かんでいる。
「……後悔するなよ」
耳元で囁かれた声は、甘く、熱く、そして逃げ場のない響きを帯びていた。
「自分から焚きつけたんだ。――骨の髄まで俺のものになってもらう」
カチャリ。
背後で、扉の鍵が閉められる音がした。




