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第9話 『最後の蒸気の吐息』

 アイリアナは夢を見ていた。


 境界のない深い眠りの淵で、アイリアナは液状の光の海に漂っていた。


 それは奇妙な夢だった。いつもの安酒の臭いも、自分自身の放屁の残響もない。


 神聖な精神の広がりの中で、彼女は無限の光の野原にいた。時間は単なる遠い暗示に過ぎない、そんな空間。


 彼女の前に、一つの人影が立っていた。


 女神である彼女ですら、自分をちっぽけに感じさせるほどの威容を放つシルエット。


 それは英雄だった。顔は見えない。その姿は、神としての視界すら拒むほどの黄金の輝きに包まれていた。


 アイリアナは顔を凝視しようとしたが、黄金の眩しさがそれを阻み、死にゆく太陽の破片で鍛えられたような鎧を纏う男の相貌を隠していた。


 彼女がいつも軽薄に扱っている心臓が、痛みを感じるほどの強さで打ち鳴らされる。


 あり得ない感覚だった。その男、その戦士は、マルチバースの理が禁じているはずの光を放っていた。


 彼は、彼女よりも強くなれる存在に見えた。


 女神よりも、そして他のどの次元、どの宇宙に存在する何者よりも。


 それは、彼女の把握できる領域を完全に逸脱した力だった。


 天上の論理に照らせば、それが異常事態であることをアイリアナは知っていた。いかなる定命の者も、どれほどの人生を重ねようとも、原初の神の域に達することなど不可能なのだ。


 だが、この夢において論理など無意味だった。


 そこに立つ彼の輝かしく厳かな姿を見て、彼女の魂はエルフの器を脱ぎ捨てたいと願った。


 アイリアナは鋭い渇望を感じていた。その熱い鎧に触れたいという、魂の飢え。


 彼の体と一つになり、その光の中に溶け込みたい。彼の影となり、同時に彼の安らぎの場になりたい。


 彼のすべてになりたい。彼の戦う理由、そして彼の夜の休息に。


 それはあまりにも深く情緒的な願いであり、夢の中であるにもかかわらず、彼女の桜色の頬を一筋の涙が伝った。


---


 ぷちゅっ!


 アイリアナの鼻先で膨らんだり萎んだりしていた鼻提灯が、湿った情けない音を立てて弾け、彼女を光の聖域の不潔な現実へと引き戻した。


 女神は冷たい床から飛び起き、寝ぼけ眼をしばたかせながら、乱れた茶色の髪をかきむしった。


「え?……どこ?……」


 黄金の英雄の残像が記憶の隅へと消えていく中、彼女は口ごもった。


 昼寝の際に出たガスの臭いがまだ微かに漂っていたが、空気はどこか違っていた。以前よりも冷たい。


 オンセンの階段の近く、石の腰掛けに座っていたのはダミアンだった。


 彼は決意を固めた様子で、静かに靴紐を結んでいた。清潔なリネンのチュニックを纏い、冒険者の基本装備を身につけている。


「ク、クイチくん……もう行くの?……」


 アイリアナの声は掠れ、隠しきれない寂しさを帯びていた。


 ダミアンはわずかに振り返り、肩越しに穏やかな視線を向けた。


「ああ……もう行くところだ。深く眠っているようだったから、起こしたくなかったんだが」


 いつもの素っ気ないトーンで彼は答えた。


「冷たいじゃない! クイチくんのバカ! 何も言わずに私を一人にするつもりだったのね!」


 アイリアナは頬を膨らませ、神としての尊厳を微塵も感じさせない表情でむくれた。


「俺の名前はダミアンだ……ったく」


 彼が気づくより先に、女神の手が彼の両手を捕らえていた。


 アイリアナの手は温かく、力強かった。彼女は視線を落とし、前髪でその緑色の瞳を隠した。


「あのね……この無限の地獄には……影と牙しかないわけじゃないわ」


 ダミアンの鼓動を止めるほどの真剣な声で、彼女は言った。


「無数の怪物の他にも……知性を持った種族がいる。暗闇の縁で生き延びてきた民がね」


「ほう……」


 アイリアナは唾を飲み込み、握る手に力を込めた。


「影の回廊を抜けて、上の階層へ向かいなさい。そこには聖域ではない『街』が存在する。そこでなら、あなたは……」


 ダミアンは驚きに目を見開いた。


「もちろん、相当遠いわ。とても遠い。あなたのような人間が、ただの好奇心だけで、そんなに長く暗い道を耐えられるかは分からないけれど……」


「アイリアナ……」


 ダミアンは、滅多に見せない優しさを含んだ声で、彼女の名前を呼んだ。


「……なに?」


 沈黙の後、彼は告げた。


「俺は……最初から今回は長い旅にするつもりだったんだ。自分が本当はどこまで行けるのか知りたくてな。お前の今の話を聞いて……ますますやる気が出てきたよ」


 アイリアナは困惑して顔を上げた。


「何を言って……」


 言葉が詰まった。


 ダミアンの手が震えているのを感じたからだ。それは弱さゆえの震えではなく、未知に対する純粋な恐怖と、それを超える高揚によるものだった。


 ダミアンは片手を下げ、ポケットを探った。そして小さな金属の物体を取り出した。緊急時に聖域へとテレポートするための「帰還ボタン」だ。


 彼はアイリアナの手を取り、その掌にボタンを置くと、彼女の指をそっと閉じさせた。


「今回は……ボタンは持っていかない。お前が持っておけ」


「え?……」


 アイリアナは目を見開き、まるで熱い物に触れたかのように一歩後ずさった。


「ク、クイチくん!? 本気なの!? もし外で死んだら、ここでリスポーンするとしてもレベル1に戻っちゃうのよ! これまでの進歩が全部無駄になるのよ! もっと強くなりたいんじゃなかったの!?」


 ダミアンは口角を上げ、勇敢で真摯な笑みを浮かべた。


「ああ、強くなりたい。だからこそ、それを証明するまで戻らないつもりだ。お前の前で情けなくレベルを上げるだけの、弱い英雄はもう終わりだ」


「クイチくん……」


 彼女は囁いた。


 不意に、女神の緑色の瞳が涙で潤み始めた。必死に堪えようとしたが、唇からは小さな悲しみの声が漏れた。


 彼が唯一の安全策を放棄した事実に、彼女は自分でも驚くほどの感情の奔流に打たれたのだ。


 ダミアンは近づき、偏屈な戦士らしからぬ手つきで、エルフの頬を伝い始めた涙を親指で拭った。


「何を泣いてる。神様だろ?」


 彼は静かに冗談を言った。


「俺がここにいなくても、お前には俺がどこにいるか筒抜けなんだろ? バカ神なんだからな、はは」


 アイリアナは鼻をすすり、はしたなく手の甲で鼻水を拭うと、震える吐息をついて無理に微笑んだ。


 それは、どんなマナ・クリスタルよりも聖域を照らし出す笑顔だった。永遠の待ち時間を約束するような、天使のような微笑み。


「ええ、そうね……。私はクイチくんの守護女神だもの。あなたがどこまで行こうと、私の目はいつもあなたの背中を見守っているわ」


 彼女は誇りを取り戻して言った。


 オンセンの水音と聖域の魔法の光が、その瞬間を厳かな静寂で包み込んだ。


---


 張り詰めた空気を和らげるように、ダミアンは「記憶のヴェール」からいくつかの物体を取り出し、パートナーのために並べ始めた。


 それは文明の利器の行進であり、アイリアナはそれを疑念と好奇心が混ざった眼差しで見つめていた。


「これはコンシューマーゲーム機だ。スーパーファミコンっていう。それで、これが歴史上最高のゲーム、『スーパーマリオワールド』だ」


 ダミアンは慣れた手つきでケーブルを繋ぎながら説明した。


「それから、これはDVDプレイヤー付きのテレビだ」


 彼は彼女の前にケースの山を置いた。


「ここに『スパークル・デスティニー!』の全13シーズン、281話が入ってる。退屈したらこれを見ろ。気に入ったら他にもアニメや漫画、ライトノベルをいくらでも取り寄せればいい。……オンセンで酒飲んで屁をこいてるだけの毎日にならないようにな」


 アイリアナはDVDのケースを撫で、表紙のひなみちゃんの絵を見つめた。


「ありがとう……。いちいち細かく説明しなくても、それくらい知ってるわよ……。正直、それの何がそんなに面白いのかは分からないけれど……あなたがそこまで言うなら、暇つぶしに見てみるわ」


「心配するな、ハマるさ。保証するよ。動かし方が分からなかったら説明書を読め」


 アイリアナは再びむくれて、いつもの活気を取り戻した。


「そんなにバカじゃないわよ! 人間のテクノロジーなんて一瞬で解明してあげるわ!」


「まあ、バカ神なのは事実だろ。それがお前の神性なんだからな」


 彼は最後にそうからかった。


 アイリアナは顔を赤くして恥ずかしがったが、怒鳴る代わりに深く息を吸い、両手を広げた。周囲の空気が濃密で温かなものに変わる。


「……それじゃあ、行く前に……門出の祝福を授けてあげるわ」


 ダミアンは背を向けた。アイリアナは彼の肩甲骨に掌を当て、聖域全体が震動するほどのエネルギーを流し込み始めた。


 それは単なるマナの詠唱ではなく、高位の霊的召喚術だった。


 女神が目を閉じると、彼女の声は重層的になり、まるで虚無の中で千の声が同時に歌っているかのように響いた。


「時の果てに住まう精霊たちよ、虚空の血管を流れる星々の血潮よ。光の聖域の守護者アイリアナの名において、汝らの力を求める。破壊のためではなく、鍛錬のために。傷つけるためではなく、維持するために。この戦士の肺が、影の重圧に屈することなきよう。その精神が、忘却によっても消せぬ灯火とならんことを。我が名において、この高潔な英雄に祝福を……」


 霊的な衝撃波がダミアンの体を駆け抜けた。それは単なる筋力ではない。精神は水晶のように澄み渡り、魂が絶対的な確信を持って現実に繋ぎ止められた感覚。


 彼は立ち上がった。かつてないほど体が軽い。彼は聖域の大扉へと歩み寄った。辺獄の無限の回廊へと続く出口だ。


 扉を開くと、眩い白光が彼を包み込み、待ち受ける暗い通路の視界を塗り潰した。


 彼は一瞬立ち止まり、振り返ることなく右手を上げた。


「……じゃあ、行ってくる。またな、アイリアナ」


 女神もまた、溜まった涙で瞳を輝かせながら、自らの手を上げた。


 扉が重苦しい音を立てて閉まり、聖域を照らしていた光が少しだけ弱まった気がした。


「ええ……また会いましょう、ダミアン・ティーボルト」


 アイリアナは、動きを止めた石の扉をじっと見つめていた。やがて、ダミアンが残していったテレビの前に座り込み、膝を抱えた。


(本当に再会まで時間がかかるなら……次に会った時は、もっとたっぷり遊んでもらうんだからね、私の英雄……)


 彼女は床に身を落ち着け、長く息を吐き出した。それは小さな品のない残響となり、彼女は初めて、聖域の静寂が単なる平穏以上の意味を持つことを知った。


 それは、待ち焦がれる時間だった。

これにて第一章、完結です! ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!


 こんなにも馬鹿馬鹿しい物語を一体どんな方が読んでくださっているのか見当もつきませんが、ここから先、物語はさらに面白くなっていきます。


 あまりにも特殊な絆で結ばれた二人の主人公。かつてないほど心を通わせた彼らは、離れ離れになっても大丈夫なのでしょうか?


 ダミアン・ティーボルトの物語、その四度目の人生は、ようやくここからが本番です。


 第二章でまたお会いしましょう! バイバイ!

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