第5話 『過去の城壁』
俺は、ただのクイチだった。
埼玉の郊外にある小さなアパートで暮らす二十四歳の青年。
社会が「引きこもり」と呼ぶ存在。
友達もいなければ、仕事もなかった。両親は高校を卒業する間際に交通事故で他界し、俺にはささやかな遺産と、現実世界では埋められない虚無感だけが残された。
だから、俺は閉じこもった。
唯一の救いは物語だった。異世界、そして何より、魔法少女。
鮮やかな色彩、変身、そして正義。その世界だけが、俺が沈み込むのを繋ぎ止めてくれていた。
部屋はフィギュアやポスターで埋め尽くされ、パソコンの電源が切れることはなかった。
あの冬の夜、寒さは骨まで染みたが、俺には使命があった。
大好きだったアニメ『スパークル・デスティニー!』の、極めて限定的な成人向け同人誌が発売されたのだ。
メインヒロインのひなみちゃんは、俺の生きる理由だった。
断っておくが、単なる変態だったわけではない。
俺はひなみちゃんに恋をしていた。
輝くピンクの髪、女の子らしい純真さ、そして悲劇的な戦いに立ち向かう姿を愛していた。
エピソードごとに彼女は挫折し、内面的にも外的にも問題を抱え、落ち込むことがあった。
それは魔法少女の理想像からはかけ離れていたが、正直に言って、心から彼女のそんな姿を見るのが辛かった。
けれど、放送の最後には必ず逆境を乗り越え、日常で同じような悩みを抱える人々を救うのだ。
俺と同じ境遇のサブキャラクターに、彼女が叫んだ言葉を覚えている。「自分の命を大切にして、自分を愛してあげて!」
それは俺自身が全くできていないことだったが、魂に響くメッセージだった。
それ以来、俺は架空のキャラクターに……かなりの熱量で恋をした。後悔はしていない。
あの特別な一冊は、どうしても現物で手に入れなければならないコレクションだった。
俺は一番厚手のパーカーを着込み、数ヶ月の引きこもり生活を経て外へ出た。
コンビニは数ブロック先にあった。
その時間に歩いている数少ない人々の視線を避け、足早に歩いた。
頭にあるのはひなみちゃんのことだけだ。あの大きな瞳と、描かれた線がどれほど俺の孤独を癒やしてくれるか。
嘘はつかない……彼女の尻や、あの「小さなプリン」のような……うああああ! この話はやめよう。
とにかく店に着き、雑誌コーナーを探した。
だが、空気は一変した。
黒いジャケットを着た男が叫びながら押し入り、銃を振り回した。
強盗だったが、男は正気ではないようだった。目は血走り、震えていた。
「全員伏せろ! 今すぐだ!」
スナック菓子の棚のそばで、俺は硬直した。
「あ、あ……」
通路の真ん中で、母親とはぐれた小さな女の子が泣き出した。
サイコパスはその泣き声に苛立っていた。強盗は初めてのようだった。
とても惨めな人間だ。
男は銃口を直接女の子に向けた。指が引き金にかかる。
何も考えなかった。生存本能による論理もなかった。
その瞬間、ひなみちゃんの声だけを思い出した。「他人の命を大切にして」
俺は全力で走り出し、途中の雑誌棚をなぎ倒した。
最初の一発が静寂を切り裂いたのと同時に、俺は男に飛びかかった。
脇腹に凄まじい衝撃を感じたが、アドレナリンが動きを止めさせなかった。
前腕で男の顔面を殴りつけた。必死なオタクの力に驚いたのか、男は後ろへ倒れ込んだ。
冷たい床の上でもみ合った。
男が再び発砲した。今度は鉛の熱が腹部に入り込むのを感じた。
「あああああっ!」
痛かった。これまでの人生で感じたことのない痛み。
だが、俺は銃に手をかけ、自分でも驚くような咆哮とともにそれを奪い取った。
男がそれを取り返そうと飛びかかってきたとき、本能のままに指が引き金を引いた。
破裂音が響いた。男の体が横に崩れ落ちるのが見えた。
人々が悲鳴を上げながら出口へと走り出す。
俺は赤く染まった白いタイルの上に、そのまま横たわっていた。
女の子は無事だった。母親に抱きかかえられ、ドアから出ていくのが見えた。
視界が霞み始める。
なぎ倒した棚の方を見た。そこには『スパークル・デスティニー!』の同人誌があった。
ピンクの輝きに包まれたひなみちゃんが、表紙から俺に微笑んでいた。
「正しいことをしたね、クイチくん」
そう言われた気がした。
ゆっくりと出血し、意識が遠のいていく中で、俺は不思議な平穏を感じていた。
人生で初めて、勇気ある行動をしたのだ。誰かを救ったのだ。幸せな死だった。




