第13話 『孤立の芳香』
一歩、また一歩。
呼吸のリズムと蓄積した疲労から計算して、八時間が経過していた。
八時間の、絶対的な「無」。
あの卑劣な深淵を越えて以来、回廊は視覚的な停滞期に入ったようだった。
ただ、岩があるだけ。灰色で、冷たく、永遠に続く石。
静寂は物理的な質感すら帯び始め、耳から入り込んで脳の隙間を虚無で満たそうとしてくる。
俺はふと立ち止まった。
松明の光が壁に俺の影を投影する。十歳の小さなシルエット。それは、ベテラン英雄を自称する俺をあざ笑っているかのようだった。
「……ここは、どこだ?」
声がかすれていた。使わなさすぎて、声帯が錆びついているようだった。
後ろを見た。闇。
前を見た。闇。
進んでいないような感覚、無限のランニングマシンの上を歩かされているような感覚が、俺の決意を削り始める。
認めたくはなかった。この場所にそんな満足感を与えるのは御免だった。
だが、俺は正気を失いかけていた。
瞬きをするたびに回廊が狭まっていく。壁が俺の呼吸に合わせ、鼓動しているように感じられた。
俺は床に座り込み、岩肌に背を預けた。
「……くそっ」
一つの思考が脳裏をよぎった。即座に踏み潰そうとしたが、それは消えなかった。――ボタンを持ってこなかったことへの後悔だ。
男であることを証明したかった、バカ神への見栄。勇気の暴走。
そして今、忘却の淵で、あのボタンこそが生と「完全な初期化」を分かつ境界線となっていた。
舌で唇をなぞる。乾燥し、ひび割れ、脱水を告げる塩と埃の味がした。
「水だ……」
修行と、あのエルフとの馬鹿げたごっこ遊びに気を取られ、最も基本的なことを忘れていた。
水。水がない。
意識のインベントリを開き、胃や喉を誤魔化せる何かを探す。
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【 インベントリ 】
黒鉄の短剣(x2)
樹脂の松明(x9)
乾燥食料(x5)
放屁の瓶(x1)
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最後の行に目が釘付けになった。
最初は自動的に処理されたが、脳が現実を理解し、三度読み返すことを強要した。
「……放屁の瓶?」
回廊の温度とは無関係な熱が、首筋から耳まで一気に駆け上がった。
半透明の画面を見つめたまま、心臓が不規則に脈打つのを感じる。
一体、いつの間に装備された?
あいつ、いつ入れたんだ?
「……あの、バカ神が……」
右拳を白くなるまで握りしめた。
授乳されていた時か、おむつ遊びの後に膝の上で眠り込んだ時か。どちらかに違いない。
よだれを垂らし、酒を煽りながら、一人でほくそ笑んでいるバカ神の姿が容易に想像できた。
ため息をつき、怒りが蒸発していくと、代わりに自分が世の中で最も惨めな存在に思えるほどの好奇心が湧いてきた。
「……ふん。単なる、好奇心だぞ」
好奇心か、あるいは脳に浸食し始めた狂気か。俺は誘惑に負けた。
実体化のコマンドを起動する。
コルク栓とシルクのリボンで封じられた、小さなガラス瓶が掌に現れた。
温かかった。
ガラス越しに微かな熱を感じる。まるで、それを満たした者の体温を閉じ込めているかのように。
顔がさらに熱くなった。胸が張り裂けそうだ。
俺は何をやっている? 三つの戦乱を生き抜き、帝国を救った、大人の精神を持つ男だぞ。
それなのに、この屈辱的な物体を保持する両手は震えていた。
どうしたというんだ。俺は何をしようとしている?
必要としていたのだ。深淵のような孤独の中で、光の聖域との繋がりを、命綱のように求めていた。
コルクにかけた指が震える。何を求めているのか自分でも分からない。気晴らしか、あるいは生命の痕跡か。
そして、俺は開けた。
ポンッ
瓶の縁に鼻を近づけ……
くんくん
吸い込んだ。
即座に目を閉じる。聖なるオンセンを満たしていた、あの芳醇かつ腐敗した悪臭が襲ってくるのを覚悟した。
果たしてその通りだった。だが、鼻腔を抜けたのは不快感ではなかった。
吐き気や嫌悪を予想していた。
だが、違った。
それは、「郷愁」の匂いだった。
匂いが現実の波となって俺を打ち据えた。
聖域の匂い。二日酔いのアイリアナの朝の匂い。あの品がなくて、それでいてどこか甘い……
それは……「家」の匂いだった。
人生で初めて、嫌悪感の代わりに、喉を締め付けるような切なさを感じた。
むしろ、心地よかった。たまらなく、心地よかったのだ。
「……ああ。間違いなく、アイリアナのやつだ……」
自分のものではないような声で呟いた。
俺は呆然と、我を忘れていた。
惨めなほど愛おしそうに、瓶の匂いを嗅いでいる自分に気づく。
激しい羞恥心が顔面を支配した。
「な、何やってんだ俺は! この大馬鹿野郎が!」
勢いよく瓶を閉め、片手で額を押さえて目を固く閉じた。
混乱していた。感情は地図のないカオスだ。
孤独が俺を壊している。酔っ払いのエルフのガスを、宇宙で最も高価な香水のように嗅いでいる。
「狂ってる。公式に頭がイカれたな」
瓶をインベントリに仕舞い込んだが、顔の火照りは一向に引かなかった。
「孤独のせいだ……そうに決まってる」
だが不思議なことに、胸の重荷は軽くなっていた。見捨てられたような感覚が、わずかに霧散していた。
再び石の床に横たわり、見えない天井を仰ぐ。
肉体的な疲労がようやくその権利を主張し始めた。
「眠らなきゃな……休まないと、次の魔物に反応する前に殺される」
身を起こし、マナを練る。
水はないが、出発前の神聖な浄化のおかげで、マナの残量は十分だった。
両手を広げ、風の流れをイメージする。
「……結界」
風のマナが顕現し、俺の周囲に半透明のドームを形成した。
単なる不意打ちへの物理盾ではない。内部の圧力を操作し、空気を絶えず循環させる。
効果は穏やかなエアコンのようで、肌を冷やし、回廊の淀んだ空気を濾過してくれる。
この小さな風の泡の中では、静寂もそれほど脅威には感じられなかった。
目を閉じる。脳裏には、どうしようもない女神と、一本のガラス瓶が焼き付いていた。
目が覚めたら、また歩き出そう。
だが今は、眠りの中だけが俺に安らぎをくれる場所だった。




