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第1話 『女神の出汁で生き延びる』

 鋼が黒曜石の爪と衝突し、火花の雨が降り注いで聖域の無限に続く回廊を一瞬だけ照らし出した。


 十歳の腕が衝撃に震える。体重も筋力も格上の敵の圧力を受け、骨が悲鳴を上げているのがわかった。


 この「シャドウ・ドッグ」など、かつての俺なら手首を一捻りするだけで仕留められたはずだ。だが、今はすべてが違う。


【ステータス:疲労 - 78%】

【武器:強化鉄の剣 (Lv. 10) - 耐久度: 12/100】


 目の前で半透明のインターフェースが点滅し、今の自分が絶対的な限界値で動いていることを突きつけてくる。


 高レベルの魔法もなければ、伝説の英雄の肉体もない。あるのは数百年の時をかけて磨き上げた技術と、折れかけた一本の剣だけだ。


 怪物が咆哮を上げた。液状化した闇の塊が、俺の喉を切り裂こうと飛びかかってくる。


「ぎゃあああ!」


 横へ踏み込み、獣がまとう冷気が頬をかすめるのを感じながら、「真空斬り」の構えを繰り出す。


 Lv.10の刃が唸りを上げ、影の核にある脆い一点を捉えた。敵の正体は二つに裂かれ、煙となって霧散していく。


【目標排除!】

【獲得経験値:0(レベル上限に達しています)】


「……くそったれが」


 膝を突かないよう、剣の先を地面に突き立てて毒づいた。


 肺は焼けつくようで、冷や汗が修行者のチュニックを濡らす。聖域の深層部での訓練が自殺行為であることを、体が嫌というほど思い出させてくれる。


 剣が完全に崩壊する前にインベントリへしまい込むと、回廊は再び押しつぶされそうな沈黙に包まれた。


 疲れ果て、腹も減っている。


 右手のブレスレットに埋め込まれたジェムに触れる。この影の地獄と、唯一の避難所を繋ぐたった一つのアイテムだ。


【帰還しますか? ポイント:「光の聖域」】

【はい / いいえ】


 仮想ボタンを手のひらで押し込むと、周囲の空間が歪み、色彩を失っていくのを感じた。


 ダンジョンの絶対的な冷気は、重力のような圧力に取って代わられた。


 白い光に視界を奪われる直前、俺は一瞬だけ目を閉じた。


 そして、湿った熱気。


 安酒のツンとする臭いと水蒸気が混ざり合った香りが、シャドウの攻撃と同じくらい暴力的に五感を叩いた。


 裸足が隠された聖域の熱い石床に触れ、戦闘の喧騒はもっと世俗的な音へと塗り替えられた。


 ……ぷぅ〜♡


 水面から漏れ出した、震えるような、メロディアスだが深く鼻につく音。


 それは、あまりにも聞き慣れた音だった。


 不意に、首筋から顔にかけて猛烈な熱が駆け上がり、頬が真っ赤に燃え上がった。耳まで熱い。嫌悪感と、それでいて抗いがたい何かに引き寄せられるような屈辱的な感覚が混ざり合い、自己嫌悪に陥る。子供の体に引きずられる俺の精神では、この生理的な反応を抑えきれない。


「あらあら……思ったより早かったわね、クイチくん」


 その声。極上の絹のような響きと、ひどい二日酔いのような気だるさを同時に感じさせる声。


 目の前の温泉に腰まで浸かっていたのは、彼女だ。エルフの女神。岩の縁に背を預けて完全にくつろぎ、湯気にその桜色の肌を委ねている。片手には陶器の徳利を持ち、もう片方の手で茶色の髪をかき上げる仕草は優雅そのものだが、その後の振る舞いがその気高さを無慈悲に踏みにじっていく。


「……その名前で呼ぶな」


 上擦った声でなんとか言い返した。顔の火照りが痛いほどだ。


「俺の名前はダミアン。ダミアン・ティーボルトだ。このバカ神……」


「つれないわねぇ、クイチくん」


 彼女は怠そうに笑い、水中で豊かな腰のラインをわずかに揺らした。


 ぷぷ、ぷぅ〜〜〜♡


 沈められた尻から黄金色の気泡が一列になって浮かび上がり、聖域の壁にエコーを残して弾けた。特有の、甘く刺激的な神のガスの臭いがダイレクトに届く。


 慌てて視線を逸らし、腕で鼻を覆ったが、裏腹な目はまたしても彼女の濡れた背中の曲線を探してしまう。心臓が馬鹿みたいに跳ねていた。心の底から不快なのに、精神のどこかで、このグロテスクな光景に奇妙な安らぎを感じている自分もいた。


 どれほど不潔な状況だろうと、自分がまた生きているという証拠だから。


「なんで……なんでいつもこうなんだ……」


 歯を食いしばり、顔の赤みを消そうと無駄な抵抗を試みながら囁いた。


「それが生命のサイクルってものよ、クイチ坊や」


 彼女は徳利をぐいと煽り、安酒の臭いが混じった満足げな溜息を漏らした。


「外の世界が影に沈もうとしていても、ここだけは……ここだけは空気がいつも『新鮮』なのよ」


 俺は横目で彼女を見た。この世で最も賢い存在、博識の神でありながら、これほどまでに酔っ払い、だらしのない笑みを浮かべて聖なる水を汚している。


 だが、諦めるわけにはいかない。この状況で頼れるのは彼女だけなのだ。


 異世界での四度目の人生は、この鼻をつく聖域から始まった。そして俺の体は、この不作法なエルフに対して、今日もまた最高に恥ずかしい反応を返し続けている。

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