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第三帖 吉原神隠しの怪

 ほうきで落ち葉をく。いおりの周りは常にきれいにしておく。それが蓮白れんはくの方針らしい。しかし先ほど綺麗に土が見えていた場所に、ひらりと舞い落ちる色づいた葉を見てため息をこぼした。これでは一向に終わりそうにない。


 一度休憩をと思い、そびえ立つ木々から目を背けようとすると遠くから声がした。

 恵次けいじが振り返ると、そこには手土産を持った若い男性が山を登ってきているところだった。


「騒がしくてすいやせん、金毛こんもうあんってぇのはここですかい」


 江戸のなまりが強い男性は、息を切らしながら尋ねてくる。恵次は箒片手に頷いた。


「はい。何かご用件ですか」

「いやぁ、ちょいと噂の妖怪万事(よろず)さんに、どうにかしていただきたいことがありやして」


 妖怪万事屋とは何だ。初めて聞いた呼称だが、意味合いとしては間違っていない気もする。


「少々お待ちください。ここの主人を呼んで来ます」


 そう言って庵の引き戸を開けると、目の前に仁王立ちの蓮白がいた。蓮白はつんのめりそうになった恵次の肩を支えて、訪問人に目をやる。すう、と目を細めたかと思うと、蓮白は恵次の庵の中に引き込んで扉を閉めてしまった。


「蓮白さん、お客さんですよ」

「見ればわかるよ。でもあれは碌なやつじゃない」


 蓮白が奥へ引っ込もうとするので、恵次は羽織を引っ掴んで扉を開ける。


「すみません、無礼をしました。もう少々お待ちを」

「待たなくていい。帰れ」

「蓮白さん!」


 恵次はもう一度扉を閉ざすと、蓮白に問いただした。困っているなら助けなければいけないんじゃなかったのか。そうすれば蓮白は少し苦い顔をして、声を潜めた。


「あれは吉原の人間だよ。経験上、あそこに行って碌なことがないんだ」

「吉原って遊郭ですよね?」

「そうだよ。頻繁に病が流行ったりよく人が死ぬんだ。妖怪のせいにされちゃ困る」

「だったらなおさら汚名返上するべきですよ」


 蓮白は煮え切らない態度でしばらく逡巡すると、肩を落としてため息を吐いた。恵次の意見を正論だと受け取ったらしい。


「先に言っておくけど、恵次に女性を買うお金はないよ」

「あ、当たり前じゃないですか」


 蓮白に睨まれて恵次はどきりとする。吉原に憧れない男はいない。しかし買えずとも一目見てみたかった。それは男の夢なのだ。


 蓮白はからりと戸を開くと、外で待っている若い男性に一声かけた。少しばかり待たせるかもしれないと。恵次はこのままでもいい、と言いかけるが口を塞がれてしまった。


「服じゃないよ。頭だ」


 言われて、恵次は自身の頭を撫でる。元服の機会を逃したので未だ中剃りだ。もう十六になろうというので、正式な元服は後にしてでも前髪を剃ってしまうべきなのだろう。


「今から髪結い屋に向かうんですか?」

「そんな時間はないよ」


 蓮白が廊下へ引っ込むので、恵次は後ろを追いかける。蓮白は奥の部屋で道具箱をしばらく探ると、顔を上げた時には手に剃刀が握られていた。刃の大きさに、恵次は思わず後ずさる。


「蓮白さんがするんですか。後で店に頼むのは……」

「何を嫌がっているのかわからないけど、今やらないと意味ないよ。子供は吉原に入れないからね」


 蓮白はやる気満々のようで、お湯で満たされた桶や石鹸まで用意し始める。躊躇っているといいから座れ、と膝の裏を蹴られてしまった。恵次は不可抗力にもその場に膝をつく。絵が壊滅的な蓮白だが、どうかうまくいくことを願って恵次は目を瞑った。






 歩くこと半刻。これほど時間がかかるとは思わなかったが、町に降りるのに四半刻要するので、致し方ない。恵次は棒のようになりかけた足を奮い立たせて、見え始めている吉原の大門を捉えた。


 蓮白は涼しい顔をしているので、本当に歩いているのか疑いたくなる。何かしらの幻術で、歩いているように見せかけているだけではないのか。

 恵次は風が吹いて少し寒い月代を撫でた。思いの外蓮白は器用で、髷も結い直してくれたために、なかなか決まっている。新しい鬢付け油の匂いに、無意識にも心が踊っていた。元服の正式儀式は行っていないが、これで大人の仲間入りだ。思い返すと疲れも幾分か吹き飛んでゆく。


 門にたどり着くころには、日が半分地平線に落ちかけていた。仲之町に映えるその立派な桜並木に見惚れてしまう。通りを歩いている多くは若い衆であり、客が少ないので夜の雰囲気はない。夜を探すとすれば、黒い猫が視界をしきりに過ぎり続けているということだけだった。


 しかし時刻も時刻なので、張見世には遊女らが並んで座っていた。足を止めかけると、蓮白が振り返って一睨みを効かせてくる。しかし彼は自覚しているのか、いらっしゃいと声を掛けられているのは蓮白の方だ。

 恵次は歩調を速めて蓮白の隣に立ち並んだ。


「本当にもったいないと思います」


 何が、とは言わない。しかし蓮白はつんとそっぽを向いて知ったことじゃないと言った。


「宝の持ち腐れ、って言うらしいですよ」

「……たまに持ち腐れるだけで、常に無駄にしてるわけじゃない」


 蓮白の意味深長な返答に、恵次は目を剥いた。


「どういうことですか」


 蓮白から答えを聞くことは叶わず、江戸訛の若い衆が一軒の前で足を立ち止めた。奥に立ち並ぶ店よりも立派に見えるが、先ほど通り過ぎた中にはこれよりも大きな店はいくつもあった。


「最近評判が落ちましてね、客入りは少ないですがどうぞ」


 中見世のそこは大文字屋と言った。高級遊女を十五人ほど抱えていて、それなりの規模を誇っている。


「半次郎、吉原抜け出してなぁにやってたんだ!」


 男性の怒号が鼓膜を震わせる。恵次は思わず耳を塞いだ。知命の男性が顔を赤くして、ここまで案内をしてくれた若い衆の胸倉を掴み上げる。


「あたしが頼んだんだよ」


 そんな男性を冷静に嗜めるのは、歳の重ねた声色の女性だ。目の端に小さな皺を刻んでいて、年のころは不惑ほど。つり目が昔は美人だったのだろうと思わせた。

 女性は蓮白に目を止めると、まじまじと頭の天辺から爪先までを見る。


「あんたが金毛庵の人間かい」

「いかにも。まだ用件を聞いていないから、妖怪にまつわる問題で無ければ解決は約束できないけれど」


 蓮白の発言に、女性はふうんと頷いた。彼女は遣り手だろう。遊女らの指南役を担う女性のことだ。まだ信用ならないのか、胸倉から手を離してもなお男性は抗議し続けている。この女郎屋の経営者──忘八に間違いないだろう──は騒ぎ続けるので、遣り手がぴしゃりと叱りつけた。


「あんた、うるさいよ。……でもねぇ、あたしもあんまり信用していないんだよ。妖怪なんてのがこの世にいるとは思えなくてね」

「然様ですか」


 蓮白が目を細めて答える。聞きなれない敬語は恵次の皮膚を粟立たせた。呼び寄せた挙句、詐欺師扱いとはそれは酷い。蓮白が怒っても仕方ない。


「まあ、間口で立ち話もなんだ、中に入んな」


 遣り手は手を扇いで言った。






 り手に内証ないしょう──彼女や忘八ぼうはちがそろばんをはじく場所──へ案内され、茶と茶請ちゃうけを揃って出される。蓮白は口をつけないが、恵次は静かに受け取って一口(すす)った。


「それで、用件は」


 遣り手は気が滅入めいる、とため息を吐くと一つ話し始めた。

 神隠しだ、という。それも悪質な。


「数日、忽然こつぜんと姿を消すんだよ。いない、どこにもいないって探すうちにね、みんな消えた人のことを忘れていくのさ。暇じゃないからね」


 開放されている襖から、遊女たちがちらちらと視線を寄こす。


「そうしたらお堀に人が浮いてるって話が来んだ。誰だって見に行ったら、うちの消えた遊女だったり、馴染みの客だったり……。もう五人は死んでるよ」

「その事件は他の見世では……」


 恵次が口を挟むと、遣り手は首を横に振った。


「それがさっぱりらしくてねぇ。うちだけが狙われているのさ」


 蓮白はしばらく顎に手を添えたまま空を見上げる。


 沈黙の間に、鼻をつまんだような鳴き声が恵次の耳に入ってきた。猫の声だろう。首を少し回すと、歩いてくるまでにも頻繁に見た黒い猫の一匹が間口で寝転がっていた。

 遣り手は離席を断って、猫の首根っこを掴み上げると外へ放り出す。


「ご主人の元に戻りな」


 恵次は手を叩いている遣り手に尋ねかけた。


「野良ではないんですか?」

「違うだろうさ。猫を飼うのは遊女たちの流行りだからね。最近はあの猫をよく見かけるんだが……どこかの娘が猫に子供を産ませるなり、子猫を逃がしちまったんだろう」


 蓮白は、悲しい鳴き声を上げてすごすごと帰ってゆく子猫の背中を見る。そして人差し指を立てて口を開いた。


「死んだ人について『店にとってどんな立場の人間だったか』を紙にまとめてはくれないかな。話はそれからだ」


 手がかりがないことには話は進まない。恵次は蓮白の言葉に頷いて、小さく頭を下げた。


「……じゃあ、あとで半次郎に運ばせるよ」


 遣り手は半次郎を呼びつけると、蓮白と恵次を二階の部屋に案内するよう言った。商魂たくましいか、好きな女郎を選んでくれと言われたが蓮白がきっぱりと断る。


「では、ここの部屋でお待ち下せぇ。戌二つ時頃には事をまとめたものを持ってきやすんで。あ、その前に夕餉を」


 忙しなく色々言うと、半次郎は部屋を出て行った。


 部屋で二人きりになってすぐ、蓮白はうめいて乱雑に開けた障子窓に体を預けた。顔はすっかり血の気が引いていて、肌は元から色白だが一層白く見える。眉根を寄せて胸元を繰り返しさすっていた。風に当たって悪い気分を和らげようとしているらしい。

 気づけば尻尾と獣の耳が生えていて、ぐったりと毛並みが濁っている。


「大丈夫ですか? 今、水を」


 恵次は背負っていた風呂敷を降ろすと、半次郎に頼もうと立ち上がった。


「だから嫌なんだ……こういうところは」


 蓮白は口許を抑えて深呼吸を繰り返していた。

 恵次は一階に降りて、半次郎の姿を探す。彼は台所で担当の若い衆と会話をしていた。水を所望すると、空の瓶に清水を注いでくれる。感謝の意を伝えて部屋に戻ると、蓮白は相変わらず苦しそうにしていた。


「水です」

「ああ、ありがとう」


 蓮白は瓶を受け取ると水を喉に流し込み始める。瓶のくびれまで減った頃、ようやく瓶から口を離した。

 萎れていた尻尾は艶を取り戻し、顔色も少し良くなっているように見える。


「空気が合わないとか、そういうことですか?」

「いや……人の醜い感情ほど不味いものはないからね。しかもここではそれが日常茶飯事で、もはや無自覚だ。罪悪感がないんだよ」

「罪悪感ですか……」

「女郎たちの目つきを見た?」


 恵次はそう言われて、先ほどの視線たちを思い出す。迷惑そうなものから、好奇心にあふれたものまで。人が次々と死んでいるというのに誰もが観客のようにふるまっている。


「次は自分かもしれないのに、やけに他人行儀ですよね」


 蓮白は黙りこくって恵次の目を見た。目を丸くして何かに気づいたと言わんばかりだ。


「……彼女らは自分たちが狙われないとわかっている?」

「どういうことですか?」

「神隠しに遭っている人たちの法則性を、彼女たちは気づいているのやもしれないという話だよ」


 しかしながらすでに彼女らは客の相手を始める頃合いだ。話を聞こうにも、彼女らの仕事を邪魔するわけにはいかない。

 少し落ち着いた様子の蓮白は部屋の隅に畳まれた内から掛け布団を引き出すと、もぞもぞと潜り込み始めた。緩く束ねていた長髪が畳に散らばる。


「恵次、僕はうしふたつまで寝る」

「用意してくださってる夕飯はどうするんですか?」

「要らないと言っておいて。そもそも食べられる気分でもない」


 恵次は頷いて、また半次郎のいるだろう台所に向かうことにした。部屋の去り際、蓮白の獣の耳が小さく揺れたのを恵次は思い返しながら、階段を駆け下りた。






 半次郎は言った通りいぬ二つに半紙を数枚持ってきた。布団の中に身を隠す蓮白れんはくをちらりと見るので、恵次けいじが笑ってごまかすと彼は「朝型ってやつですかね。無理に連れて来てしまって申し訳ねえことをした」などと謝り始めたので、首を振っておいた。


 半紙には五人の名前が書かれていた。

 昼三ちゅうさんの花魁、そのかつての姉女郎である番頭新造、切見世の妹女郎、とある遊女の馴染み客、そして大文字屋が贔屓にしている女衒だ。

 その隅に小さく書かれているのは、次神隠しに遭うかもしれない女郎の名前だった。


──玉鬘たまかずら


 死んだ昼三花魁の妹女郎である、附廻つけまわしの花魁の名だ。

 ぼんやりその文字を見返しているうちに、いつの間にやら日を跨いでいた。遊女や客の話し声も聞こえなくなり、風の音が囁き始める。


 丑二つになろうという頃、蓮白の潜っている布団がうごめいた。蓮白は乱れた髪を手櫛で梳きながら顔を見せる。


「さすがです。時間通りですよ」

「眠いけど致し方ないね」


 蓮白は障子窓から見えている目の前の木の枝に手を伸ばすと、ぽきりと折った。一本の棒になるように枝分かれを取り除くと、髪を持ち上げて小枝をそこに刺す。そして小さく欠伸あくびをしたかと思うと、羽織を寄せながら立ち上がった。


「それでどこに向かうんですか?」


 恵次は蓮白に五人の被害者について書かれた半紙を手渡した。蓮白は目を細めて名前を確認するが、何も言わずに懐へ納めてしまう。


「そうだね。まずは身投げの定番、お歯黒どぶかな」


 そんな定番、知りたくはなかった。

 静まり返った楼を忍び足で抜け出して、蓮白は左右を見渡す。大門のすぐそばにある瓦屋根の面番所めんばんしょに声をかけると、中からまぶたの下がった男性が顔を出した。少し外に出たいと言えば、大文字だいもんじ屋が話をつけていてくれたのか、蓮白の顔を見るなり大門を一時的に開けてくれる。


 そうして外に出ると、蓮白は堀の周りを練り歩き始めた。幅は成人男性一人分ほど、水は黒く濁っているので深さは分からない。


 蓮白は大文字屋があるだろう西の方へ歩いてゆく。そしてとある場所で、ぴたりと足を止めた。腰を曲げてお歯黒どぶを覗き込む。

 あまりいい臭いはしないが、蓮白は大丈夫なのだろうか。


「下駄が浮いているね」


 恵次は蓮白と同じようにどぶを見下ろした。言う通り、歯をこちらに見せて下駄が浮いている。


「大きさからして女性のものだ」

「誰かここで死んだんですか?」


 さあどうだろう、と蓮白はその場にしゃがみ込み鼻を動かした。死体が沈んでいないのか嗅ぎ分けているのかもしれないが、そんなことが良くできるものだ。

 感心していると、恵次はあらゆる方向から小さな力に押されてその場によろめいた。前は深さのわからないどぶで、後ろは田んぼだ。落ちれば終わり、恵次は必死に踏ん張った。


「大丈夫かい?」


 蓮白が見上げる。恵次は足元やら体に子猫たちがぶら下がった状態で、声を絞り出した。頷こうものなら体勢を崩してしまうだろう。


「外してください。このままだと俺、田んぼに落ちます……」

「猫たちの毛並みが汚れては可哀想だしね」


 そう言って蓮白は一匹ずつ子猫を引きはがしてくれる。恵次はなんとか子猫地獄から抜け出せたことに安堵して、その場に尻をついた。


「さっきまで遠巻きに見ていただけだったのに、どうして今更懐いて……」


 恵次の言葉に、蓮白は最後にはがした一匹の子猫と目を合わせると、眉をひそめてその首元を嗅いだ。そしてすぐに下駄の浮かぶ方へ鼻を動かす。


「ご主人がこのお堀の中にいる?」


 猫を掲げて蓮白は尋ねる。子猫はあくびのような鳴き声を漏らすと尻尾を揺らした。蓮白が地面に下ろしてやると、尻尾の先が二つに分かれた。


「猫又か」

「この子猫たち妖怪だったんですか」

「そのようだね」


 蓮白は子猫の背を撫でて、もう一つ訊く。


「母猫はどこにいる?」


 子猫は子供が泣くような悲壮感溢れる鳴き声を上げると、他の子猫たちも共鳴するように鳴き始めた。まるで何かを訴えているようだ。


「なんて言ってるんですか?」

「わからない。人語が話せないということは、人間の呪いから生まれた猫又ではなさそうだけど……母猫はこのどぶに落ちたのかもしれないね」


 妖怪同士とはいえ、人語でないとわからないようだ。蓮白は首を振る。恵次が立ち上がると、猫たちが逃がすまいと足元に群がってきた。

 蓮白は数匹の首根っこを掴んで抱え上げ、肩やら頭に乗せてあげる。恵次にもそうするように言った。


「どうするつもりですか? この猫たち」

「どうもしないよ。ただ吉原の中に連れて帰るだけだ」


 恵次は猫で重くなった首をもたげながら、目をみはる。


「大文字屋は何かを隠している」


 蓮白は囁くように呟いた。






 髪をく。異国を感じさせる細い髪はよく絡まるのか、頻繁ひんぱんくしを通している。恵次けいじ蓮白れんはくの背中を見つめながらそう思った。道具箱から新しい元結もとゆいを取り出すと、背中の中央で括りつけてゆく。


 いつもは蓮白本人がやっているが、今日は数度目の欠伸と共にまだ瞼を閉じていた。気を抜くとかっくりと首を折るので、注意が必要だ。


 朝日が顔を覗かせる頃、吉原の朝が始まる。女郎たちは泊まりの客を送り出し、若い衆は妓楼を掃除する。

 階段を雑巾で拭く若い衆に断って一階へ降りると、遣り手が眼鏡片手に草紙を眺めているのを見つけた。先ほどまで眠たげだった蓮白はいつの間にかぱっちりと目を覚ましていて、彼女に声をかける。


「吉原は朝がお早い」


 遣り手は草紙から顔を上げると、蓮白の手の中にある半紙へ目を動かした。


「さて、言っていないことがあるね」


 蓮白の問いに、遣り手は黙りこくる。水の入った桶を抱える半次郎は、半紙を揺らす蓮白を見るなりそそくさと去っていった。


「本当に被害者はこれだけかな」

「何が言いたいんだい」


 遣り手は眼鏡を外して、草紙にしおりを挟みながら言う。


「いるだろう。まだ一人、消えた女郎が」

「……あの子は浮いて来ていないんだよ」

「君たちは消えてから見つからないと神隠しとは認識できない、そう主張するおつもりかな。沈黙は解決を滞らせるよ」


 蓮白は半紙をひらひら扇ぐと、畳に叩きつけた。


「……夕顔ゆうがおって花魁がいたのさ」


 遣り手は表情を暗くすると、一人の遊女を呼びつける。遊女は目元を擦っていて、昨晩も遅くまで客の相手をしていたのだろう。彼女は蓮白を目に入れるなり、乱れた髪を手で抑えて顔を赤くしながらはだけた袷を寄せた。


「挨拶をし」

「あ……あちきは乙女おとめと申しんす。夕顔姐さんのことを知りたいって……?」


 遣り手に押されるがまま、乙女は名乗る。夕顔という花魁の妹女郎らしい。自分でいいのか、と彼女は戸惑っているが遣り手目を伏せて頷いた。


「……夕顔姐さんはこの見世の稼ぎ頭でした。あれは身請みうけの少し前で……気づけば荷物すべてを残して消えんした」

「身請けを嫌がっていた?」

「それは否定できんせん。金払いのいい馴染みで、姐さんに優しい人ではありんしたが何せ歳が四十も離れていて……」


 乙女は下がりがちになった顔を上げて、慌てて首を振る。


「お客が悪いわけではありんせん。姐さんには合わなかっただけで」

「じゃあ、この紙に書かれている客の名前は、夕顔を身請けする予定だった馴染みかな」


 蓮白は彼女の言い訳など興味なく、半紙に書かれた文字を指さした。乙女は少し目を丸くして頷く。


「それに他の女郎たちの名前は、夕顔姐さんの不満な身請けを喜んでいたひとたちでありんす」


 つまり、次の標的になるかもしれない玉鬘という女性はそのうちの一人ということだろうか。乙女に尋ねると、彼女は強く頷いた。


「あのひとたちは姐さん目の敵にしていんした。姐さんが消えた日から『次の稼ぎ頭はあちきらだ』とも歓喜して……」


 乙女を目元を覆ってさめざめと泣くふりをする。


「あちき、姐さんのことが悔やまれんす」


 蓮白はその様子に何も言わず、乙女に鋭い視線を向けただけだった。






 玉鬘たまかずらという女郎にも話を聞こう。蓮白は心底面倒そうに深い息を吐いてそう言った。

 西にし河岸かしを歩いて、毎日この時間開運(かいうん)稲荷いなりにいるらしい玉鬘の許へ向かう。


「玉鬘さんに尋問するんですか?」


 乙女の証言からは、明らかに夕顔を笑っていた女郎たちへの憎しみが滲んでいた。すでに多くが死に絶えているが、彼女らが原因と見て間違いないだろうと思われる。

 しかし蓮白は首を振った。


「あの娘、白々しいにも程がある」

「娘って、乙女さんですか? 俺はそう思いませんけど」


 反対意見をすると、蓮白は振り返って恵次の顎を指先で撫でる。恵次は軽く上を向かされて、眉をひそめた。なんですかと尋ねたいが声が出ない。


「そんな甘いことを言っていると、いつか女性に騙されるよ」


 蓮白はそう言うと、また背を向け歩き出した。


「乙女という娘、姉女郎の死体が上がってきていないというのに、勝手に死んだと決めつけて泣いている。妹の名を授かった者らしく、意地汚く彼女の生に縋ればいいのに」

「諦めが良すぎると言いたいんですか?」

「そう。彼女は薄幸の女を演じている」


 年の功というやつか、蓮白はきっぱり言い切ると鳥居に顔を上げた。小さく礼をして赤い鳥居を潜り抜ける。


「君が玉鬘だね」


 石段に腰掛けて、蟻の行列を眺めている女性に声をかけた。玉鬘は声に気づくとすぐに立ち上がる。玉鬘という花魁は、背が高く歌舞伎の女形のようなひとだった。細身ですらりと小綺麗で、所作に凛としたものがある。

 彼女は下がり眉の釣り目を寄こすと、丁寧に一つ礼をした。


「貴方がたは昨晩いらした、万事よろず屋さまですね」


 珍しくくるわ言葉のない口調で彼女は言う。


「話を伺っても」

「……乙女が言ったのでしょう。あたしが怪しいと」


 恵次が頷くと、玉鬘はふうと細く息を吐いた。


「お掛け下さい。知っていること、全てお話します」


 つまるところ、玉鬘の姉女郎らも妹女郎も夕顔を不運を喜ばしく感じていたのは本当だと言う。玉鬘はあらゆる女郎から恨みを買うほどに、大した美人ではなかった。花魁の座は彼女にふさわしくないと、多くの遊女が感じていた。


「でもあたしには、夕顔さんの好かれる理由がわかります。最近猫を飼うのが流行っておりますけど、大抵はすぐ飽きて野良にしてしまうんです」


 黒い子猫が鳥居を潜ってやって来る。玉鬘は表情を緩めて微笑むと、子猫を抱きかかえた。


「夕顔さんの小福こふくに似ているね、あんたは」


 そして毛並みのいい背中を何度も撫でやる。恵次にはその猫の尻尾が又になっているのを見つけるが、彼女は厭わず可愛がっていた。


「小福は……夕顔さんの飼っていた雌猫の名前です」


 玉鬘は子猫の脇を抱えて掲げると、あんたも雌猫なんだねと笑う。


「夕顔さんは世話ができなくなった猫を途中で放り投げるようなこと、しませんから」


 しかし玉鬘は首を下げて「でも」と続けた。


「もうしばらく小福を見ていないわ。一体どこに行ってしまったのか……」

「ではもし君は、足抜けをするのに猫を連れて行けないとわかったら、どうする?」


 悲しさを紛らわすように背を撫でている玉鬘に、蓮白は一つ問う。玉鬘は目を丸くして、答えるのに逡巡した。恵次は問われていないが、同じように考える。

 野良にはしたくない。なら、誰かに猫の世話を頼むのではないか。


「あたしなら、妹女郎に頼──」


 玉鬘は言葉を止めた。恵次もまた小さく息を飲む。一人の女郎の姿が脳裏に浮かび上がっていた。


「君は乙女のことをどう思う」


 玉鬘はまさか、と口を押えるが声が出ないようだった。そしてしばらく記憶を掘り返す。玉鬘がすぐに否定しなかったのは、そう思われる何かがあったのだろう。

 彼女は猫を石畳に下ろした。猫は二又に分かれた尻尾を、ぴんと立てる。


「……あの子、言っていたわ」


──うるさいのが居なくなってせいせいする! 面倒事なんて捨て置けばよろしんす


 蓮白は静かに立ち上がって、黒板塀の向こうを眺めた。そこはちょうど、女物の下駄がどぶに浮かんでいた所だ。


「どぶをさらってもらおう」


 尻に付いた砂埃を払いながら、蓮白は呟いた。






 半次郎はいやいや言いながらも、人を集めてくれた。網のようなものでどぶを底からさらう。浮かぶ下駄に数名が怯えていたが、作業と続けさせた。


 中から引きずり上げられたのは、人の顔をしていない夕顔ゆうがおとその飼い猫小福(こふく)だった。普通、死体はしばらくすれば浮き上がってくる。しかし彼女も猫もしぼんでしまって、なぜか浮いてこないような状況になっていた。これは見つからないわけだ。


 蓮白れんはくが無理に連れ出してきた乙女おとめは顔を背けて背中を丸めていた。そして肩を震わせている。蓮白は白々しい、と再び吐き捨てた。

 大文字だいもんじ屋に戻り、事を伝える。夕顔とその飼い猫が引き上げられたこと。不自然にも体がしぼんでいて、そのせいで浮いてこなかったのだということ。


 それに遣り手は小さく生返事をしただけで、再びそろばんを弾いていた。


 蓮白は手を洗うと、台所番の若い衆に一つ声をかけた。


「少し食材と鍋を借りてもいいかな」


 若い衆は突然の申し出に眉根を寄せるが、恵次けいじが腰を低くしてお願いするとしぶしぶ貸してくれた。道具は壊してくれるなと釘を刺して。

 恵次は蓮白の隣に立ち並んで、何を作るのか尋ねた。蓮白は短く「ねこまんま」と言う。


「餌で猫又の子猫たちを呼び寄せて、話を聞けないかと思ってね。僕が作ったものを食えば、大抵人語の知らない妖怪でも少しは話せるようになるんだ」


 そう言って炊かれた米を鍋に落とした。水を加えて、粥ほどの柔らかさになるまでぐつぐつと沸かしてゆく。味付けはなし、鳥の胸肉を茹でたものを割いて、粥の上に落とした。余っていると言ってくれた人参の葉を入れて、もう少しだけ煮てあげる。


 普段使っていない小皿を借りて、盛り付けてあげると少し冷ますために並べておいた。

 半次郎がへえ、と興味深そうに覗いてくる。


「そんなご趣味が」

「出来て損はないからね」


 蓮白は小指で粥の温度を確かめると、見世を出てすぐの軒先に小皿を並べた。すると、あれよあれよと黒猫たちが湧いて出てくる。

 恵次はさることながら、その他の吉原の人間もこれほど子猫がいたとは思わなんだろう。もはや悲鳴を上げている。


「さて、これで話が聞けるといいんだけど」


 結論から言えば、蓮白の呟きは無為に消えた。

 猫たちは美味しく頂いた後、口の周りをぺろぺろと舐めて、次は毛づくろいをして、しばらく昼寝をして、そしてどこかへ消えていったのだ。


 蓮白は手をひさしに、黒猫の去り行く方を眺める。


「残念でしたね」

「いや、これは小さな収穫だ」


 子猫たちは黒板塀くろいたへいの向こう側へすり抜けるように消えていった。あの方角は小福という猫が引き上げられている場所のはずだ。蓮白は呟く。


「一連の騒動を巻き起こしているのは、小福の恨みかもしれない。きちんと墓を作って弔えば、事件は収まるか……」


 あごに手を添えて蓮白が軽くうつむいたとき、恵次は背中に強い衝撃がありその場に倒れ込んだ。いつだって俺だ。恵次は腰をさすりながら立ち上がる。

 ぶつかってきたのは急ぐ乙女だった。錯乱状態で髪が乱れている。蓮白を見つけるなり、顔面蒼白で羽織を掴んだ。


「猫がっ! 大きな猫がいんす、助けておくんなまし!」


 蓮白は瞬きをすると、慌てる乙女の顎を指先で抓んだ。彼女は驚いて動きを止めるが、蓮白は構わずその頭から大きな櫛を一つ引き抜いた。単衣を纏った女性の描かれている古い絵の櫛だ。


「もしや知っていたね。夕顔花魁の足抜けを」


 乙女は涙目を瞠って、蓮白を見上げる。


「己の身で復讐に出ようとするとはね、ああいった妖怪は思いの外賢い」


 蓮白はつらつらと独り言を並べた。それに苛立ちを覚えたのか乙女は眦を吊り上げて蓮白を揺さぶる。しかしはっと他人の目に我に返ったようで、蓮白向かって大きく囁いた。


「猫はあちきの部屋におりんす、来ておくんな!」


 人がいないことを確認して、乙女はさっと襖を開くと早く入るように言った。部屋の障子窓には大きな黒猫が半身を乗り出すように嵌っている。確かにこれは大きい。叫びたくなるのもわかるが……恵次は猫の身体に取り巻く黒いとぐろに目を止めた。


 猫は乙女をじっと見つめているだけで何もしない。

 蓮白は乙女の頭から引き抜いた櫛を猫に差し出した。猫は人を丸のみできそうなほど大きな口を開けてから櫛を咥える。


「あんたっ、あちきの、何して……!」


 蓮白に詰め寄ろうとする乙女だが、恵次は仕方なく彼女の脇を後ろから抱える。蓮白は乙女が恵次の腕の中で喚くのを横目で見て、すぐに大きな妖怪猫の顎に手を伸ばした。猫はごろごろと雷のように喉を鳴らして目を細める。


「あれは夕顔のものだろう」

「……何言ってんだ、あれはあちきが馴染みの客に」

「なら、そのお客は教養がなかったみたいだ」


 乙女は暴れるのをやめて、蓮白の言い分に耳を傾けていた。


「あの櫛に描かれていたのは『源氏物語』の四巻、夕顔という女性の話に添えられた絵だよ」


 すると乙女は顔を青ざめさせて口をはくはくと動かした。何か絞り出そうとしているが、その時点で怪しさは拭えない。


「そ、そう、あれは姐さんから頂いて……」

「でも他に奪った飾りも売るつもりだったんだろう?」


 蓮白は床に転がっていた装飾の道具箱を蹴飛ばした。中からは乙女が身に着けているものと違って、地味な柄の簪や櫛、帯飾りなどが飛び出す。


「……」

「困ったことに猫は売れない」


 蓮白は帯に差していた煙管を口に咥えると、燐寸で火をつけた。用済みになった燐寸は蓮白の指の中で火を大きくして燃え尽きる。それを見た乙女は蓮白を人ならざるものだとようやく理解したようだった。


 悲鳴を上げて、恵次の腕からすり抜ける。しかし逃げようにも腰が抜けてしまったようで、袖で顔半分を隠すしかないらしい。

 蓮白は紫煙を吐くと、乙女の肩を指先で突いた。


「小福をどうしたのか、その口で言ってごらん」

「あ、あちきはっ」


 引き攣れた悲鳴に似た声が部屋に響く。


「あの猫を面倒見るのなんか御免だったんだっ」


 猫は大きく欠伸あくびをして、口の周りを舐めた。ざらざらとした大きな舌は捕食者を連想させる。乙女は恐怖のあまり、涙と洟を流して叫んだ。


「あたしはどぶに小福を投げ捨てたっ! 腹が大きくなっていて、子猫が産まれたらたまったもんじゃない、そう思ってあちきは!」

「吐いたね」


 蓮白の足元から風が巻き起こったかと思うと、蓮白の頭からは獣の耳が、羽織の下からは九つの大きな尾が生えた。

 蓮白の手に握られている式神が乙女の額にあてがわれる。乙女は目を大きくに開いたまま動きを止めた。まるで金縛りにあっているようだ。


「さあ、小福。……いや、名もなき子猫たち。真実が明かされたわけだけど、君たちはどうしたい」


 大きな猫は顔を毛繕い、蓮白の羽織を爪でちょいちょいと引っ掻く。


「いかにも、わたし達は母小福の腹に宿っていた、産まれざる子猫たちの思念体です。母を殺したこと、わたし達は許せません」


 猫の口の動きとはちぐはぐに声が響く。


「力を合わせて一匹になったことにより、言葉を習得したわけだ」


 蓮白は呟いた。そういうこともあるのだな、と恵次は猫を見上げる。


「わたし達は彼女の記憶の忘却を求めます」


 恵次は目を瞠った。蓮白は戸惑いを見せつつも冷静に尋ねる。


「それは乙女の記憶から小福を殺したことだけを?」

「いいえ、全てです。夕顔がいた事さえすべて」

「償いはいらないんだね?」


 猫は大きな目で乙女を捉えると、憐れむように目を軽く伏せた。


「彼女が後悔という名の学びを得ないことが、一番の復讐です。それでまた騒ぎ立てたとて、困るのは夕顔を邪険にした人々……」


 蓮白は猫の望み通り、乙女の額に当てていた式神に力を込めた。乙女は首を軽く引っ張られるが、蓮白の手が離れると畳に倒れ込む。


「ではわたし達のこともお食べください。わたし達は恨みから人々を殺して騒ぎを起こし、九尾さまがいらっしゃるよう仕向けました。わたし達は、猫又としての本質を放棄したのです」


 猫又の身体を取り巻くとぐろは濃く、深くなっていく。蓮白は乙女に使った式神を指先で抓むと、煙管を咥える前に一つ尋ねた。


「最後に訊く。君は人を殺したこと、後悔している?」

「はい」


 蓮白は小さく息を吐いた。


「君は妖怪に向いていないね。また猫にでも生まれ変わった方が良さそうだ」


 煙管を口に咥えると、ゆっくりと煙を吸い込んだ。翳した式神に呼気を吐きつけると、それは宙を漂って猫にぴたりと張り付く。

 猫は小さく小さくしぼんでいった。子猫よりも小さく、小指程にまで。


「最後にご馳走がいただけて良かったです。とても美味しかった」


 猫は囁くように言うと、ゆっくり目を閉じる。猫は蓮白の口の中に消えていった。

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