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第二帖 連続店じまいの怪

 その朝は随分優雅だった。


 恵次は押し入れから衣替えの為の畳紙たとうしを取り出して広げ、そこに綺麗に畳んだ蓮白のころもを収めていく。その隣では蓮白本人が他の小物や調度品の管理を行っていた。夏も終わりそろそろ風が涼しくなってくる頃だ。


 しかしやけにいろいろなものが揃っている。不要なのではないか、と思うようなものはないが、押し入れを探せばなんでもありそうだ。そんなことを考えながらも恵次が手を動かしていた時、蓮白は少し面倒そうに声を漏らした。

 恵次は顔を持ち上げる。


「どうかしたんですか?」


 蓮白の視線の先には煙草たばこぼんがあり、其の上には久々に見る珍しい装飾の煙管きせるが乗っている。


「煙草が切れてしまっていたんだよ」


 蓮白は綺麗な指先で煙管を取り上げると、くるくると手の中でもてあそぶ。

 煙管は狸和尚と対峙した時に使っていたので、いざという時煙草が尽きているとよくないのだろう。蓮白は気づいてよかった、と半分安堵(あんど)したような調子で呟いた。


「買いに行くんですか?」


 恵次は畳紙の紐を縛りながら尋ねる。


「そうだね」


 蓮白は何か考え事をしながら生返事をした。そして視線はゆっくりと恵次の全身へ向けられる。白い指先が恵次に伸びて、あわせにひっかけられた。


「恵次の秋ものも調達する必要があるし」

「俺はこれで十分ですけど」

「雪が降るようになったら、君は薄手のものを何枚も重ね着るような、そんな不格好なことをするつもりかな」


 そう言って蓮白は立ち上がると、羽織の襟元えりもとを正した。恵次はふと自身の服へ見下ろして、これから寒くなる季節のことを思う。これは素直に買ってもらった方がいいだろう。意地を張ったせいで風邪を引くのは馬鹿馬鹿しい。


 包んだ夏物の着物を抱えて立ち上がると、恵次はそれを押し入れの奥に仕舞しまった。そして手をはたく。


「今から行くんですか?」


 蓮白は障子を開けて、ふもとに見える町の方角を眺めた。恵次には雑木林しか見えないので、蓮白の目に何が映っているか詳しくは不明だ。


「今日は人が少ないらしいし、そうしようか」


 何故かうわの空な様子で部屋を出ていく蓮白に首を傾げつつ、恵次は部屋の隅に畳んでいた外出用の羽織に手を伸ばした。






 恵次は肩から斜めに掛けた風呂敷の結び目を握り締めた。

 人が少ないらしい、というのは本当で、前はよく賑わっていた町が今は閑散としている。行き交う人も少なく、屋台や歩き売りもいない。


 蓮白は細い指先で自身のあごを撫でた。蓮白もまた異常であると感じているらしい。

 すると蓮白は紙きれをふところから取り出し、恵次に握らせた。恵次は紙きれを開く。そこに描かれているのはひょろひょろとした蚯蚓みみずのような線が縦や横に引かれた──暗号?


 恵次が首を傾げていると、蓮白はやって来た通りの引き返す方を指でさして言った。


「少し予定を変更だ。僕は草紙そうし屋に行ってくるから、恵次は目当ての骨董こっとう屋にお使いをしてほしい」

「はあ。わかりました」


 しかしこの紙はなんだ。落書きのようなこれになにか意味はあるのか。


小豆あずきどうという店だ。蓮白の使いでいつもの煙草たばこと、提灯ちょうちんの火を貰いに来たと言えばいいから、よろしくね。店の場所はその地図に書いてある」


 そう言うと、蓮白は背を向けて通り過ぎた草紙屋へ向かっていった。

 恵次は再び手の中の紙切れに目を向ける。


「地図……地図ってこれが?」


 何が書いているのかわからない。黒で塗りつぶされた太い線は、もしや今恵次が立っているこの大通りだろうか。


「あの人、自分の造形は良いくせに、絵になるとひどいのか?」


 恵次は聞かれていたら首を締めあげられそうなことをぼやきつつ、通りと地図を見比べながらふらふらと歩き始めた。やたらと文字だけは綺麗だ。地図の一角から伸びた線の先に書かれている『小豆堂』の文字に思う。恵次はひとしきり紙切れを回してみたが、諦めて懐へ突っ込んでしまった。

 これなら人に聞いた方が早い。


「すみません」


 ひとまず目についた店へ顔をのぞかせてみた。

 暖簾のれんをくぐると、その店内は酷く暗かった。棚や床に所狭ところせましと何かよくわからない玩具おもちゃのようなものが並べられていて、絡繰からくり屋敷のようで不気味だ。


 変な店へ入ってしまった。恵次は後悔しながらも、亭主を探す。しかし先に目に留まったのは、十歳ほどのおかっぱ頭の少女だった。七五三で着るような赤の四つ身の振袖ふりそでまとっていて、袋帯ふくろおびで締め上げている。まりが散りばめられた柄は華やかだが、店内の雰囲気にまるで似合わない。


 そんな少女は器用にも刷毛はけを片手に提灯の紙を張っているところだった。


「こんにちは、少し聞きたいことがあるんですけど」


 少女はゆっくりと目線を寄こした。来客に驚く様子もなく、恵次を一瞥いちべつするとまた手元の提灯の木枠きわくのりり始める。


「小豆堂に行きたいんですが、知りませんか?」


 恵次がめげずに尋ねると、少女は怪訝けげんな表情で無造作に置かれていた貯金箱を突き出してきた。それは賽銭箱さいせんばこの形をしていて、側面に大きく『小豆堂』と書かれている。


 恵次は驚きつつ、店の軒先のきさきへ出て看板を見上げた。

 小豆堂。


 少女は恵次の慌ただしさに耳を塞いで、鬱陶うっとうしそう店の奥へを入っていく。恵次は慌てて彼女を呼び止めた。


「あの……娘さん、ですか? お父さんを呼んでくれませんか、この店の亭主の」


 少女は何に苛立ったのか眉根を寄せると、あろうことかその貯金箱を恵次に投げつけてきた。貯金箱は銭の音を立てて恵次の胸もとに着地する。


餓鬼がき扱いするな。わたしがここの亭主だ」


 こんな幼い少女が亭主を名乗るとは驚きだが、初めて口を利いてくれたと感動する。恵次は続けて用件を言う。


「蓮白という人のお使いなんです。いつもの煙草と提灯の火を買いに」

「蓮白?」


 少女は疑いの目でまじまじと恵次を眺めると、深いため息を吐いた。


「煙草はそこの棚に。火は奥から持って来る。目を離す隙に、くれぐれも店のものを壊すなよ」


 不愛想に言い放つと少女は店の奥へ消えていった。恵次は言われた通り、指定された棚を引く。側には紙の袋も入っていて、きっとこの中に煙草を詰めるのだ。


 棚の中にある竹でできた鑷子せっしで草を掴むと、口を広げた封筒へぱらぱらと詰めていく。きっと量り売りなので、量の具合は気にしなくていいだろう。


 そうしていると奥から少女が戻ってきた。それと同時に暖簾のれんが持ち上げられて、店内に小さく光が入る。恵次が振り向くと、そこには草紙を手にした蓮白が立っていた。

 少女は手の中の燐寸まっち箱を蓮白に投げつける。対して蓮白は驚きもせず軽々と受け取った。


「久しぶりだね、海老名えびな

「あんたみたいなお客がいるから、この店も閉められないんだ。責任を取れ」


 海老名と呼ばれた少女は蓮白に吐き捨てた。そしてぶつぶつと文句を垂れ流しながらそろばんをはじいている。


「責任と言われても、こうやってひとつきに一度山から下りて買いに来てあげているわけだけど。不満かな」

「それの何が優良客だ。ね」


 少女はさらさらと紙に文字を書きつけると、蓮白に叩きつけた。それは少し不自然な動きで、恵次は目を瞠る。紙がそんな風に飛ぶはずがない。何かしら目に見えない力が働いていた。


「蓮白さん、この……海老名さんって人は一体?」

「彼女は人じゃないよ」


 蓮白は懐へ手を入れ、取り出した巾着から銭を数えている。


「もしや妖怪ですか?」


 蓮白が海老名に近づいて金子きんすを差し出すと、海老名はひったくるように受け取って、その仏頂面のまま作業中だった提灯へ手を伸ばした。


「そう。彼女は所謂いわゆる座敷ざしき童子わらしだ」


 恵次は海老名の格好に合点がいった。






 座敷童子ざしきわらしとは、店に繁盛をもたらす福の神だ。好物である小豆飯を床板とこいたに置いておくと、喜んで繁栄に手を貸してくれるらしい。そして家の者が欲におぼれ始めると座敷童子は店を出ていく。著しい赤字を残して去るのだ。

 海老名は亭主と言っていたし、店を閉めたがっていた。


 恵次は蓮白の片手にある草紙に目を止めて尋ねた。


「それはなんですか?」

「地図だよ」


 ぱらり、と一枚(ページ)めくって見せてくれる。

 絵が下手な自覚はあったのだな、と心の中の感心しつつ何故地図を、と首を傾げた。


「町がやけに閑散としていると思えば、軒並み暖簾を降ろしているようだったんだ。これは少しおかしな状況だと思ってね。それに……海老名が随分不機嫌そうだった」


 あれは通常運転ではなかったらしい。確かに客へ商品を投げつけるとは、乱暴である。


「何かするんですか?」

「まずはどこがみせ仕舞じまいをしているのか、調べるところからだね」


 よしと意気込もうとする恵次だが、蓮白に袖を引かれて立ち止まった。


「でもその前に着替えなくては」


 蓮白はくるり、と指先を回してみせると何もなかった空気中に風呂敷の包みを出現させた。片手で受け止めると、結び目の隙間からどんなものかを見せてくれる。


「……派手過ぎませんか?」


 恵次は白と黒の縦縞たてしまに意見した。どうやらこれに青丹あおにの帯を合わせるらしい。


「僕を信じなさい」


 もしかしたら町の流行りはこうなのかもしれない。蓮白は恵次の不安と裏腹に、堂々と言うので頷いておくことにした。


 山の中腹にある庵──金毛こんもうあんに戻ると、恵次は早速秋ものへと着替えることになった。やはり派手だと思う。寺で育てられた感性のせいでそう感じてしまう可能性も捨てきれないが。

 部屋を出ると、玄関の上り框に腰掛けた蓮白が地図に何か印をつけていた。筆でいくつかの店にばつ印が刻まれている。潰れてしまった店だろう。

 しかし今日恵次が歩いた通り以外は健在のようだった。あの通りだけが狙ったように店を畳んでいる。


「……海老名さんを疑ってるんですか?」


 蓮白の筆先が小豆堂の上で彷徨さまよっているので、思わず尋ねてみた。蓮白はううむとうなって宙を見上げる。


「さあ、彼女も被害者である可能性は捨てきれない」

「海老名さんも」

「彼女が座敷童子であるから、閉店の危機を免れているのやもしれない。何はともあれ、話を聞く方が早いね」


 海老名さんにですか、と恵次が訊きかけると、蓮白がそれを察知したように否定した。


「そんな無粋なことはしないよ。暖簾のれんを降ろさずに済んだ店の人間に決まっている」


 そちらの方が無粋なのでは。

 恵次はそんな考えが過ぎった。






 海老名は店の奥に戻ると、その四畳半で落雁らくがんをむさぼっている七歳ほどの少女を見下ろした。海老名と同じおかっぱの頭に花の飾りをつけていて、着物は可愛らしい山吹色だ。ここしばらくの閉店事件に大きくかかわっている彼女に、海老名はひたいを抑えた。


 彼女の名は五十鈴いすず。海老名と同じ座敷童子だった。

 五十鈴は口の周りをぺろりと舐めると、海老名の姿に気づいて顔を上げた。そして可愛らしく首を傾げるが、目の奥は暗く沈んでいる。


「海老名はまだ?」


 海老名は自分ではない『海老名』という名の別人への言及にぐっと言葉を詰まらせた。


「……悪いが、まだ帰ってきていないんだ」

「あんまり遅いとまたここを出て行っちゃうよ」


 五十鈴の脅迫に海老名は首を項垂うなだれる。周囲の店が軒並み暖簾を降ろしてしまったのは彼女の行動によるものだ。海老名を探すためにあらゆる店を転々として、挙句あげくこうなった。海老名は五十鈴によって苦しむ人がこれ以上現れないように、小豆堂に留まることを提案していた。その尋ね人を連れてくると言って。


 ああ、どうしよう。その海老名はもうこの世にいないのに。


「もう……もう少し待ってくれ。お願いだ」


 煮え切らない返事に五十鈴は畳をって、うつむく海老名を見上げる。海老名は奥歯を噛みしめて目を逸らした。

 五十鈴は嫌らしくもにんまりと笑って海老名の着物のすそを引っ張る。


「ねえ、きみでもいいよ?」

「……何の話だ?」

「約束を守るの、きみでもいいんだよ」

「約、束……」


 海老名は覚えのないことを求められて唖然あぜんとした。五十鈴はしばらく海老名の表情を伺い続けて、しかし相変わらず鈍い反応の海老名にため息を吐く。そしてまた、思い出したように落雁をかじり始めた。






 恵次は表情をくもらせた。地図にばつ印を刻むのは、精神的な疲労がかかる。こうも軒並み暖簾を降ろしているのを見ると、座敷童子とは可愛い顔をして恐ろしい妖怪だ。


 通りの南端まで印を終えたので、来た道を帰ろうと後ろを振り向く。ちょうどそこには蓮白のまっすぐな背中が見えていて、終わりを告げるために声を上げようとした。

 しかし恵次は挙げかけた手を降ろす。

 蓮白は赤い着物の少女に勢いよく突き飛ばされよろめくと、それから羽織を強く引かれて何かを訴えられ始めた。


海老名えびなさん?」


 おかっぱ頭から覗く顔は必死そうだ。対して蓮白は顔をしかめて首を横に振っている。恵次は早歩きで二人に近づいた。


「どうかしましたか?」

「こいつ、けちなんだ!」


 海老名は蓮白に人差し指を突きつけると、往来おうらいで人目を気にせず言い放った。蓮白は目を細めて海老名の耳を引っ張る。


「おい、僕の評判が落ちたらどうする」


 しかしつねり上げられた耳を抑えてなお、海老名はめげずに主張した。


「本当のことだろっ! お願いだ、海老名に化けてくれ」

「嫌だ。どうして泥臭い商人のふりなんかしなくちゃならない」


 二人はしばらく好きに言い争っている。恵次は傍で聞くうちに、不意に違和感に気が付いた。


──海老名に化けてくれ?


 彼女の名は海老名のはずだが、この言い方だと別にもう一人海老名がいるみたいだ。そして蓮白もまた「泥臭い」と形容詞をつけて罵った。ただの感覚の違いかもしれないが、恵次には目の前の海老名が泥臭くは見えない。


 不思議なのは、海老名は先ほども会ったというのに、数刻後にくるりと態度を変えて助けを求めてきたことだ。そして何故ここまで蓮白は拒絶を示しているのか。海老名を被害者だと認めているなら、この対応は随分邪険だ。

 恵次はつんとして聞く耳を塞ぐ蓮白の腕を叩いた。


「話、聞いてあげませんか?」


 蓮白は心底嫌そうに眉をひそめると、恵次と海老名を交互に見やった。


「恵次、彼女は少女の見た目をしているけど、中身は分別ふんべつのある大人だよ」

「なおさら、ひとまず海老名さんの話を聞いてあげるべきです。数刻の間に何かあったんですよね?」


 海老名は恵次の誘導に強く頷いた。


後生ごしょうだ、蓮白」


 蓮白はまだ何か疑っているようで、口許をそでで隠して海老名を静かに見下ろしている。海老名はもう一押し、と口を開いたときに、蓮白はあえて「まさか」と言葉を被せた。海老名はぐっと口をつぐむ。


「この一連の閉店事件に関わっている座敷童子をかくまっている、とかではないだろうね」


 海老名は瞳を揺らがせて、わかりやすく動揺を見せた。蓮白は無慈悲にも更に畳みかける。


「そしてその座敷童子が実は五十鈴だ、とか」

「……」


 海老名は黙りこくってしまった。図星のようだ。蓮白の態度は会話の途中でこれを見越していたのだと知る。しかし恵次は知らぬ間に増えゆく名前の数に混乱していた。


「つまり……どういうことですか?」


 小さく挙手をして、恵次は二人に尋ねる。海老名はしばらく逡巡しゅんじゅんすると、少し先に見える小豆あずきどうを指さした。


「あそこで全て話す」






 小豆あずきどうは元々、別の人間が経営していた店だった。

 若い男性とその妻。子供がなかなかできないようで、二人で暮らしていた。小豆堂はその通りではそこそこ有名な骨董こっとうで、座敷童子ざしきわらしは噂に釣られてその家に顔を覗かせた。


「わたしは明るい二人に好印象を抱いて住み着いた」


 海老名えびなは呟くように言った。

 小豆堂の奥、ささやかな四畳半で三人茶を啜る。件の座敷童子はまだ顔を見せていない。


「それが終わりの始まりだったんだな」


 亭主の男性と妻は、座敷童子の言い伝えを恐れていた。それは欲におぼれると店が潰れてしまうということ。危ない橋の上を渡るような生活は、この先産まれるかもしれない子供に課せられない、と思ったらしい。二人は子供を作らないことにした。


「二人はわたしを『童子ちゃん』と呼んで、娘のように接し始めた。わたしもまた、今までの家と違う扱いに気をよくしていたんだ」


 そんなとき、海老名の扱いを羨ましがってもう一人の座敷童子がやって来る。


「それが五十鈴だ」


 恵次は重い空気に湯呑をさする。


「あの子はやって来てすぐに、妹のような立ち位置を確立させた。普通、こんなことはあってならないんだ。人間と妖怪の家族ごっこなんて……」

「だから僕は一度忠告しに来た」


 海老名は顔を覆った手を少しずらして、目を覗かせた。蓮白は細く息を吐いて、湯呑ゆのみに口をつけた。湿った唇を舌で軽く舐めている。


「……そう、だったな」


 そんな明るい日々も、すぐに崩れ去ってしまう。

 五十鈴が家から消えたのだ。


「わたしはすぐ帰ってくるだろうと思った。あるいは……どこか行ってしまっても、それは座敷童子の習性だからあまり気に留めていなかったんだ」


 しかし夫婦は後世を思って子供を作らないくらいには、妖怪の扱いに慎重だった。五十鈴の失踪は二人を痛く動揺させたのだ。

 数日がかりで二人は町を駆けずり回ることになる。そんな時、強い嵐が来た。

 海老名は口を震わせて目を軽く伏せた。


「五十鈴は雷が嫌いだったんだ。だから嵐はもっと怖いだろうって、あの人は……」


 妻は大雨の中、五十鈴を探しに出た。もちろん止めたが、彼女は諦めなかった。その夜彼女は帰って来ず、次の日嵐が止んだ後に川辺に打ち上げられているのが見つかった。嵐で氾濫した川に流されたのだろう、ということだった。

 それからは不運の連続だった。妻の死に心を痛めた主人は、急に衰えを見せて食事も喉に通さず衰弱死を迎えた。

 それ以来、亭主の名前であった『海老名』の名を借りて、小豆堂を償いとして守ってきたのだ。


「それが先日、五十鈴がこの町に帰ってきたんだ。店の場所も、名前さえも忘れて、あらゆる店を転々として『海老名』を探し回っていた」


 そのうちに被害に遭ったのは、十数件にものぼる。海老名はすぐにそれが五十鈴の仕業だと勘付き、慌てて探し出し彼女に声をかけた。


「五十鈴は再会を喜んだ。でも……どうやら彼女は海老名との約束を果たすために、帰ってきたみたいなんだ。わたしはその約束を知らない」


 海老名は畳に手をついて頭を下げた。


「この通りだ。蓮白、海老名に化けてくれ」

「嫌だ」


 さすがにこれは可哀想だ。恵次は何故かと尋ねた。出来ないならまだしも、好き嫌いで断るとは。それくらいやってあげてもいいだろうに。


「悪いようだけど、僕にはその策が上手くいくと思わない。約束が何なのか探る方がよっぽど建設的だね」


 海老名はがっくりと肩を落とす。


「しかし、ここまでの騒動を見逃すわけにもいかない。放っていると、僕が怒られてしまうし」


 優しくも蓮白は甘い言葉を呟いた。海老名は希望の光を見つけたように、目を少し輝かせる。


「きちんと解決してあげよう」

「本当か?」

「その前に」


 蓮白がぴたりと言葉を止める。見計らったように、恵次の腹がなった。恵次は腹に手を添えて顔を赤くする。昼餉を取る機会を失って、もう夕刻暮六つになろうとしていた。


「幕の内弁当でも買ってくるか?」


 海老名は芝居小屋の方を見やって提案する。ここからであれば弁当屋には十数分で着くらしい。しかし蓮白は首を振った。


「いや、飯炊き場を借りてもいいかな」


 蓮白の言葉に海老名は目を丸くしながら頷いた。






 恵次は労働の後の食事は美味いから、と訳も分からぬ理屈をつけられて買い出しに向かわされていた。紙きれにはたまご、鮭の切り身、牛蒡、人参、大根、それから豆腐と書かれている。

 主菜は蓮白が決めてしまったが、汁物や小鉢などは海老名が案を繰り出していた。だし巻きたまご、豆腐のお吸い物、きんぴらごぼうだ。

 恵次は文字はやはり綺麗だ、と蓮白を思い出す。ではなぜあれほど絵が酷いのか、本人に聞くわけにもいかない。一生の謎になりそうだ。


「戻りました」


 背中に負っていた風呂敷を降ろして、台所へと向かう。

 そこでは蓮白が割烹着を纏って包丁を扱っていた。全く似合っていないが、恵次は何も言わず食材を並べる。


「鮭の調理をするから、恵次は牛蒡をささがいて」


 蛇口をひねり、恵次は手を洗う。妖怪は食事をせずとも生命に関わらないらしいが、この台所は長らく使われていないような雰囲気がなかった。掃除も行き届いているし、道具も大して劣化していない。

 台所を行ったり来たり食材を炒めたりするうちに、飯釜が泡を吹いているのに気が付いた。泡の色が少し紫をしている。


「赤飯ですか?」

「いや、小豆飯だよ」

「あずきめしーっ?」


 突然聞こえてきた少女の声に恵次は驚きで背筋が伸びた。そして直後に腰へ衝撃が来る。

 ぶつかったその人物を振り返ると、おかっぱ頭に山吹の着物の少女だった。海老名よりかなり年下に見える。七つほどだろうか。


「五十鈴、台所では騒ぐな」


 後ろからやってきた海老名は五十鈴の腕を掴むと、奥の部屋へ連れ戻そうとしてくれる。しかし五十鈴は恵次の帯から手を離さない。


「ちょ、ちょっと放してください、帯が!」

「だってこの人いい匂いするんだもん!」


 五十鈴が叫ぶ言葉に、恵次は思わず声が漏れた。五十鈴を引き剥がそうとしていた海老名は手を離して、耳を赤くする。蓮白を見ると、彼は素知らぬ顔で鍋を覗き込んでいた。


「俺が妖怪に付きまとわれやすいのって……もしかしてそのせいですか?」


 蓮白はさあ、と素っ気なく答えた。なぜ急にみんなして黙る。

 海老名ははっと己を取り戻すと、五十鈴を脇から抱え上げた。


「行くぞ、五十鈴」


 五十鈴は文句を垂れながらも奥へと引きずられていく。二人を見届けて、恵次は台所へと体の向きを戻した。


「蓮白さん、あの……」

「鍋を見ておいて。皿を出す」

「あ、はい」


 尋ねることも許されず、恵次は玉杓子を押し付けられる。黙って鍋の様子を見守っていると、蓮白は不意に口を開いた。


「恵次」

「何でしょう」

「さっき、五十鈴が言ったことは忘れなさい」

「え?」

「返事は」


 恵次は促されるまま頷く。蓮白は話は終わりだと言わんばかりに、戸棚の皿を人数分取り出して拭き始めた。






 恵次けいじ小豆あずきめしが、うるしりのふたがついた器に盛られているのに首を傾げた。しかし蓮白はそれでいいと言う。

 海老名と五十鈴が待っている部屋に食事を運び込むと、五十鈴は元気よく膳に近づいて目を輝かせている。無邪気だ。彼女があらゆる店を閉店に追いやったのだと思えば、なかなかに恐ろしい。

 全てそろうと、我先にと五十鈴いすずは率先して手を合わせた。


「いただきまーす」


 そして汁椀と飯椀の蓋を開ける。五十鈴は少し目を丸くしたと思うと、海老名えびなににっこりと笑いかけた。


「約束、忘れてなかったんだね」


 海老名は目をみはって、はしを取る手を止めた。


「え、ええと……」

「だってみんなが好きだったもの、覚えてくれてたんでしょ?」


 海老名は震える手で箸を握る。


「この献立こんだて、誰が考えたの?」


 五十鈴はずっと調理場にいた蓮白に顔を向けた。蓮白は豆腐のお吸い物に口をつけながら、ちらりと海老名を見やった。


「わたしは汁物と小鉢と副菜を……」


 海老名はしどろもどろになりながら本当のことを言う。豆腐のお吸い物、きんぴらごぼう、そしてだし巻き卵だ。

 汁物は白だしで小豆飯に合わせて上品に仕上げており、きんぴらは唐辛子を入れないことで誰でも食べられるようにしている。だし巻きは砂糖を使わない、甘くないやつだ。


 五十鈴は目の色を変えると、すくっと立ち上がった。そして一発、海老名に蹴りを入れると、すたすたと部屋を出る方向に歩いて行く。


「ど、どこに行くんだ、五十鈴!」

「約束、覚えてなかったんだね」


 そう言い放つと、五十鈴は部屋を出ていった。

 海老名は呆然自失として、一点を見つめている。

 蓮白は空気にそぐわずふむ、と首を傾げた。そして確かめるように、一品ずつ口に運んでいく。


「夫婦に教えた調理方法で作ってみたんだけど、お気に召さなかった? それとも……」

「どういうことです?」

「小豆堂の夫婦に小豆飯を教えたのは僕なんだよ」


 海老名と恵次は揃って目を剥いた。


「ある日、いおりに珍しく人間がやって来て……何の用かと問えば『家に座敷童子がやってきた』と」

「そこで教えたのが小豆飯なんですか?」

「そう。座敷童子は小豆飯が好物だからね。他にも妖怪にも口に合うような料理を教えて欲しいと言うから、彼らの好きな食べ物を聞いてそこから考えてあげたのが……これらだ」


 蓮白はだし巻き卵の乗った皿を掲げて見つめる。

 黄金に光る卵。つやつやとしているし、形も綺麗で崩れていない。どこで得た料理技術なのか知りえないが、腕がいいのは確かだ。恵次は一口箸で取って口に入れてみた。


「俺は好きですけどね。甘くない卵焼き」

「奥方が甘い卵が苦手だと言っていたから、単純にだし巻きを提案した」


 出汁の香りが効いていて美味しい。卵の層も薄く、たくさんでふわふわだ。


「亭主が好きだと言ったきんぴらも、座敷童子は辛いものが得意じゃないから唐辛子を入れないように、と言った覚えがあるし」


 恵次は語る蓮白に、主菜の容器を持ち上げて尋ねた。 


「この鮭大根もですか?」

「いや、これは僕が今日食べたくて作っただけだ。特に意味はない」

「そうですか……」


 こんなに美味しいのに五十鈴は飛び出してしまって、追いかけなくていいのか疑問だが、恵次が動いてどうにかなりそうにもない。

 やきもきしつつ小豆飯を口に運んだ頃、突如(うな)るような地響きが鼓膜を震わせた。恵次は震える器に、慌てて汁椀を抑える。


「地震ですか?」

「いや、」


 蓮白は箸を置いて立ち上がった。


「思ったより早かったみたいだね」


 そんな蓮白の羽織を海老名は掴み引き留めた。蓮白は足を立ち止めて、羽織を引っ張って離させようとする。海老名は目を潤ませて首を振った。


「待ってくれ」

「海老名。逃げるのは構わないけど、僕まで巻き添えにしないでくれ」


 海老名は顔をさっと青ざめさせると、手を引っ込めた。蓮白は背を向けて、襖を開く。


「来るも来ないも、好きにしたらいい」


 蓮白はそう言い残すと、部屋を去って行った。

 残された恵次は涙を流す海老名の側に寄り添う。懐から手ぬぐいを取り出して握らせると、海老名は恵次に突き返した。


「どうして、何も思い出せないんだ!」


 海老名はむしゃくしゃして大声を出す。


「何も思い出せていないわけじゃないと思います」


 恵次の冷静な意見に、海老名は間抜けな声を上げて顔を見せた。


「この三つ、海老名さんが作ってほしいって言ったんですよね」


 器を指さすのに、海老名はぼんやりと頷いた。


「ああ、そうだったな……」

「卵焼きは奥さんの好物で、きんぴらは前のご主人が好きだったんですよね。じゃあ、この豆腐のお吸い物はどうして食べたいと思ったんですか?」

「それは……五十鈴がよく作ってとねだっていたからで」


 海老名は目を瞠って呟いた。


「……思い出した」


 どうして思い出せなかったのか、頭を掻きむしって嘆いている。恵次はしばらく悶絶もんぜつさせてあげたかったが、そんな時間はなかった。恵次は海老名の手を引いて立ち上がらせる。


「行きますよ、蓮白さんのところに。今ならまだ間に合います」


 実際のところ間に合うとか、そうでないとかはわからない。けれど海老名の足を奮い立たせる言葉が必要だった。


「五十鈴さんに謝りに行きましょう」






 地響きの原因はやはり五十鈴であった。黒いとぐろまとった巨大な人型が地をのそりとっている。以前、狸和尚が大きくなった時と様子が似ていた。


「妖怪はその妖怪としての本分を何かのために放棄してしまうと、こうなるんだ。霊で例えるなら、悪霊になってしまうようにね。これを僕は黒妖こくようと呼んでいる」


 蓮白れんはくは大きな耳を九つの尾を淡く光らせて、通りで巨大化している五十鈴いすず対峙たいじしていた。蓮白は小豆堂から飛び出してきた恵次に淡々と説明する。彼の手にはすでに煙の立ち上る煙管きせるが握られていて、右手には式神があった。目は常に五十鈴を捉えていて、その眼力で抑え込んでいるように見えた。


海老名えびなさんが思い出しました」


 蓮白は海老名が到底思い出せないと思っていたのだろう。目を丸くして恵次けいじを振り返る。

 その瞬間、五十鈴は低い地鳴りのような叫びをあげて蓮白に迫ってきた。蓮白はしくじった、と煙管を慌ててくわえる。


 しかしさらに驚くべきなのは、海老名がとった行動だった。海老名は蓮白の脇をすり抜けて五十鈴の方へ駆けて行く。


「海老名っ」


 蓮白は声を張るが、海老名は聞く耳持たず黒妖化した五十鈴に抱き着いた。海老名は頭をとぐろに飲み込まれるが、しっかりとつかんで離さない。海老名はひるまず叫んだ。


「約束を思い出したんだ、五十鈴! わたしが悪かったんだ。海老名は死んだ!」


 五十鈴はとぐろで飲み込もうとするのをやめた。しかし再び思い出したように海老名へぐるぐると絡みついていく。


「五十鈴が家を出てから、二人はあんたのことを探し回ってた! 奥君は嵐になっても帰ってこない五十鈴を心配して、外に探しに出てそのまま帰ってこなかったんだっ」


 黒いとぐろの動きが止まる。先ほどとは真逆に海老名がとぐろを吸い込んでいるように見えた。そして五十鈴は徐々にだが小さくしぼんでいく。


「奥君が亡くなって、海老名は生きる糧を失ったようだったんだ。わたしは五十鈴を呼び戻そうか考えた。奥君が波に流されながらも最後まで握りしめていたのは、五十鈴の居場所を挙げたものだったから……それを使って」


 五十鈴は少女の大きさに戻るが、肌が黒く、目や鼻もないように見えた。黒いのっぺらぼうのようだ。海老名は一層強く抱きしめた。


「約束は『最後の日に小豆飯を食べること』だったな」


 五十鈴の顔から黒が引いていった。表情はうつろで、抱きしめられたままじっと海老名の語りに耳を傾けている。代わりに、海老名の半身がじんわりと黒く染まりかけていた。

 蓮白はそわそわとしているが、割り込むつもりもないのだろう。ぎりぎりまで待ってやるのだ。


「でも、わたしは五十鈴を呼ばなかった。……海老名は奥君を亡くしてから、わたし達が誰なのか認識できないようになってたんだ」


 五十鈴の口が動く。声は枯れて出ていない。


「本当だ。奥君を生きていると勘違いしたり、さっきまでやっていたことを何度も繰り返したり……。わたしは海老名に戻ってきて欲しくて、よく食べていた小豆飯を炊いたんだ。そしたら何と言ったと思う」


 恵次は耳を塞ぎたい気持ちになった。こんな方法で、優しい人の本心を聞くことになろうとは、海老名も思わなかったのだ。


「……『小豆飯は嫌いだ』って言ったんだ」


 五十鈴の目から涙がこぼれる。黒いとぐろを煮詰めたような涙だ。ぼろぼろと流すうちにそれは徐々に透明になってゆく。


「五十鈴がこれを聞いたら悲しむと思った。五十鈴のために我慢して食べて欲しいと、海老名に頼むこともできなかった。海老名が死んだとき、これで約束を忘れられるって、心底安心した自分が憎かった!」


 五十鈴が海老名の背中に手を回した。小さく幼いが強い手で、抱きしめられる。海老名は洟を啜りながら話し続けた。


「だから悪かった、五十鈴っ。許してとは言わないから、わかってくれ……」


 海老名は足の力が抜けたようで、その場にへたり込んで泣いた。五十鈴は腕をすり抜けて座り込んでしまった海老名をじっと見つめている。

 蓮白はかち、と苛立ちを見せながら煙管の吸い口を噛んだ。そして咥えたまま、手の中にある式神を真っ二つに千切る。式神は敗れたところから白いとぐろを見せた。


懺悔ざんげはお仕舞いかな。素面しらふに戻れば恥ずかしくなって素直に物を言えないよ」


 蓮白は五十鈴に告げた。五十鈴は黒の抜けていく手を見下ろして、薄い息を吐く。


「……あの日、出て行ったのはただの気まぐれだった。そのせいで奥さんが死んだとは思わなかった」


 五十鈴は膝を床について、肩を震わせて泣き続けている海老名の手を取った。


「ごめんなさい。少し約束を覚えていないくらいで、癇癪かんしゃく起こして。もう、怒ってないから。……海老名を看取ってくれてありがとう」


 五十鈴は静かに蓮白を見上げた。

 蓮白は目線の合図で、式神を仕込んだ手で二人の腕を握り締める。じわじわと黒が蓮白の腕に移っていった。浸食されているようでおぞましいが、手首を超えた辺りでとぐろは空に蒸発していくような様子を見せた。


「今回は特別だよ。こういうことをやっていると、尻尾が減っていく」


 恵次は一つ、発光の弱い尾を見つけた。背筋を這うような感覚に襲われる。

 もしや彼は身を削ってこの役目を全うしているのか。思いもよらぬ真実に寒気がした。

 海老名と五十鈴は肌から黒が抜け切ると地面にぐったり倒れ込もうとした。恵次はあわてて、頭を打ちかけた五十鈴の背中を支えるが、視界の端でもう一つ揺らぐ。


「は? 嘘だろっ」


 恵次は滑り込む形で、その場に失神しようとした蓮白の下敷きになった。


「……後始末、俺がやるってことか?」


 蓮白の手からは千切られて黒くなった式神が零れ落ちている。恵次は文句が思わずついて出た口をつぐんで、夜の江戸の町に一人立ち上がった。

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