第一帖 寺出奔古狸の怪その二
恵次ははくはく、と声が出ないまま口を動かした。
そんなことがあってたまるか。妖怪など恐ろしいことこの上ないのに。
「じゃ、じゃあ狸親父って、和尚は……」
「あいつはこの山で有名な化け狸だよ」
恵次はここでもう一度気絶をしてもいいか、と思った。
今目の前にいる数多の生き物が妖怪である、それだけでも卒倒ものなのに、自身が身を置いていた寺の和尚が化け狸? 狸に育てられ、食われそうになった人間になりかけたと思うと、これはさて笑い事ではない。
蓮白はつむじ風を収めて手を差し伸べてきた。恵次は恐れて手を取らず、自力で立ち上がる。尻もちのせいで白の羽織が土に汚れてしまっていた。
「狸は謙虚であるべきだ。少なくとも、僕がいるこの山ではね」
蓮白は恵次の行動をどう受け取ったのか、山奥の寺がある方角を見据え、怒りをあらわにして尻尾を逆立てた。
こうして見ると、感情がすべて尾に反映されるので少し面白い。
「ましてや人間に手を出そうなど法度中の法度。舐められては困る」
「じゃあ、願掛けでたぬきそばを食わされたのは」
「少年、察しがいいね。君は寺育ちだから、獣臭いたぬき汁は避けたんだ。……もっと感謝してくれてもいいよ」
あと少しで触れてしまいそうなほどに迫られて、恵次は顔を逸らした。
蓮白は恵次はの拒絶に少し残念そうな顔をして姿勢を戻すと、提灯を掲げて尻尾を収めた。そして出会った時とさして変わらない格好に戻る。
「ではあの寺百年ぶりの代替わりといこう」
そしてたどり着いたのは、因縁の寺。
恵次は背筋を這うような寒気に腕をさすった。またあの坊主に顔を合わせなくてはいけないと思うとぞっとする。
蓮白は真っ向勝負、と言って玄関に立つと声を張った。こんな夜分に誰が何のようだ、と尼が数人束になってやってくる。
どういった策なのか、恵次は知らされていない。側で立って見ているだけだ。
門の閂は外され蓮白は作戦通りと目を細めた。中からは女性たちが訝し気に二人の訪問者を見上げる。
そうすると蓮白は彼女らの頬に手を添えてじっと目を見つめた。すると尼らは次々と傀儡のようにぎこちない動きを見せて、ついにはその場に倒れ込んでしまう。
「何をしたんですか?」
「ただの催眠だよ」
かくして開いた門を潜り抜けると、蓮白は勝手知ったるかのように和尚の寝床へ足先を向けた。度々首を回しては鼻を動かしている。狐は鼻が利くのだったか、恵次は後ろをついて歩くだけだ。
そして中へ入る場所を見つけ、外回廊に上がろうとした時だ。
「誰だ、泥棒か!」
誰何する声が耳に入り、恵次はまずったと思った。しかし蓮白は飄々としてちょうどよかった、と冷静につぶやく。
夜、山の暗さは人間にとっては、闇でしかない。しかし九尾の目にははっきりと映っていたようだ。そして狸も夜行性。夜目が効く。
ここから恵次が見えなかったのだ、おそらく向こう側にも見えないはず。では声の主は──。
そう推測したころには、蓮白は声の許へ迫っていた。
「久々だ、古狸。元気にやっていたようだね。……元気すぎて物足りなくなってしまったかな?」
蓮白が呼びかける、それは和尚だった。和尚は、あの日寝床へ誘われたときと同じ格好をしていて、恵次は顔をしかめた。嫌なことを思い出してしまいそうだ。
しかし和尚は恵次を見つけるなり、眦を妙に垂れ下げてちょいちょいと手招きをした。恵次は肝を冷やして首を振り、蓮白が腕で庇う。
「悪いようだけど、彼に催眠は効かない。幸運にもこの少年は妖怪に腕を食われていたんだ。そして僕が腕を治してあげた。九つある尻尾の内に一つでね」
蓮白が挑発するように、和尚を見下ろした。和尚はしばらく恵次の左腕を見つめて、今度は眦を吊り上げてゆく。
「ふ、ふざけるなぁっ! こいつは儂が育て上げたんだぞ!」
「文句ならつまみ食いした妖怪にどうぞ。僕はただ人助けをしただけだ」
すると次の瞬間、怒り狂った和尚はぶくぶくと大きく丸い狸へと変貌しながら、突如として蓮白へ襲い掛かってきた。黒いとぐろを身に纏って恐ろしい。
蓮白は、驚きに身を固めてしまっている恵次を後ろへ突き飛ばすと、爪の攻撃を身軽にあしらって、まるで手品のような手つきで人を模った紙切れ──式神を手にしていた。
蓮白は恵次を呼んだ。
「提灯を投げてくれ」
側に転がっている提灯は火を一定に点し続けている。ゆらゆら燃える炎はいつも見るものと違っていた。
これもまた妖怪の何かだろうか。
「早く!」
蓮白は猛攻撃を軽やかに躱すが、羽織は風に煽られて大きな狸の爪に引き裂かれた。催促の声に、恵次は震える手で提灯を掴み、放り投げる。
九つの尾を顕現させた蓮白は提灯を受け取ると、帯の隙間から珍しい装飾の煙管を取り出した。そして先の金属部に提灯の火を翳す。煙管は少し火を上げて燃えたが、すぐに煙を立ち昇らせる。
「そうはさせんぞ! 九尾だか知らんが、ただの人間に釣り上げられた負け狐が」
蓮白はそれまで弓なりにしていた口許を、瞬間真一文字にした。瞳も見開いて爛爛と光らせている。
「太公望が何だと……? 好き勝手言うじゃないか」
そして容赦はせんと、鋭い目つきで狸を捕らえると、口に含んだ煙管の煙で式神を吹き飛ばした。
和尚狸はささやかな吐息が大きな風を巻き起こすのに目を瞠って、その大きな爪でしのごうとした。しかしそれは無意味で、巻き込むように吹き飛ばされた挙句、張り付いた式神で小さく小さくしぼんでいく。
蓮白はにんまりと再び表情に笑みを取り戻して、指人形ほどになってしまった狸を摘まみ上げた。小さなそれは何やら訴えているが、羽音のようにしか聞こえない。
「大口を叩くからこうなるんだ。ではまた来世でね、次はもう少し賢く産んでもらうように」
そして、為す術ない狸坊主を丸のみにしたのだった。
「良い食事だった」
蓮白は頬が引きつれてから笑いしか漏れない恵次に、手を差し出した。恵次は傍で見ていただけなのに、心臓が早鐘を売って仕方ない。
白魚のようなその手をそっと取って、恵次は立ち上がる。
「……和尚のこと、ありがとうございました」
「あの程度、大したことじゃない。それに……僕にはやらなくてはいけない理由があるんだよ」
蓮白はささっと羽織の砂ぼこりを払って言う。
恵次は首を傾げた。妖怪を統べるあやかしの長、と言っていたが、その役目ということだろうか。
「悪いとは思っているんだ。僕が中華民国に居れば日本はこうなっていなかったし……君も妖怪に恐れて生きることなんてなかった」
全ては太公望のせい……と恨めしく蓮白は吐き捨てる。誰なんだ、その太公望という人は。しかし、すぐに顔色を戻して恵次に向き直る。
「僕が日本に妖怪を持ち込んでしまったんだ。殺されそうになって、その逃げ場所として選んだのがここだった」
恵次は視界の端で朝日が昇るのを捉えた。
門の方から女性たちが目を覚ます呻き声が聞こえてきて、二人はそちらに気を取られる。
「……今のうちに行きましょう、蓮白さん」
「恵次」
恵次が寺に背を向け一歩踏み出すと、それを遮るように蓮白が名を呼んだ。
恵次は初めて蓮白がきちんと名前を呼んだことに気づいた。蓮白は眉を下げていて、差し込む朝日のせいでそれは随分儚く見える。
「ごめんね、はっきりと妖怪が見えるようにしてしまって。僕が責任を取──」
妙なことを言いかけた口を恵次は慌てて塞いだ。
「変な言い方しないでください! さっきから行動の節々に怪しさを感じるんですけど!」
蓮白は調子を取り戻したように、にい、と意地悪に笑って恵次の手を外す。
「物好きは世にたくさん潜んでいるんだよ。それこそ狸和尚のようにね」
「ふ、ふざけないでください! 俺はそんなことを初めて知りましたっ!」
それはたかが十数年生きた人間に理解できるものじゃない、と蓮白は人差し指を回して蘊蓄のように語った。けれど恵次は白い朝日を見て、「でも」と言葉を絞り出した。
蓮白は舌の回る口を閉じて続きを待ってくれる。
「でも……妖怪に振り回された挙句、寄る辺ない俺のことを見捨てるのは許しません。何かしろというなら……手伝えることであればやりますから、蓮白さん」
蓮白は不器用だが真っすぐな恵次の告白に、眉を下げて笑った。飾らない、気の抜けたような笑みは朝日に映える。
「じゃあ、まずは朝ごはんの支度かな。それから──」
そうして二人は山の中腹にある小さな庵へ消えていった。
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