第一帖 寺出奔古狸の怪その一
こんな話をご存じだろうか。
一、江戸時代に爆発的に増えた狐狸妖怪、それは中国から逃げ出してきた妖怪の一つが元凶である。
一、殷王朝時代、紂王から寵愛を受けた妃がいた。その女は江戸時代ごろから、平安の鳥羽上皇の寵姫玉藻前と同一視されるようになった。
一見、脈絡のないように見える二つの話だが、よく目を凝らせば真実はおのずと見えてくる。
此れは、そんな嘘か真かもわからぬ噂を好む江戸の町の、世にも妖しい絵巻の一部にございます──。
息がかすれる。冷たい空気は喉を引きずり、舌に血の味を覚えさせた。
何せ左腕を食われたせいで満足に走ることが叶わない。
しかし背後にはねっとり重苦しい黒い靄が、地を這うように迫ってきている。
味方はおらず、荒れた夜の山を使い古しの草鞋一つで駆け回る。鋭い草は肌を裂き、黒い靄は血の匂いに釣られたかのように揺らいだように見えた。
それも一瞬のこと、すぐさま標的を戻して追いかけてくる。
「ついて来んなよっ!」
少年は目を閉じ、力を振り絞って叫んだ。
言葉で通じるようなものではないことは分かっている。けれど言わずにはいられなかった。
怪しい寺を出奔して、数日。少年は人ならざるものに絡まれるようになった。あの寺の薄暗さは、こういったものを避けるためのものだったのかもしれない。しかし今更後悔しても、戻る気にはなれなかった。
あの寺には生臭坊主がいた。男色は禁忌に触れぬ、などと言って寝床へ呼びやがったのだ。馬鹿にしてくれるな。元服前の少年を稚児にしようなんざ、人、ましてや坊主のすることではない。
お天道様は見ている、と言ったのは忘れたのか。今更ながら怒りが湧いてくる。
それもこれも、追いかけてくるこの靄のせいだ。
疲弊しきった身体に加えて、肺も握り締められたように苦しくなってくる。
「誰か──」
少年は細くなった喉で最後の空気を吸おうとした。
そのとき、まるで目晦ましの手助けをするかのように、辺りに霧がかかり始める。太陽の日は見えなかったが、朝の合図だ。
少年は崩れた姿勢を木に支えられながら、絡まる足を懸命に動かした。
お願いだ、巻いてくれ。霧よ、味方してくれ。
生まれてこの方、仏様に心から祈りを捧げたことなどなかった。見たことないものに願うなど、それは愚かなのではないかと穿った目で見ていたせいだ。
訂正しよう。もしここで助かれば、仏様はいらっしゃる、と。そして毎朝の御勤めも真面目にやろう。
いるやもわからぬ仏に祈りながら駆けていたとき、するりと風が頬を撫でるような感覚があった。刹那、霧が一部だけぽっかりと晴れているところが目に入る。
その空いた場所には、爺が隠居でもしていそうなささやかな庵が一つ建っていた。
少年は気づかぬうちに足を止めていた。
それから一歩、一歩と吸い込まれるように、その建物へ足を近づける。
思い出したように背後を振り返るが、あの黒い靄は塵一つ残さず消えていた。きっと霧のおかげだ。この庵の中にでも仏様がいらっしゃるに違いない。
そう安堵を覚えた瞬間、少年の足は力が抜けた。片側欠けた腕で上半身も支えることを知らず、重力に従って地面に伏せる。一晩中山を逃げ回ったせいだ。体力は限界だった。
瞼がゆっくりと下がってゆく。
視界の端で庵の引き戸が開いたように見えた。その足はやけにきれいで隠居爺に似つかわしくない。呼ぶ声が聞こえるが、そのときには少年はすでに意識を手放していた。
少年は自身の漏らす呻き声で、意識を取り戻した。
昨晩までの気だるい身体の感覚はさっぱり消え失せていて、全身は暖かい布団に包まれている。
「ここは……」
布団から這い出、あたりを見回した。たった六畳の小さな部屋。申し訳程度にきつねうどんの描かれた掛け軸が下がっているが、それ以外は何もない。
少年は寝ているうちにはだけた襟元を寄せながら立ち上がった。そして障子を開く。そこから見えるのは木、木、木、木。つまり此処は森の中。
ここで眠ることになるまでの経緯を何とか思い出す。
寺を出た。街に降りた。そしたら黒い靄のようなものに付きまとわれるようになって、しばらくは気にせず過ごしていたが、身体のけだるさを感じるようになる。そしてある日気づけば腕を食われていた。左腕がむしゃむしゃと。そしてついに危機感を覚え、山を逃げることになったのだ。
少年が左腕を見ると、それは包帯に巻かれていた。手を握ったり開いたりしてみるが、問題はない。まるで元に戻ったようにきちんと動く。
「……いったい何が起きてるんだ?」
誰に聞かせるわけでもない呟きが室内に溶けていく。
そうしていると、襖が静かに開いた音がした。音の方へ目を向けると、そこに膝をついているのは、縹色の着物を身に纏った男性──男性?
少年は彼の顔をまじまじと見つめた。年のころは二十初めに見えるが、月代もなく髷も結っていない。女のように長い髪を緩く束ねているだけだ。それに目元には赤い紅が差されていた。体格は頼りないが長身で、充分男として成り立っている。
やけに綺羅びやかな人だ、と少年は思った。しかしそれを見透かしたように、男性は眉を上げて目を細める。
「感謝の一言くらい、欲しいものだね」
少年は驚きつつも、そこに平伏した。庵の前に倒れてからの記憶がない。つまりここまでは彼が運んできてくれたのかもしれない。
「こ……この度はどうも助けていただきありがとうございました」
「全く。君の腕を作るのには随分な労力がかかったし。それこそ……この島国へ生身一つで渡った時くらいには」
訳の分からないことを言って、それからにやり、と男性は妖艶な笑みを見せた。いちいち艶めかしい男だ。どこかの歌舞伎役者かと勘違いしてしまうくらいには顔も整っているし、所作も上品である。
男性はひとしきり嫌味を言い終えた後に、脇に隠れていた桶を持って部屋に入ってきた。桶には新しい包帯と布巾、それから軟膏が入っていると思われる手のひらに乗るほどの壺が並べ置かれている。
「手を出して」
おずおずと左腕を差し出すと、彼は慣れた手つきで包帯を解き始めた。
「少年、名前は?」
「俺は……恵次と言います」
この名はあまり好きでない。聞き馴染みが無く、寺の出身にしては妙に垢抜けた名前だからだ。
しかし彼はからかうことなく、興味もなさそうに相槌を一つ打っただけだった。貴方が聞いたくせに何故そんな風にあしらわれる。
「あの、貴方の名前は?」
恵次は腕に軟膏を塗り込まれながら尋ねる。何度も入念に撫でるので、肌が粟立っていた。出来るだけ失礼にならないよう、意識を逸らすために話題を提供したのだ。
男はちらりとこちらを見上げてきて、恵次は瞬きをした。何かついているか。顔を触れてみるが特に何もない。
「僕の名は蓮白」
そして大層な名前を口にした。尼僧のような名前だ。
「そう名乗ることにしている」
している?
違和感のある言い回しに恵次は首を傾げた。しかしこれ以上掘り下げるようなこともない。
蓮白は話題転換に恵次の家族について尋ねてきた。恵次は軽く首を俯ける。
「……俺は生まれてすぐに寺へ預けられたんです」
「よくある話だ」
「それ以来親は一度も会いに来ていないので、俺に家族はいません」
「そう。なら、寺に消息を書こうか。なんという名前の寺か覚えている?」
包帯をきっちりと巻き終えた蓮白は水で湿らせた布で手についた軟膏を拭き取ると、桶を片手に立ちあがった。恵次は慌てて彼の袖を掴んで止める。
「待ってください!」
蓮白は見返り美人図のように振り向いた。そして唇を薄く開いてなんだ、と尋ねてくる。
「寺には帰りたくありません」
「家出ならぬ、寺出をしたのが後ろめたいかな。大丈夫だよ、君みたいな子はたくさんいるだろうから、酷く折檻したりはしない」
「ちがいます。俺は逃げて来たんです、迫りくるあの和尚から」
恵次の告白に、蓮白の切れ長の目がゆっくりと見開かれる。恵次は思わず掴んでいた彼の袖から手を離した。
その目は吸い込まれるような迫力があった。色の薄い瞳だと思っていたが、今はそれが爛々と輝くようにさえ見える。
「あの和尚とは男色好きの生臭坊主か」
蓮白の言うことに恵次は首振り人形のように何度も頷いた。彼が和尚を知っているとは思わなかったが、誰もが抱いていた共通認識のようだ。蓮白は綺麗な手で自身の顎をするりと撫でる。
「では、お仕置きをしなくてはいけないね」
そしてまるで切腹を言い渡すような重い空気で、軽々しい言葉を吐いた。恵次は見上げた姿勢のまま動けない。
「……お仕置き、ですか?」
「そうだとも。世の節理は常に保たれなければならない。少年のような被害者を出さないために」
蓮白はしんと凍てつくような声色で呟いた。
恵次は膳に乗せて差し出された、温蕎麦の丼を覗き込んだ。
「蕎麦、ですか?」
それから後ろに垂れ下がっている掛け軸を確認した。あれはきつねうどんだ。
顔を正面に戻す。目の前の丼には鈍色の細長い麵がたくさん。黄金色の汁からは湯気が立ち上っている。そしてかつおの香りがほのかに漂ってきていた。
蓮白の前に置かれた丼も同じように見える。
「そうだよ。要らないなら食うな」
蓮白は蕎麦を取り上げようとしてくるので、恵次は慌ててその腕を掴んだ。
「い、いただきます」
一度手を合わせてから、箸を手に取り一口啜ってみる。
麺は器用にも均等な細さで切られており、つるりと口へ入っていく。しかしきちんと腰があって、蕎麦の香りも芳ばしい。
寺では特別な行事でしか食べたことがなく、たまに町へ降りても屋台で数回しか口にできなかった蕎麦。そしてなんと、その上には揚げ玉とねぎが乗っている。そもそも蕎麦を打つのが手間だと言うのに。
「おいしいです」
「そうだろう。それは願掛けだから、美味しくなければね」
「願掛け?」
恵次は咀嚼しながら尋ねた。
蓮白は相変わらず本当に食べているのかわからないような、繊細な手つきで箸を持って麺を掬う。そして息を吹きかけながら頷いた。
「狸親父とはよく言ったものだとは思わないか?」
「ええと……和尚のことですか?」
「それ以外に誰か知っているのかな」
よく言ったものだ、とはどういうことだろう。たしかにあの人は立場を利用して、自分以外の少年にも手を出そうとしていたのかもしれないが。
「僕は狸がすこぶる嫌いだ」
蓮白はぴしゃりと言い放った。
恵次は黙って啜る。だから食ってやろうと、そう言うわけか? 恵次にはまだ蓮白の言うことがわからない。
「そう言うわけで僕たちは今晩にでも、あの生臭坊主の許を訪れようと思う」
どういうわけだ。
恵次は目を瞠って首を振った。もちろん横にだ。
「俺を寺に返そうってことですか⁉ 嫌ですよ!」
「早まるな、誰もそうは言っていない」
蓮白は焦る恵次を前にため息をついた。いつの間にか蓮白は丼を空にしている。揚げ玉まで綺麗に食べつくして、布巾で口許を拭っていた。
「あの狸を食いつくしてやろう。そう言う話だよ」
恵次は指定された通り、用意された深い藍色の着物に袖を通す。それから白の足袋を履き、白の羽織を纏った。姿見がないので具合はわからないが、おかしければ指摘してくれるだろう。
部屋の外は暗く、夜闇に沈んでいる。森の中ということもあって灯りの気配はなかった。
そろりと襖を開けて部屋を出る。よくよく考えてみれば恵次はここに来てからというもの、寝ていた部屋以外の家の造りを知らない。
手探りで玄関に行きつくと、そこには蓮白が背を向けて立っていた。彼もまた臙脂の着物に着替え、白の帯で締めている。変わった色遣いだ。羽織は恵次と同じ白で、一つ違うのは背中に見たこともない紋が刻まれていること。大輪の睡蓮を横から見たような紋様だ。
「お待たせしました」
「では行こう」
蓮白は戸を開けた。すっと冷たい空気が肌を掠めていく。恵次は軽く目を伏せるが、すぐにまぶたの裏で感じた光に目を開いた。蓮白が火を点した赤い提灯を手に持っている。
そのとき不意に視界に過ぎった黒い靄に、恵次は騒がしくも飛びのいた。蓮白はうるさいとぼやきながら辺りに提灯を翳す。そこには追いかけられた時とは比にならぬ量の靄が飛び交っていた。
恵次は腰が抜けてその場に尻をつく。
「早く立ちなさい。歩かないと着きもしないよ」
「む……無理です。俺、あの靄に腕を食われたんですから!」
恵次の泣き言に蓮白は呆れ顔でため息を吐くと、手を取って握り締めた。触れたところから光があふれだして、驚きのあまり恵次は振りほどこうとしたが、この男、案外力が強い。
そしてぶわり、と極めつけにつむじ風が巻き起こったかと思うと、恵次の目には信じられない光景が映った。
それは恐ろしいというより、むしろ美しい。
小さな動物のような見た目をした何かが、空中で列を成している。それぞれ手に楽器のようなものや提灯などを持って楽しそうに行進していた。
靄はさっぱり晴れていて、代わりにぼんやりとした光がまるで蛍の群衆のように波を作っている。
「これは……?」
「百鬼夜行というやつだよ」
恵次はついに自分への誤魔化しが効かなくなってきた、と悟った。
これは、これはつまるところ。
「百鬼……ということは、妖怪ですか? もしや蓮白さんも……」
そんなわけあるまい。仏を信じてたどり着いた場所が妖怪の住処だなんて。恵次は頬を引きつらせて尻もちをついた格好のまま後ずさった。
しかし蓮白は逃がしてくれなかった。首を傾げて一つ、そうだと言う。
「少年、怖い目に遭っておきながら、よくもまあ、現実逃避ができるものだね。受け入れた方が楽だろうに」
「いやいや、夢だと思った方がましです!」
そうして恵次は耳を塞ぎ、自身に暗示をかけることを試みるが、蓮白に手を外されて思わず見上げてしまった。
やはり見間違えなどではなかったのだ。彼の目は黄金色に光っている。口元も弓なりに目を細めて笑う仕草はまさに。
「狐……」
恵次のつぶやきに、蓮白は満足げにその場で身を翻した。提灯の光に包まれるようになって、辺りが淡く光る。
そうして、羽織の下から大ぶりの尻尾が一、二、三……おそらくは九つ、《《生えた》》。黄金に光る豊かな毛並みの尻尾と、切れ長の双眸、加えて頭の上では毛の長い獣の耳が揺れている。自然現象ではあり得ぬ風が、地面から蓮白の衣服を煽っていた。
「ご名答」
恵次は声が出せなくなっていた。
黒い靄はすべて妖怪だった。これでは見えなかった方がましか、いや見えるようにしてくれたこれは好意かお節介か……。
「殷を滅ぼした傾国、妲己と呼ばれた九尾は僕のことだ」
蓮白は艶やかに指先を自身の口元に近づける。
「僕はこの日本で狐狸妖怪を統べる、いわゆるあやかしの長。以後お見知りおきを、妖怪磁石くん」
そしてその指先が恵次の唇に触れた。
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