逆光写真
都内オフィス街にあるイタリア料理店は近代的なガラス張りの造りで、窓越しに見える枯れ木のアーケード通りを足早に歩く雑踏が実際よりも遠く離れて思えた。
「嶋田、なんで暖房ついてんだよ」
俺は店内でキャノンの一眼レフカメラのレンズを装着しながら口にした。
「なんか、店長がエアコンきり忘れたって代理店さんが言ってましたよ」
去年から助手のアルバイトをしてもらっている嶋田は、茶髪にピアスと未だ学生気分が抜けていない。ヤンキーの後輩のような口調を直すようにと注意したがこの様だ。
「タバコふかしていいか聞いてこい」
俺がアゴで指示すると、
「うす」
と嶋田が厨房へ歩いていった。
暖色系の間接照明で統一された店内を見渡し、ライティングの計算をたてる。
中休みで人の気配のないフロアはビジネスマンが好みそうな小洒落た空間を演出しているが、同時に微睡みでぼやけてコントラストを曖昧にしていた。
俺は窓際のテーブルに狙いを定めて、ファインダーをのぞき込む。
間接照明を消して、低い位置から撮影すれば絵になるだろうと想像がついた。
「宇野さん、タバコ許可もらいました。すぐに料理も来るっぽいっす」
「照明きってこい」
「了解す」
嶋田がまた厨房へ戻っていく。
俺はストロボを起動させてチャージ音に耳を澄ませる。背筋に程よい緊張を感じて、普段通りだと自分に言い聞かせた。
フロアの照明が消えるとガラス窓からの自然光だけを残して、余分な光源をなくした。それにより、フロアのテーブルやイスが輪郭を取り戻し、明暗のコントラストを強くした。
「料理入りまーす」
嶋田の声にせっかくの緊張感が台無しになる。
ベストを着た中年の男が料理を運んできた。
「ここでいいですか」
誠実そうな声の男だった。
胸元の名札に店長と書かれているのを確認して、名前を覚える必要ないと早々に諦めた。
「暖房効いてて湯気とれないんで。申し訳ないですけどタバコの煙を使わせてもらいますんで」
店長は「はぁ」と同意したが、こちらの意図を理解していないようだ。
テーブルに置かれたカルボナーラのパスタは紅葉色をしており、彩られた黒こしょうとチーズの白黒が良い案配で、被写体として申し分なかった。
「嶋田、煙くれ」
俺は皿の位置を微調整しながら口にした。
「分かりました」
嶋田がマイルドセブンを取り出し、タバコに火をつけた。
「じゃあ、撮影はじめますんで」
いつの間にか、店長の後ろに代理店の中川が不安そうに立っていた。
俺は彼女に気付かないふりをしてカメラを構えた。
「煙いきまぁす」
嶋田が口にためたタバコの煙をカルボナーラに吹きかける。
「あ……」
店長の間抜けな声が聞こえたが気にしない。カルボナーラがそれらしく写る一瞬を見逃さないようにファインダーから目を離さない。
そして『その瞬間』が訪れる予感がする。肩が小さく震え、一秒未満先の『その瞬間』を経験値と直感が教えてくれる。
人差し指に力が入り俺は──
シャッターが押せなかった。
俺はファインダーから目を離し、嶋田にカメラを渡す。
「……お前がとれ」
俺がカメラを渡すと、
「またすか?」
と嶋田が渋い顔をして受け取った。
「勉強しとけって」
俺は嶋田の肩に手を置き、アングルを指示しながら自分に起きている異変に怯えていた。
「宇野さん困りますって。うちはあなたに依頼してるんですから……毎回、新人に撮られたら予算だって組み直しますよ?」
十年来の取引先である広告代理店の中川が剣幕に口にする。撮影が終わり、店を出てすぐのことだった。
「分かってる。ちょっと、スランプ気味なだけだから」
あまりにも言い訳くさくて、中川から目を背けてしまう。
葉が落ちた街路樹の枝にはクリスマス仕様の電飾が飾られていた。
「次、同じようなことがあったら上司に報告しますから」
彼女が珍しくきつい口調で訴えてくる。
「中川に上司ってまだいたんだ?」
「社長がいますよ」
メガネをかけた丸顔の中川は真面目な性格から婚期を見逃し、今も現場に率先的に顔を出す仕事人間だった。
「今晩、飯いかない?」
「ご飯よりも、病院に行ってくださいって。宇野さん、会う度に痩せてますよ?」
「病院には行ったって。ただの疲労としか言われなかった」
中川が呆れたように、
「セカンドオピニオンって言葉知っていますか?」
と口にした。
俺はつくづく真面目な彼女に嘆息をついて、
「今日は悪かった」
と素直に謝った。
彼女はようやくベッドの上で見せるような柔らかい笑みになって、
「またメールしますから」
と駅の方へ歩いていった。
彼女の背中を見送った後、自分の右手をまじまじと見つめた。
いつもと変わらない自分の右手であったが、かえってそれが気味悪かった。
自宅兼事務所のマンションの一室に帰ってきた頃には夜になっていた。
現場から先に帰した嶋田がダイニングのパソコンデスクに座り、口に手を当てながらマウスを操作している。集中しているようだが、足下のくず入れには空になったプリンの容器が捨てられており、俺の帰宅と同時に作業を始めたのは言うまでもなかった。
「お疲れ様っす。とりあえず、リストアップしたんですけど、選んでもらっていいっすか?」
嶋田が白々しく口にする。
「お前が好きに選んでいいよ」
俺はソファに腰を沈めて返答した。パソコンで写真を編集するのが当たり前になってからは、撮るまでが自分の仕事で、そこから先は助手に任せきりだった。
「えー、だったらソニーで撮りたかったっすよ」
ソニーとは嶋田自前のミラーレスカメラで、キャノンやニコンなんて時代遅れと遠回しにバカにしていた。
「カメラを言い訳にしている内はまだまだ」
俺が鼻で笑うと、
「宇野さんも同じの買ったじゃないっすか」
嶋田が声を張りあげる。最近のお決まりのやりとりだった。
「あ、煙とか盛ってもいいっすか?」
嶋田がマウスとキーボードをカチカチ音をたてながら言った。
「いいけど。リテイクきたら自分で直せよ」
「了解っす」
カメラの腕は発展途上の嶋田だが、画像編集に関しては感心するものがあった。彼自身も撮ることよりも、いじることの方が好きらしくパソコンが苦手な自分と相性が良かった。
「……宇野さん、その大丈夫なんすか?」
不意に嶋田が抑揚のない声で言った。キーボードを叩く音が続いている。
「一時的なスランプだよ」
俺が手を仰いで答える。さらに深くソファに体を預ける。
「スランプになって3ヶ月っすよね……そろそろ、まずくないっすか?」
「もうそんなに経つのか」
代理店の中川が剣幕になるのも仕方がない。そうか、もう3ヶ月もシャッターを押していないことになるのか。
「スランプになったのって、盆休み実家に帰ってからっすよね。何かあったんすか?」
俺は首筋をかいてソファから立ち上がった。嶋田の後ろのまわり、
「マウス貸して」
とパソコンを操作する。
ローカルディスクに保存してある趣味の写真をダブルクリックした。
「この写真なんだけどさ……」
モニターに映る写真は、夜の浜辺でワンピース姿の女が足を交差させカメラに向いていた。
「宇野さんが逆光で撮るのって珍しいっすね。依頼されても、頑なに断るのに」
その写真の女は、海に浮かぶ満月と星々に照らされて全面に影を落としていた。そのため、女らしき被写体の顔の判別はつかない。写真の主人公は夜の海であり、彼女は背景の一部としか機能していない。
「俺が逆光で撮るわけないんだよ。こんな被写体を影でつぶした雰囲気だけの写真なんて俺のセンスじゃない」
「じゃあ、誰が撮ったんすか?」
俺の顔を見上げる嶋田が不安そうに言った。
「……俺が最後に撮った写真がこれっぽいんだよ」
「え、覚えてないんんすか?」
「地元の浜辺なんだけどなぁ……モデルの女が誰か思い出せない」
改めて写真を観察しても、女の顔は影で黒く潰れていて分からない。
「お前だったら、顔が判別できるぐらいに明るくできるんじゃないか?」
俺が嶋田に尋ねると、
「やってみます」
と答えて、逆光写真のデータを画像編集ソフトにドラッグドロップした。
嶋田は慣れた動作で、色調補正の数値バーを出し調整をかけていく。
「……あれ」
首をかしげる嶋田が続けて、レベル補正やトーンやカラーバランスを調整する。
「……おかしいな」
俺では何をしているか理解できないような加工を高速でかけていく。しかし、嶋田は唸るばかりだった。
嶋田が手を止めて、神妙は面持ちで俺に問いかける。
「マジで誰を撮ったんすか? この写真、おかしいっすよ」
俺は印象の変わった写真を見つめる。
確かに逆光の印象は薄くなり、被写体も随分明るくなってワンピースにプリントされた花柄やサンダルの形がはっきりと写し出されているが……。
肝心の顔は影で暗いままで目鼻口が写っていない。
「宇野さん、のっぺらぼうに知り合いでもいるんすか?」
嶋田のいつもの軽口だが、声色は緊張しているようだ。
「いるわけないだろ……マジで誰なんだよ」
嶋田が当てもなくマウスをクリックする。そのカチカチ音が部屋に響き、嫌な脂汗を感じる。
「俺の知り合いにAIで画像補正するソフトの開発してる奴がいるんすけど、頼んでみます?」
俺は嶋田の肩を二回叩いて、
「頼むわ」
と言った。
その夜、夢を見た。
それは夢と記憶の境界線がない夢であった。
夏の夜の浜辺は湿った風を運び、白波のささやき声が心地よく響いていた。
「この辺は潮の匂いしないでしょ?」
少し前を歩く髪の長い女が口にする。花柄のワンピースが歩幅の分だけ揺れていた。遠くの海には青く発光した満月が浮かんでいた。
「誰も泳ぎにこないから、海が腐らないのよ」
女はどこか棘のある言い方で言った。
「遊泳禁止だからな……犬の糞は多いけど」
俺が皮肉を込めて言うと、
「写真家なのにロマンがないのね」
女の後頭部が答える。
「写真家なんてたいしたもんじゃない。ただのカメラマンだよ」
俺が吐き捨てるように口にすると、女がクスクスと笑う。
「ごめんなさい、違いが分からないわ」
花柄のワンピースを着た女が足を止める。
気付けば、俺はカメラを構えていた。
「……なあ、撮ってもいいか?」
ファインダーをのぞくと、彼女の肩甲骨あたりの影が生々しく浮かび上がっていた。
彼女はしばらく黙ってしまう。
地元の浜辺がまるで世界の最果てのような気がしてしまう。俺と彼女しか存在しないような……。
「どうしてそんな意地悪をするの?」
女が背中で手を結び言った。
「久しぶりに撮りたいって衝動がわいてさ」
俺はファインダーから目を離さない。
「……綺麗に撮ってくれる?」
「あぁ」
女がゆっくりと振り返る。
ファインダーを通して見る女の顔には、目鼻口のない平べったい顔だった。
……目を覚ますと、自宅の寝室だった。
室温の低い部屋で汗だくになり、息を荒げ起き上がる。喉が乾燥して空気を吸う度にヒリヒリとする。
壁にかかるコンクールで大賞をもらった自分の写真を見ると呼吸が落ちついた。
ベッドボードに置いてあるスマホがフェイスブックのメッセージが届いていると知らせてくる。
俺は布団に足を入れたままスマホを手に取り操作する。
真っ先に時刻を確認するとすでに昼過ぎで、慌ててスケジュールを確認する。撮影の予定は入っていなかった。
俺は胸をなで下ろして、メッセージを確認する。
差出人は嶋田からだった。
『昨日の写真の解析が終わったんで送ります……宇野さん、マジでお祓いとかした方がいいっすよ(汗)』
メッセージに添付されたファイルをダウンロードして画像を開ける。
スマホの画面に映された逆光写真を見て、俺は息をのんだ。
逆光写真はもう逆光ではなく、蛍光灯の下で撮られたような順光のはっきりとした写真になっていた。
長い髪を風に揺らめかせて女がカメラを見つめていた。ワンピースの花柄の模様は黄色のハイビスカスだった。
しかし、彼女の顔は小学生の描いた落書きのように立体感がなく、均一性もない醜いものだった。
「……村上絵里香」
俺は彼女の名前を呼んでいた。その瞬間、靄かかっていた記憶がはっきりと蘇る。
スマホに映る写真は心霊や呪いの類いではなく、ただ彼女の真実の顔を写しただけだった。
同窓会で十数年ぶりに会った村上絵里香には顔がなかった。
村上絵里香の顔がなくなった時、俺は近くにいた。
小学5年の夏休み前だった。授業が早く終わり、活発な生徒は残って校庭で遊んでいた。
俺はロープが張られて動かなくなった回転ジャングルジムに1人でいる。先生に内緒で持ち込んだインスタントカメラのチェキを誰にも見られたくなかったからだ。
俺が周囲を警戒しながら見渡すと、のぼり棒の上で1人空を見上げている村上絵里香が目にはいった。
回転ジャングルジムとのぼり棒は少し離れており、彼女がどういう表情でそこにいるか見えなかったが、なんとなく泣いているのだと思った。
俺と村上絵里香は同じクラスで彼女には友達がいなかった。
彼女はくっきりとした大きな目が印象的な整った顔立ちをしているが、気の強い性格が災いして触れると面倒な子というのがクラスの共通認識だった。
嫌なものを見てしまったと少し罪悪感が湧いたが、それ以上彼女に気をかけることはなかった。
俺は回転ジャングルジムの根元をのぞき込み、すぐお目当てのダンゴムシを見つける。
大きいのを選別して手に取り、それを回転ジャングルジムの板張りに転がす。
ダンゴムシは丸くなり恐怖をやり過ごすようにじっとしていた。
俺はシルバーカラーのチェキを構えて息を潜める。
入道雲で日差しが隠れて、校庭に影を生むが、雲は風に流されてすぐに夏の強烈な日差しが戻ってくる。
額に汗を感じながらチェキを構える俺と守りの姿勢から動かないダンゴムシの耐久戦が続く。
しばらくして、ダンゴムシが弛緩しゆっくりと胸部を開けた。
ダンゴムシは空に向けて7対の足をばたつかせて、逆さまになっていることをそのまま死と捉えているようだった。
俺は胸部がむき出しになったダンゴムシをファインダーを通して観察する。
うにょうにょと動く触覚と足が法則性の理解が追いつかないぐらい、無造作に動いている。
あえて形容するならキモいと呼ぶのが分かりやすいダンゴムシの胸部を、俺はカッコイイと思う。
ダンゴムシは裏側に神秘を孕んでおり、表側の甲殻部分は神様を隠す見せかけに過ぎない。
人間の情報処理能力では追いつかないダンゴムシのウネウネを一瞬の奇跡に閉じ込めるために、俺はチェキのシャッターを押した。
フラッシュがため込んだ電気を放出し、フィルムに光が焼き付く閃光が大きな音を上げた。
驚いたダンゴムシがひっくり返り地を取り戻すと、回転ジャングルジムの板張りから脱出に成功する。
俺は吐き出されるプリントフィルムを手にとり、現像を少しでも早く済ませるためにパタパタと仰いで冷ますように努める。
デジタルカメラでは味わえない現像までの高揚感を味わっていた時だった。
──ぐしゃり。
近くで生き物が潰れる音がした。
すぐに音がした方へ視線を向けると、のぼり棒の下で女の子が背中を仰けに反らせて喘いでいた。
「あぁ……ぎゃぁ……」
泣き声よりは、鳴き声のような声を漏らし女の子は靴の裏で何度も地面を蹴っていた。
俺は事の危険さにすぐ気付き、ロープで封鎖された回転ジャングルジムを降りて、のぼり棒へと駆け寄った。
顔の至る部分が裂けた村上絵里香がそこにいた。
のぼり棒の頂上から落ちて顔を強打したようだ。
悶える彼女の形相を見て最初に思ったのは、人間の鼻は蛇口を捻ったら出る水道水のように血が流れるのかという感想だった。
「ぁぎゃぁ……あぁ……」
村上絵里香は俺には気付く余裕もなくのたうち苦しんでいる。
「先生呼んでくるから待ってて」
俺が彼女に言っても、
「あぁぁ……いぎゃい……」
と答えにならないうめき声をあげる。
俺は保健室の先生を呼ぶため校舎に向かおうとした。
しかし、歩み出せず村上絵里香の潰れた顔に惹かれていると気付く。
彼女の顔はダンゴムシの胸部のように、理解し難いほど皮が剥がれ骨がむき出しになり、鼻とまぶたが潰れて、すでに空気で固まったかさぶたが黒い亀裂を作っていた。
俺は衝動にかられる。
そのぐちゃぐちゃな顔を一瞬の奇跡で閉じ込めてしまいたくなる。
俺は嗚咽をあげ、足をばたつかせて悶える村上絵里香の顔にチェキのレンズを向けた。
バッシャン──フラッシュが光る。
すると、先まで喘いでいた彼女が一瞬静止して、
「……なんで撮ったの?」
とまぶたが腫れてつぶれた目玉を泳がせて言った。
俺は逃げるように校舎へ走り出した。
チェキがプリントフィルムを吐き出すと、やはり高揚感がふつふつと沸いてくる。
AIが解析した逆光写真を見て、俺は村上絵里香のことを思い出した。
彼女は半年近く学校を休み、久しぶりに登校した時には、もう彼女の面影はなかった。
目鼻口が潰れ、平らな立体感のない落書きのような顔になっていたのだ。
もちろん、彼女に触れる者はいなくなり中学校に進級すると姿を見なくなっていた。
当時は、海外に整形手術に行ったと噂が流れたが真意は分からないままだった。
寝室のベッドでスマホを眺めてようやく、逆光写真を撮った経緯の断片を思い出した。
盆休みに地元に帰省して、小学校の同窓会に参加した。そこで、記憶がおぼろげになる程泥酔した俺は、帰りがけに村上絵里香を誘った。
「少し歩かない?」
同窓会の飲みの席で、ずっと隅で1人飲んでいた彼女を哀れんで誘ったのかも知れない。
「……別にいいけど」
彼女はそう答えて俺についてくる。
そこから先は、やはり記憶の回路がバカになっていて思い出せずにいた。なぜ浜辺で彼女を撮ったのか、肝心な部分が欠落している。
俺はシャッターが押せなくなったのは彼女と何かあったのではないかと疑う。
顔のない村上絵里香と浜辺に赴き、何かされたのではないかと推測する。
俺はベッドの上であぐらをかきながら、小学生の時に仲の良かった女に電話をかけた。
「もしもーし、どうしたの?」
女がすぐに電話に出る。声のトーンが何かを期待するような甲高い声だった。
「急にごめん……聞きたいことあるんだけど」
俺がスマホに向かって口にする。
「なになに?」
「……村上絵里香の連絡先って分かる?」
女はしばらく黙ってから、先ほどとは打って変わって重みのある声で口にした。
「村上さん、同窓会が終わってすぐに自殺しちゃったらしいよ」
「え?」
「うん……亡くなってすぐに、娘の写真がないかって親御さんが電話かけてきてさ。結構、大変だったんだから」
「写真は見つかったのか?」
「ううん……村上さんってあんなんだったじゃん。写真に映るのを嫌がってたみたいでさ。結局、遺影は怪我する前の小学校時代の写真を使ったらしいよ」
女と軽く近況の報告をし合い、電話をきった。
俺は村上絵里香の葬儀を想像する。白い布がかけられた棺の上に本人の面影を残さない遺影が飾られ、それを見送る人たち。
残された人には不憫かも知れないが、彼女はそこまでして遺影を飾って欲しかっただろうかと疑問に思う。
──不意に俺が持つ逆光写真が彼女の最後の姿を閉じ込めた写真ではなかったのか、そんな思いに駆られた。
接写で撮ったピンボケ写真のように、いつまでも彼女を写真におさめた夜を思い出せずにいるが、シャッターを押せなくなった原因は間違いなく彼女が起因しているはずだ。
嘆息混じりの呼吸を数回して、俺は彼女の両親に逆光写真を渡そうと決意してベッドから降りた。
ホコリのかぶっていたエプソンのプリンターで逆光写真をプリントし、余っていたB3サイズの額縁に入れて手提げのエコバックに入れる。
それを手に持ち、新幹線と特急を乗り継いで地元の小さな駅に到着したのは0時前だった。
未だ車掌に直接切符を手渡す改札口を抜けて、外に出ると無駄に面積の広いパーキングエリアが現れる。
車が一台も停車しておらず、均等に引かれた白線が月光に反射して青白く輝いていた。
少し歩くと、泥と変わらない乾いた田園が広がっている。間隔のあいた電柱の街灯には名称の分からない羽虫が冬の寒さに物怖じせず、白熱灯に吸い寄せられて弾かれてを繰り返していた。
たまに火花が散ると、黒い芥になった羽虫が風に流され闇に呑まれていった。
年金暮らしの両親しか住んでいない実家はすでに静寂に息を潜めていた。
セピア調の思い出の中の実家は、物音に溢れていていつも誰かの息づかいが聞こえたが、現実として目の前に佇む木製の実家は薄暗い幽霊屋敷のようだった。
俺は親を起こさないように玄関の引き戸を開けて、足音を殺して2階に上がり自分の部屋に入る。
照明をつけると、とっくの昔に体の合わなくなってしまった勉強机が目に入った。透明なデスクマットの下にロックマンのイラストポスターが敷かれている。
クッション性をなくしたチェアーに座る。ローラーの油が寒さで固まっていて鈍い不協和音を鳴らす。
俺は鍵付きの引き出しを開けて、使っていない学習ノートに挟まれた一枚の写真を取り出す。
……それは、村上絵里香がのぼり棒から落ちた直後の写真だった。
皮が剥がれて肉の線維に土埃が付着し、部分的に骨身が剥き出しになり、血液が泡を吹いていた。
インスタントカメラのチェキで撮った写真は色が抜けてモノトーンになっていたが、血液の色だけが生々しく滲み残っていた。
「……こんな赤色、今だと撮れないな」
俺はそう呟いて写真をノートに戻し、引き出しを閉めた。
イスに腰をかけると鈍い音がして壊れそうだったが、無視して和風な照明から垂れ落ちる紐を見つめた。
ずっとダンゴムシの裏側のような写真を撮り続けていた。
情報量が過剰でよく分からない物を、なんとなく整理する写真が好きだった。しかし、コンテストの最終選考にすら残れず焦れったくなってから、分かりやすい被写体をさらに分かりやすくする写真を撮るように変わった。
『シンプルでに良い写真です』
初めて入賞したコンテストでもらった選評だった。
どういう理屈で〝シンプルに良い〟が選出理由になるか今でも理解できないでいるが、写真を生業にするために〝シンプルに良い〟を心がけた。
B級アイドルのカレンダーや豚骨ラーメン特集を撮っている内に、クライアントの要望通りの写真を覚え、個人事務所を構えた。
もうダンゴムシの裏側のような写真を久しく撮っていない。
撮っていないはずなのに、俺は村上絵里香を写真におさめたらしい。
しかし、あの逆光写真は俺の趣味ではない。
彼女の落書きのような不揃いな顔を影で潰してしまうのは、あまりにもったいない。
露出を調整しギリギリまで明るくし、レンズは標準にして、ありのままの彼女の不揃いを整理してあげたい。
そこに俺の思惑や嗜好は不要だ。
ただただ、丁寧に彼女の不揃いさを写真に残したい……。
「宇野くんに助けられれるのは二回目ね」
村上絵里香の仏壇に線香をあげて、B3の額縁に納めた逆光写真を手渡すと、彼女の母親はそう口にした。
昼前に入れずインターホンを鳴らした俺をおばさんは嫌な顔せず「線香を上げてちょうだい」と家に招き入れてくれた。
「助けるなんて大げさな。暗い写真で申し訳ない」
六畳の客間は日当たりが良く、コートを着ていると暑いぐらいだった。
「覚えているかしら? 絵里香がのぼり棒から落ちた時も先生を呼んでくれたのは宇野くんだったでしょ」
おばさんは急須で緑茶を注ぎながら言った。
「大変だったのよ……手術するのが遅れたら危なかったってお医者さんに言われたんだから」
「いえ、もっと足が速かったら良かったんですけど」
俺が応えると、おばさんは微笑む。
「宇野くんが近くにいてくれたから、絵里香は助かったのよ。本当にありがとうございました」
もしあのまま写真を撮り続けていたら、村上絵里香は死んでいたかも知れないと思うと、罪悪感で緑茶に口をつけられなかった。
「生前、絵里香さんは俺のことなんか言ってませんでしたか?」
おばさんは優しい顔をして口にする。
「あの事故があってから、宇野くんは助けてくれたけど、変わった子だって言っていたわ。あなたの話をする時だけ、娘は楽しそうだったのよ」
「最近はどうでしたか?」
「最近? 同窓会に行ったとは聞いていたけど宇野くんの話は聞かなかったかな」
俺はおばさんの膝下に置かれた逆光写真に目をやった。
それに気付いたおばさんが額縁に手をかける。
「こんな良い写真を撮ってもらっていたなんてね……だから、絵里香も満足しちゃったのかな」
俺は思わず目を見開く。それでは、まるで俺が彼女を殺したようだ。
「……すみません。そんなつもりじゃ」
おばさんがすぐに察して首を横にふる。
「ごめんなさい、そういうつもりじゃないの。絵里香はずっと顔のことで悩んでいたから」
後に続く言葉を聞いて俺は急須をひっくり返し、何も言わずに彼女の家から出ていった。
「ほら、絵里香って顔が醜かったでしょ? 宇野くんが綺麗に撮ってくれたから嬉しかったんじゃないかって」
夢でもないし、現実でもない。ここは記憶の地続きだった。
「どうしてそんな意地悪をするの?」
俺の少し前を歩く村上絵里香が口にする。
「久しぶりに撮りたいって衝動が湧いてさ」
俺はファインダーをのぞき込む。
……彼女の家を後にしてから、逃げるように電車を乗り継ぎ、事務所に帰った。そのまま、アルコールの強い酒を適当に飲んだ……はずだ。
それが、どうして村上絵里香と浜辺を歩いているのか理解できないでいる。
「綺麗に撮ってくれる?」
後ろ髪が風に流されて彼女はこちらに振り向いた。白いハイビスカス柄のワンピースが8月を思い出させてくれる。
目鼻口が潰れて、まるで子どもの落書きのような顔から感情を読み取るのは難しい。
彼女の背中の向こうには月光が照らし、寄せて返すさざ波が輝いていた。
「……あぁ」
俺はキャノンの一眼デジタルカメラを構える。
ファインダーを通して映る村上絵里香のシルエットは無駄な肉がなく、彫刻のように洗練されていた。その体型を維持するのに、どれほどの努力が必要か安易に想像できた。
影で顔を塗りつぶしてしまえば、彼女はファッション雑誌を彩る女たちと見劣りしない。
俺はシャッターに指をかけた。
逆光の彼女は村上絵里香の個としての意味を持たず、浜辺に佇む優秀な被写体として記号的にしか存在していない。
……俺が撮りたかったのは村上絵里香だ。ロケーションに埋もれた置物の彼女じゃない。
俺は彼女からレンズを遠ざけた。
「なあ、場所変えないか? ここだと、顔が映らなくてさ」
波が砂をさらう音に負けないように大きめの声で言った。
彼女は横髪をかき分けて、俺に背中を向ける。
「私さ、別に後悔してないんだよ」
後ろ姿の方が彼女の感情を読み取れる気がした。
「後悔って?」
「……死んだことに」
彼女の言葉に、この場所がすでに記憶の地続きではなく、俺と彼女だけの世界だと知る。
「俺はお前に呼ばれたんじゃないのか?」
「何言ってんの」
不思議と彼女の声は耳に届いた。
「宇野くんが私を引き留めてるんでしょ?」
彼女は背中で手を結び話し続けた。
「登り棒から落ちて顔を無くしてから、私は顔を取り戻すために生きていたの。整形を何度もしたし、借金だってたくさんしたの……でも、返ってこなかった……ううん、もう返ってこないと知った。だから、私は死んだの……別に恨みなんてないよ。私は十分、頑張ったからさ」
彼女はゆっくりと海の水平線に向かって歩き始めた。
世界から音が消える。それは、この世界の終末の始まりだった。
「もう行かせて欲しいの……お母さんに写真を渡してくれてありがとね」
少しずつ水面に沈んでいく村上絵里香を見つめながら、同じ過ちを繰り返そうとしている。
俺はまだ彼女を撮っていない。
気付いてからは早かった。俺は彼女を追いかけて海に入った。水の中なのに、温度を感じない……まだ、この世界を終わらせたくない。
「ちょっと待ってくれ」
彼女の腕を掴み言った。膝元まで海に浸かっていた。
「……何?」
彼女が潰れた顔をこちらに向ける。
「撮りたいんだ……もう一度、お前を撮りたいんだ」
「宇野くんは私を綺麗に撮ってくれたじゃない」
「あんな雰囲気だけの逆光写真じゃなくて、お前のありのままを撮りたいんだ」
「……そんなに醜い私を撮りたいの? あの時みたいに」
彼女の言うあの時が、のぼり棒から落ちた彼女を写真に残した時を指すのはすぐに分かった。
「醜くなんかない……誰がなんと言おうと、俺はお前の潰れた顔を写真の中に閉じ込めてしまいたいほど美しいと思ってる」
彼女はわざとらしい溜め息をついた。
「しょうがないなぁ……手短にしてよね」
表情のない彼女は優しい顔をしているに違いない。
村上絵里香を堤防の上に立たせて、レンズに集中させる。
彼女の顔が月光に照らされて、くっきりと輪郭を露わにしていた。
まぶたが糸のような目も、平らな靴底のような鼻も、釣り合いのとれていない口も。カメラの中で整理すれば良い。
ありのままの彼女を、ありのまま写しだすように願いを込める。
「立ってるだけでいいの?」
彼女の問いに、俺は手を上げて同意する。
堤防の向こうには俺と彼女が過ごした町が広がっていた。
俺にはただ通り過ぎていった町だったが、彼女にとっての町がどういう意味を持つかは分からなかった。
俺はカメラを構えて、ファインダーをのぞき込む。
村上絵里香と目が合う。
背筋が震える。『その瞬間』が来ると悟る。
俺はシャッターを押した。