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それは私がした選択

作者: 雪ばたり




キスしたら、もう戻れないことは分かっていた。

分かっていて、私は目を閉じた。





---





雲の上の人だった。


木崎ひかる、28歳。大学卒業してから今の会社で経理の仕事をしている。

私が働いているのは、大手商社グループの1つ。グループ会社といっても買収されたばかりの隅っこにいるような存在。誰もが知るグループに入ることが発表された時は、社内に衝撃が走り、親に自慢する若手もいたくらい。

そんなのんびりしている気風が気に入っている。


4月。

親会社である商社から会社統合のプロジェクトのために出向されてきたのが、久喜さんだった。

31歳の若さで抜擢された、親会社のホープ。

若手の少ない我が社には衝撃が走った。


そんな彼が、経営状況を把握するためにデータを求め、私が取りまとめ役になった。

1年がかりのプロジェクト。


「僕は、自分の考えを押し付けたくはありません。皆さんが大切にしてきた文化は保ちつつ、いいところは活かして取り入れて変化していければと思っています。」


彼はとことん熱心だった。

これまでこんな熱心に会社のことを考えたことはなかった。

私たち以上に会社を理解して、よくしていこうとする。そんな姿勢に惹かれるのに時間はかからなかった。



「木崎さん、在庫のデータを出してもらえるかな。」

「それならこの共有フォルダにまとまっています。」

「ありがとう、先回りして用意してくれたんだね。いつも助かるよ。」

「とんでもないです。まとめるだけですから」



物腰柔らかで、誰にでも等しく優しい人。

でも、どこか絶対に近づけない壁を作る人。


私も近づこうとは思わなかった。彼は、プロジェクトが終わったら帰還する、違う世界の人だから。

何もない生活に少しだけ彩りをもらった、と思っていた。




そんな彼が、1ヶ月前プロジェクトから外された。残り5ヶ月、折り返しを過ぎたタイミングだった。

外からの改革を好まない保守層が、親会社に根回しをした結果だった。



プロジェクトを外れても出向のまま、居心地が悪い環境で彼は戦い続けた。しぶとく、理想とする連携ができるように社内に説き続けた。


そんな彼の助けに少しでもなりたくて、私もできる限りの仕事をした。



一度だけ、彼が弱音を吐いたことがある。


保守派の重鎮であり、親会社への根回しをした取締役とのミーティングが控える前日。

このミーティングで少しでも譲歩を引き出せなければ、久喜さんが考えていたプロジェクトのゴールは達成できない。


深夜まで資料をまとめていた執務室で、久喜さんと私しかもういなかった。



「久喜さん、一息入れませんか。コーヒー淹れてきました。」

「ありがとう、欲しかった。」



いつもと違って、少しだけ笑った顔に影があった。



「木崎はさ」


その頃には、もう「さん」は外れていた。久喜さんに共感する数人は社内でかなり密に仕事をしていたから。



「この説明で、変わると思う?」



何が、は言わなくてもわかる。私は自分の分のコーヒーを久喜さんの机に置かせてもらって、向き合った。



「わかりません」



PCを見ていた彼が、椅子に座ったまま横に立つ私の方を向いた。



「でも、久喜さんの言葉で変わった人もいます。」



私のことだ。こんなに一生懸命仕事をしたことはなかった。

何かを変えるというのは、とてつもなく労力がかかると知った。

そして、言われたことをやることだけが仕事ではないと、久喜さんから教わった。


貴方の言葉が、仕事に取り組む姿勢が、何かに影響を及ぼしているのだと伝えたかった。



久喜さんが私を無表情のまま見つめている。

私も見つめ返す。


目を合わせたまま、たったの数秒。

私にとってはとても長い時間だった。



「そうか」



沈黙を破った久喜さんが、立ち上がる。

1.5歩分の距離が気づいたら縮まっていた。



「ありがとう、木崎」



抱きしめられていた。驚く間も無く。

柔らかく、包み込むように。

背中に回された手は触れるようで、服の分だけ触れていない。


これ以上は踏み込まないと言うかのようだった。


全てがほんの数秒。

ぱっと離れた久喜さんは、何事もなかったように「あと一息だ、頑張ろう」と言って、机にあった私のコーヒーを手渡してきた。



少し弱気になっただけ。ここにいるのは誰でもよかったんだ、わかってる。

目を閉じて深呼吸し、私も仕事に戻った。



でも、心臓だけはどうにもなってくれなかった。






---






迎えたミーティング当日。

久喜さんは言葉を尽くした。


そして、取締役の譲歩を引き出した。自分が1年待たず退く形で、それでも目的は達成された。


元々取締役が気に入らなかったのは久喜さんという存在。

勝負には勝ったが、久喜さんはプロジェクトを完遂できなかった。

そういう構図にすることで、目指していたゴールを達成することを選んだ。



12月。年の瀬を前にした金曜日、久喜さんの最終出社日となった。

会社統合プロジェクトに関わっていたメンバー6名でささやかな打ち上げをした。

全員が久喜さんに感謝しながら、組織の大きな流れに逆らえない悔しさを感じていた。発散するように、だいぶ飲んだ。私も飲んだ。


年明けには久喜さんは本社に帰任する。


顔を見なくなれば、きっと抱きしめられた瞬間を反芻することもなくなるだろう。

何回家でひとり、思い出したかわからない。


寂しさと記憶を振り払うように、ジョッキを手に取った。


二次会が終わったのは、12時を回る手前。

酔いの回ったメンバーと解散し、かろうじて終電のあった私と、同じ路線の逆方面に住む久喜さんで駅に向かっていた。



「木崎」


「はい」


「もう一杯だけ、行かない?」



酔い覚ましに、と付け加えられた。

確かに、いつもより少し足元が危ういことは自分でも気づいていた。


どこかに寄ったら、終電は逃す。わかっていたが、断る選択肢はない。



「いいですね」


「じゃあ、こっち」



迷いのない足取りで久喜さんが歩く。



「馴染みのお店なんですか」


「たまにね」



エレベーターを上り、案内されたのは雰囲気のよいバー。

満席に近く、賑やかだったがカウンターが空いていた。



「素敵なお店ですね」


「ノンアルもあるから」



もしや本当に、酔い覚ましに連れてこられたんだろうか。

ほんの少し期待していた心を無視して、度数低めのお酒とチェイサーを頼んだ。


思うより酔っていたのだろう。

そこからは何を話したかあまり覚えていない。


なぜ今の会社に入ったのか、学生時代どんなことをしていた、など取り留めなく話していた。



「木崎は学生の時なにやってた?」


「部活ですね。吹奏楽部だったんですけど」


「あー、吹奏楽部って意外に体育会系だよな。たまに出てる」


「そうですか?」


「体力あるだろ。長時間やってても効率落ちないし。


あと追い込んでる時、集中力増す感じ。PC見てる目が瞳孔開いてる。

横から見てても分かるよ」


「そう見えますか。自分ではわからないので、恥ずかしいですね」



思えば、プライベートに踏み込んだのは初めてだ。


私は知らない。

久喜さんの学生時代も、家族構成も、彼女がいるのかも。



「久喜さんは」


「ん?」


「なんで、本社に入ったんですか」



こんなことが聞きたいわけじゃないのに、核心は突けない。

いくらお酒が回っていても、もう会えなくなるからといっても、理性はまだ残っていた。



「早く海外に行きたかったんだ」


「商社だと多いですよね」


「多いな。だけど、俺は一度見送られてて、もう一度選ばれるために早く成果をあげたかったんだ。


だから、プロジェクトに入った」



久喜さんが飲んでいたウィスキーのグラスを傾ける。



「難しいもんだな、人の心って。

今回は、成果を急ぐあまりに、対話を忘れてた」



私は久喜さんを見つめることしかできない。

普段から経営陣がどう考えるか見ていたら回避できたのだろうか。



「まあ、年明けからまた頑張るよ。いい学びだった。


木崎は、どうだった?この8ヶ月」


「わたしは」



感情のまま話すと泣きそうだった。

言葉を選ばなければ。



「仕事というものを捉え直しました。

久喜さんとでなかったら、きっと学べなかったと思います」



久喜さんの方に向いた。貴方はいつだって話しかけた人に体を向けていたから。



「私は久喜さんと仕事ができてよかったです。

ありがとうございました。」



想いを込めて伝えた。貴方がいつもそうしていたように。



「俺も木崎がいてくれて助かった。序盤の、俺が社内で受け入れられてなかった時も、フラットに接してくれたよな。

ずっと感謝してた。こちらこそありがとう。」


照れるなと言いながら木崎さんがウィスキーを煽って、グラスが空いた。

そろそろ行こうか、と言われてはじめて、2時近くになっていることに気づいた。



このままお別れ。

きっともう、会うこともない。


私から声をかけたら、答えてはくれるだろうけど、きっと私はそれをしない。

久喜さんが違う世界の人だとわかっているから。


会計を済ませ、エレベーターに乗り込んだ。

私が先に乗って、後から久喜さんが乗った。


扉が閉まった瞬間に、抱きしめられた。

今度は強く、服の分の隙間も押し潰されている。心臓が止まるかと思った。



「このまま、離れたくない」



久喜さんの声が、耳の近くで響く。



「酔ってるんですか」


「もう覚めてる」



少しだけ身体を離した久喜さんに見つめられる。そこにいたのは物腰柔らかな壁の先の人ではなく、一人の男だった。



「木崎」



好きだとは言ってくれない、ずるい人。


どうしてこの人と目が合うと、時間が止まったように感じるのだろう。

エレベーターの中の、たった数秒のはずなのに。



求められていることはわかっても、自分からは求めない。


だって貴方はいなくなる。


煌びやかな世界で、8ヶ月だけ過ごした地味な女なんて、きっと忘れてしまう。



その時に、貴方の足を引っ張る存在に、私は絶対になりたくない。



そう思いながら、それでも今求められる嬉しさが溢れてしまう。


目を閉じた。唇が重なった。

想像するよりカサついていた。


きっと私はこのキスを大切にする。

もうこの唇を知らなかった時には戻れない。


それでも、私は目を閉じたのだ。

拒否しないという選択をしたのだ。


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