船の上の人形
船の上では、たくさんの人形が働いている。乗客の前でダンスをしたり、夕食を作ったり、デッキを掃除したり、操縦士が風邪をひいた時に代わりを勤めたり、クラゲの大群と戦ったり、いくつかのグループに分かれてローテーションで仕事をしている。
人形たちは地上が恋しくて、港が見えるたびに身を乗り出して叫ぶ。でも降りることはできない。三百リットルの涙を流さなければ、人間には戻れないのだ。
「人形でいる限り船からは逃れられない」
「ああ、私たちはなんて不幸なのかしら」
人形たちはくる日もくる日も涙を流す。それでもなかなか三百リットルには届かず、途中でシチューの鍋に落ちたり、人間に捕まって海に捨てられ生涯を終えたりする。
りん子は人形になってまだ一ヶ月だ。それほど不便は感じていない。体は軽いし、料理も掃除も前より上手になったような気がする。乗客たちが世間話をするのを眺めているだけでも楽しい。他の人形とはあまり話が合わないけれど、人間だった頃の思い出話をするとたいてい盛り上がる。
「私、カワウソと友達なの。それにお天気お兄さんにも会ったことがあるわ」
りん子がそう言うと、人形たちは感心する。カワウソもお天気お兄さんも小さくて可愛くて、おまけに絶滅危惧種だ。ほとんどの人形はテレビでしか見たことがないという。
でもしばらく話していると、やっぱり帰りたい、と一人の人形が言い出し、他の人形も口々に自分の不幸を嘆き始める。中年男性の人形は、本当は小学生の女の子だったのに、と言って他の人形のスカートを欲しがる。女性の人形は、もっと若くて美しかったのに、と言ってりん子の顔を欲しがった。
「いい加減にしなさいよ。あんたたちなんか欲望の塊じゃない。人間より人間らしいわよ」
そうは言っても、りん子も人間に戻りたかった。船の上の生活も楽しいけれど、大好きなゆずあんパンを買いに行けないし、友達と電話もできないし、今月出るはずだった山野シンタの新刊も買えない。人形たちと愚痴を言い合っても、同じ趣味の人形がいなくてつまらなかった。
「でも三百リットルなんて無理。絶対無理」
三百リットルの水を飲み、逆立ちをしてみたこともあった。
夕食を作る当番になった日、ありったけの玉ねぎを刻んでみたが、三百リットルの涙は出なかった。玉ねぎが多すぎると船長に怒られた上、その涙は違うからねと釘を刺されてしまった。
三百リットルの涙を流し終え、港で下船していく人形もいる。知らない町でも、薄汚れた都会の隅でも、人間に戻れただけで嬉しいらしい。中年男性の人形は人間になっても中年男性のままだったが、前より可愛くなったと大喜びしていた。
「私、もう耐えられない!」
りん子と同時期に働き始めた秋美という人形が、ある日突然海に飛び込んだ。船長は大慌てで止めたが、秋美人形は波に飲まれ、あっという間にサメに食べられてしまった。海面が血で赤く染まるのを見て、人形たちは震え上がった。
ただ一人、りん子だけは拳を握りしめていた。半分は怒りで。もう半分は喜びで。
「船長!」
みんなが秋美人形に手を合わせている間に、りん子は船長室のドアを勢いよく開けた。船長は山積みのお菓子と本に埋もれ、花火と星座の歌を口ずさんでいた。
「その歌、私も好き」
「きみは人形だろう、持ち場へ戻りたまえ」
「私たちは人間よ。秋美は血を流してたもの。よくもだましたわね」
船長は意地の悪い笑みを浮かべた。
「気づかなかったのなら人形と同じだ」
「そうね、バカだったわ。バカはいつも人間のほうなのよ。竹本マユキの天気予報ではね、雨は傘を忘れたバカな人間の頭上で特に激しく降るのよ」
「お前、あれ見てるのか? 操縦士の奴らは非科学的だと言って見ようとしないんだが……俺はあいつの予報を信用してる」
船長は半分寝ていた体を起こし、りん子に向き直った。当たり前よ、とりん子は言った。
「いつも面白いもの、見なきゃ損だわ。ねえ、明日の天気は何て言ってた?」
「明日は大雨だ。でも来週はクレザキ港で太陽がよく転がって、ダイヤモンドが寒流に乗ってきたらノウゼンカズラが死ぬほど咲くらしいぞ」
「じゃあクレザキ港に行って。私、そこで降りる」
クレザキ港はりん子の家からバス一本で行ける。日の出スポットとして人気があり、行きたがっている人形は多い。
「おいおい、勘弁してくれよ。人形がいないと船の仕事が成り立たねえだろ」
「あなたが覚えればいいのよ。でもまあ、何人かは人間として雇ってあげたらどう? 他に仕事がない人もいるだろうし」
りん子はクレザキ港へ着くまでの間、船長に掃除や洗濯、クラゲを光線銃で撃退する方法、野菜カレーの煮込み方、流行りのタコ壺ダンスなどを教え込んだ。
船長は人形たちと一緒にステージに立ち、ダンスの終わりに花火と星座の歌を歌った。りん子も隣に立ち、一緒に歌った。
りん子は初めて、秋美人形がいなくなったことが悲しく思えた。それでも三百リットルの涙は流せなかった。そんなことができるのは、目の裏側にタンクがついている人形だけだ。
「これ、お前にやるよ」
クレザキ港に着く前日、天気予報を見ながら船長が本を差し出した。
「お前とは趣味が合うみたいだからな」
「お茶漬け三昧……これ、山野シンタの新刊!」
明日は太陽が転がります、とてつもなく、どうしようもなく転がります、とお天気お兄さんが繰り返していた。
次の朝早く、クレザキ港で半分以上の従業員が降りていった。残りの人々は一晩で履歴書を書き上げ、正職員として雇ってもらった。
「私もそのうちバイトに来るわ!」
りん子は船長に手を振った。船長は手を振り返し、すぐに厨房へ戻った。今日は夕食の当番なので、りん子に教わった野菜カレーを作るのだという。
空では太陽が右へ左へ転がり、海面に美しい模様を作っていた。りん子は去っていく船を見送った。船長にもらった本は、新しい紙のにおいと海のにおいが混じり合っていた。
「ずっと読みたかったのよね」
人形だった頃と同じくらい軽い足取りで、りん子はバス停へ歩いていった。バス停では、ノウゼンカズラが咲き乱れていた。