ミスミ
――――――――この世に生を受けたことは当たり前のことではない。
適齢期の男女においても妊娠の確率は約三割、そこから年齢を重ねていけばどんどん確率は下がっていく。それはこの先の人生を生きていけば、自然に体感することになったかもしれないことだ。“生きていけば”。
清野美純は確かにそこに居た。長い髪が風に揺れると、シャンプーの良い香りがして、いつも僕のことをからかう。笑っている瞳の奥には、どこか諦念があり、いつか消えてしまうのではないかと思わせるような儚さを持っている。それが清野美純という人間の性質で、僕が捉えられた清野美純の全てだった。
美純はもうこの世にはいない。病魔に負け、僕を遺し、死者の世界へと旅立っていった。じわり、じわりと、美純はこの世の記憶から消えていく。当たり前のように隣に立っていた美純が、少しずつ、少しずつ、居なくなっていくのだ。当たり前にあったものがなくなる。その怖さを、僕の周りのどれだけの人間が、知っているのだろう。
美純との出会いは、病院で捻挫の治療を受けたことがきっかけだった。
かかりつけでもなんでもない、ただ学校の近所にあるからという理由で連れてこられた、この地域で一番大きい総合病院。僕は診察室の前のソファに座って、自分の順番を待っていた。
「それ、明城の制服だよね。私も」
美純は突然そこに現れて、僕の隣に座ったのだ。点滴を引いて歩く美純は、肌も、着ている服も白くて、本当に存在する人間なのかどうかもわからなかった。今でも鮮明に思い出せる。初めて出会った日の、美純の微笑みも声も、全部。
「一回も学校には行ったことないんだけどね。君、名前は?」
「……三澄、蒼」
合った視線は、なかなか逸らせなかった。この世の全てを知っている、とでも言いたげな目に、僕は吸い込まれてしまいそうで。
「三澄蒼くん、どうぞ」
看護師さんが診察室に僕を呼び入れるまで、美純は僕の目を見つめていた。そして診察室に入っていく僕に、
「いい名前ね。バイバイ、蒼くん」
と言って、その日はその場を去っていった。蒼という名前を褒められたことは初めてで、僕はそのことを良く覚えていた。多分美純の顔がすごく綺麗で、心がざわめいていたことも、忘れなかった理由の一つではあると思う。
捻挫の経過を見る為の再診に訪れたのは、それから五日後のことだった。やっぱり美純は僕のところに姿を現して、最初に会った時と同じ笑顔を浮かべていた。
「やあ蒼くん。七澤先生に聞いたよ。君はバスケ部期待のルーキーらしいね」
「期待のルーキーって。……僕は別に、普通の選手だよ」
七澤先生と言うのは、僕の捻挫を診てくれた整形外科の先生で、余計なことばかり話してくる先生だった。彼女はいるか、だの、どういうエロ本が好きか、だの。そういうノリで、美純にも僕のことを話したに違いなかった。
「いいね、部活。楽しいの?」
美純の質問には、知的好奇心も含まれていたと思うし、羨望も含まれていたと思う。僕は少し考えた後、
「楽しいよ」
と返事をしたが、美純には楽しそうに聞こえなかったらしく、
「ふうん」
というつまらなそうな返事が返ってきた。
「三澄蒼くん、どうぞ」
呼び込みの声に返事をし、美純の隣を立つと、美純は何も言わず、僕に背を向けて何処かへ行ってしまった。美純の様子を診察室から見ていたらしい七澤先生は、僕が入室するなり、
「あまり悪く思わないでね。あの子は病院での生活が長いから、どうしても蒼くんみたいな子を羨ましく思ってしまうんだよ。自分はそう思っていなくたって、ね」
と言った。七澤先生はそれ以上美純については語らず、僕の脚の診察に移った。僕の捻挫はごく軽いもので、きっとこの診察がこの病院に来る最後の機会だろう。そう思うと急に、美純のことが気がかりになって、僕はそれで、その日、七澤先生に尋ねてしまったのだ。
「あの子の病室は、どこですか」
と。
捻挫の治療が終わった後、七澤先生から聞いた病室に行くと、美純は開け放たれた窓に向かって、紙飛行機を投げていた。紙飛行機は風に乗って真っ直ぐ空を駆け、高度が落ちていくと、やがて遠くの植え込みに刺さった。その光景はとても美しく、僕はその場に立ち尽くし、ただその光景を見ていた。
「蒼くん。どうしたの?迷子?」
美純が振り返って声を掛けてきて、我に返った。さっき立ち去って行った時のつまらなそうな顔はどこへ行ったのか。美純は僕を心配そうに見ていた。
「迷子じゃないよ。……七澤先生に、病室ここだって聞いたから。さっきの、謝ろうと思って」
美純は僕の返答を聞くなり、大きな声で笑い出した。ひとしきり笑った後、美純は息を切らしながら、
「謝ろうって、何を」
と聞くのだった。
「僕は君が“部活は楽しいものだ”って答えてほしいと思って、そう答えた。本心ではないみたいに答えた。そうじゃない。僕はちゃんと……なんで笑うの」
美純が質問をしてきたのに、美純は僕の返答の途中でまた笑い出した。美純は自然に流れ出た涙をぬぐった後、僕の肩を小気味よく叩いて、
「真面目かよ!気にしてないし。寧ろそれは私が謝るべきだし。ごめんね、蒼くん」
と言った。僕は何と言っていいのかわからず、ただ美純の目を見つめることしかできなかった。
その後すぐ、美純は僕に部活の話をしてほしいとねだった。僕はありのままの僕の日常を話した。部員は十三人、三年生が八人、二年生が三人、一年生が二人の、ごく小さい部活であること。毎年インターハイに出られはするが、実績を残したことはまだ無いこと。部の仲間は馬鹿ばかりで、練習は怠慢とも熱心ともつかない程度に行い、練習が終わった後は皆で寄り道して他愛もない話をして家路につくこと。
「僕はスモールフォワードっていうポジションで……」
美純は僕の話を、本当に楽しそうに聞いた。僕は日が暮れるまで、美純に部活の話をし続けた。
僕は美純の病室に、足繁く通った。部活の無い月曜日の放課後、休日の練習の帰り、訪れる時間は様々だったけれど、美純はいつでも、僕を笑顔で迎え入れ、僕に外の世界の話をねだるのだった。学校の授業の話、都会に遊びに行った時の話。その時によって話すことは様々だったが、美純はどんな話でも、キラキラの笑顔で聞いていた。
僕が初めて美純の発作を見たのは、夏休みが終わる頃、夕方に病室を訪れた時だった。美純に笑顔は無く、脂汗をかいて、浅い呼吸をしていた。僕はその日、病室に入ることを許されることなく、家路についた。美純の発作はいつ見ても、尋常ではなく、僕は美純が亡くなるその瞬間まで、慣れることは無かった。
二学期の始業式の日、式が終わった後で病院を訪れると、美純は何でもなかったかのように、笑顔で僕のことを病室に迎え入れた。僕が発作の一部始終を見ていたことを、美純は覚えていないらしかった。
「今日は君に聞きたいことがあって来た」
僕はこの日、美純に“君の身体はどれほど悪いのか”と聞こうとしていた。けれど美純の不安そうな顔を見て、聞くのをやめてしまった。何を聞かれるのだろう、改まって質問するなんて。美純の顔はそう言いたげだったし、その表情は僕の決意を鈍らせた。
「何、改まって」
そして僕は、とっさにこう聞いたのだ。
「君の名前を、教えてほしい」
僕はそうやって名前を聞くまで、美純の名前を知らなかった。名前なんて知る必要が無かったのだ。僕は美純の唯一の話し相手だったのだから。
美純が少しずつ自分の病状について話してくれるようになったのは、美純が亡くなる二ヵ月ほど前だったと思う。冬が始まり、少しずつ外気が寒くなっていくのに、美純の装いは出会った頃と何も変わらなかった。
「薬が増えたんだ。私まだ元気なのに。おかしいね」
美純は日に日に、起きていられる時間が短くなり、口数も少なくなっていった。それでも僕の話は笑顔で聞いていて、僕が話している間は元気なのだ、と、看護師の人たちも主治医の先生も語っていた。
その冬、初めて雪が降った日、美純は僕にオリオン座が見たいと言った。美純は生きているのがやっとで、僕の話もまともに聴けているのかわからないような状態だった。だが美純からのお願いらしいお願いというのはそれが初めてで、僕は叶えなければならないと思った。他の誰でもない、僕が叶えなければならない、と。
美純を病院から連れ出し、病院の近くの丘の頂上で星を見たのは、美純が珍しく起きて動いていた、良く晴れた日のことだった。
出会った頃は元気に病院中を歩いて、僕のことを見つけては話しかけてきたのに。もうこの頃には自分で出歩く元気もなくて、僕が会いに行かなければ顔を見ることすらかなわない状態だった。
美純のことを背負って歩く山道は冷たく、まるで美純に牙をむいている様だった。
「重くない?潰れると思ったら落としていいよ」
なんて、美純は冗談が言えるほど元気で、僕もつられて、
「じゃあ遠慮なく落としていこうかな」
なんて返事をした。美純も僕も、道中すごく笑って、頂上に着くころには笑い疲れてへとへとになっていた。
美純と見上げた夜空には、星が沢山浮かんでいて、流れ星も流れていた。冬の大三角形が燦燦と輝く中、僕と美純はただ夜空を見上げ、美純の好きな外の世界の話をした。部活の大会の話や、クラスであった出来事。いつもより長く、美純の気が済むまで、僕は美純に僕の世界の話をした。
美純が亡くなったのは、その三日後のことだった。
美純は安らかな顔をしていて、僕は美純が眠っているようにしか見えなかった。触ると美純は冷たくて、僕の言葉に返事もしない。美純は本当に死んでしまったのだ。
よく晴れた、夕焼けが綺麗な日のことだった。
僕は美純の葬儀に参列することが出来なかった。部の大会でどうしても。僕はレギュラーだったから、大会に出ないわけにはいかなかった。美純は薄情だと思っただろうか。それとも頑張れと応援してくれただろうか。試合がなかったにせよ、僕は葬儀には顔を出せなかっただろう。僕は僕が見た美純の全てを思い出しては、毎日のように泣いていたから。
身近にいる人が亡くなるのは、僕にとって初めての経験で、僕は深く傷ついた。僕は美純に何が出来ただろう、僕は美純からいろんなものを貰いっぱなしではなかったか、と。
美純が居なくなってしまっても、僕は歩いていかねばならない。僕は美純の人生を生きているのではなく、僕の人生を生きているからだ。
世界は薄情だ。清野美純という存在が消えてしまったのに、それがさも当たり前かの様に時を進めてしまうのだから。
僕のこの悲しみを理解できる人間が、僕の周りにはどれほど居るのだろう。
――――――――――また春が、美純と出会った季節がやってくる。
清野美純なんて、そんな人最初から居なかったとでも言いたげに、まだ冷たさが残る風が教室を吹き抜けていった。