一三
僕と高校生の恋人との関係が相変わらず良好のまま続いている間も、名城は足しげく僕のバイト先のファミレスに通った。彼女は一人で来て、フライドポテトを食べながら僕と世間話に興じる事もあれば、複数人の友人を引き連れて女子会をしただけで店を出る事もあった。
彼女は友人の居る席では滅多な事では話し掛けてこなくなった。あったとしても客として当然の注文をする程度のもので、御一人様の時に見せるような親しげな一面を敢えて隠しているらしかった。連れ立っている彼女の友人達も、最初は僕と名城の特別な関係を疑っている様子だったが、名城が背後で根回しをしたか、或いは尋常ならざるものを女の勘で察したか、はたまた興味が無くなっただけなのか、次第に露骨なちょっかいを出してこないようになった。
名城だけに限らず、彼女の友人達が、僕が第一印象で感じた程の粗野な人間でない事は、何回か顔を合わせている内に明瞭になった。彼女達は全員が全員ではないものの、僕の知らない名城の事と彼女の過去をよく知っているらしかった。少なくとも出会って一ヶ月の関係性ではなさそうだった。素人目には、彼女達は名城の事を大事にしているらしく見えた。女の子同士の交友関係に疎い僕には、内部事情を解き明かすだけの頭脳が乏しかった。従って名城本人から直接話を聞く以外に、彼女等の素性について知る機会は殆んど無かった。
名城は常連の友人について、一人一人紹介してくれた。無論僕の前で全員を横並びにして、それぞれと握手をしていった訳ではない。前述のように、彼女は友人の前で僕を見せびらかしたりはしなかった。二人で話す時にあの人は誰々で、どういう性格で、イケメンの彼氏がいるとかいないとか、そうやって情報を与えてくれたのである。僕があの人はとても綺麗な人だねと云うと、名城はあたかも自分の事を褒められたが如く鼻高々にしていた。それからきっと、「恋人がいるのにそんな事云っていいのかしら」と僕をからかった。彼女が僕の反応を見て楽しんでいる事は公然の事実だった。僕はそれに対する大いなる不満を抱いたりはしなかった。只、豪気な人だなと小さく嘆息するに尽きた。
そんな風に接している内に、僕は段々名城に対して年の離れた姉に接しているかのような錯覚を覚えるようになった。友達関係になって直ぐの事だが、僕は彼女が自分と同い年である事を知った。それは本人の口からはっきりと告知された事実で、彼女はその他にも通っている大学が私立奏和学園女子大学、略して奏女の一年生で且つ文学部である事や、出身が七泉高校である事などを語った。てっきり年上だと思い込んでいた僕は、彼女と彼女の友人達の発達具合に改めて驚嘆した。僕にとって身近な女性の代表格と云えば、ほぼ唯一挙げられるのが高校生の恋人だった。彼女は一七歳女子の平均身長と比べるとかなり小柄だったし、顔付きも何だか小学生みたいだった。話し方も僕に甘えているせいもあるだろうけれど、LINEの文章そのままの拙いものだった。彼女はIQ的には同級生より数段優れているように見受けられたが、精神的には(そこが彼女の長所でもあるのだが)、幼さを存分に残していた。僕は彼女を恋人というよりは可愛い後輩として、或いは妹かマスコットのような存在として見ていた。そんな僕には、名城とその友人が余計に大人びて見えたのであろう。
友人とか恋愛対象とか、そういった周辺の関係性を飛び越えて肉親に近い親しみを覚え始めた僕とは対称的に、名城はあくまでも僕の友人として、友人らしく振舞おうとしていた。自分から僕と高校生の恋人との関係を裂きに行こうなどという素振りはまるで見せなかった。僕はその点に於いて、彼女の心配りをひしひしと感じていた程である。彼女は時々、それをはっきりと口に出す事さえあった。
「別に、今すぐ君をどうこうしようって訳じゃないよ」
或る時、僕が高校生の恋人と付き合ったきっかけについて彼女に話した時、そこから発展した恋愛についての話の中で、彼女はこのように当座の心境を打ち明けた。
「君と恋人が上手くいっているのをわざわざ邪魔するつもりなんてないし、こうして君と話が出来るだけで充分満足しているからね」
彼女の云い方は人が違えば生意気な印象を持ったかもしれなかった。然しその時既に名城を姉御身分だと思っていた僕にはさほど気にならなかった。それよりも、彼女の言葉そのものの方が僕にとっては意味があった。
出会った時から(それは友人になった後も変わらず)、僕の意識上に彼女を満足させようという特別な気遣いはからっきしだった。無下に扱っても構わないだろうという意識も毛頭無かったが、友人以上の気配りをしたつもりは無かった。そんな僕の塩対応に彼女が満足を感じてくれているという事が、僕に意外の感をもたらした。
「そんなに楽しい話をしているかな?」
僕はオニオンリングをつまみながら訊いた。勤務中の盗み食いに対する抵抗はとっくに何処かへ行ってしまっていた。名城と友達になってからというもの、僕は日に日に体重が増えているような気がした。それが一目瞭然にならずに済んでいるのは、僕の部屋に体重計が存在していないおかげだった。
「楽しいっていうか、面白いって感じ。愉快かな。思ったより君が感情豊かだったのは、うん、面白いね」
彼女は口の端に付いたケチャップを紙ナプキンで拭いた。
「僕が感情豊か?」僕は又驚かされた。「恋人にも云われた事ないね。どちらかと云えば、静かだって云われる事の方が多いくらいなのに」
僕は一寸過去を振り返って、思い当る通りを云った。
「君は、君が思っている以上に人間味があるよ」と彼女は云った。
「別に自分が人間らしくないと思った事も無いけど、感情の起伏は人より無いんじゃないかな。敢えて顔に出さないようにするというか。他人に自分がどう思っているのか知られるのが怖いんだよ」
「うん、そういうところはあるよ。でもだからといって感情がない訳じゃない。むしろ隠そうとするくらいだから、本音は色々とあるんでしょうよ」
彼女は油の付いた指先をナプキンで綺麗にして、何か云いたそうに胸の前で腕を組んだ。
「もっと云いたい事を云ってもいいんじゃないかしら」
彼女は僕の心に残った癒えない過去の本質を見抜いているらしかった。
「それって、例えば?」
僕はもっと具体的な指摘を求めた。
「そうだなー。例えば何だろう……」
彼女は目を閉じてうんうん唸りながら答えを探っていた。僕はその隙にぐるりと店内を見渡して、元々少ない客の数に変動が無い事を確認した。時刻は閉店間近で、名城の他にはスーツ姿のサラリーマンと大学生らしき女性客が一人ずつ残るのみとなっていた。奥の厨房で食器の擦れ合う音がして、静かな店内には嫌に生活感のある人の気配が漂っていた。偶に聞こえてくる店の前を通る人々の楽しげな笑い声が、BGMの音の隙間に挟まれて大きくなったり小さくなったりした。この時間まで店に残っている人々は、誰もが何かしらの悩みを抱えているように、僕には見えた。
「やっぱり思い付かないや」と彼女は云った。「今度会う時までに考えておくね」
彼女は僕等が再び会いまみえる事を当然のように思っていた。僕もきっとそうなるだろうと、この時既に思っていた。まだ出逢ってから一ヶ月程しか経っていないにも拘らず、僕は彼女が生活の一部分になったような気がしていた。その時間は質と量の両方に於いてそれ程際立ったものではなかった筈だ。それなのに、どうして僕に彼女を受け入れる土壌が自然と出来ていたものだろうか。
僕はそれまで、名城に女性としての魅力を感じた事は無かった。彼女が通りすがる人の目を引いてしまうだけの充分な魅力を持っていた事は、当時の彼女を知っている人ならば誰しもが認める所であろう。僕とてその例外ではない。彼女の整った顔立ちや均整のとれたスタイルは平凡以上の評価に値するものがあった。然し、それが僕の本能に対して積極的に働いた事は殆んど皆無だった。
僕は彼女を冷徹に、あくまでも分析対象として折々眺めていた。彼女が放つ尋常ならざる雰囲気、俗世に埋没したあらゆる真実を見抜いてしまいそうなその超越的空気が、僕にある種の鎮静剤として効いていたのかもしれない。或いは無意識の内に彼女が背負った不幸のようなものを感じていたせいかもしれない。彼女の友人の一人が以前口にした、「可哀想な子」という言葉が腹の底に溜まっており、僕は知らない内に彼女に対して同情とか、心の寄り添いのような感情を獲得していた可能性すらある。そこまで云うと自分の良心を美化しているように聞こえるかもしれないが、僕も過敏な神経を持つ人に共通して視られる広域的な共感性を持っていた事だけは主張しておきたい。
僕は決して他者に冷淡な人間ではなかった。もっと云うと、無自覚の内に気を遣い過ぎて自分が疲れてしまう程には、他者の心の動きに敏感だった。今更云うまでもない事かもしれないが、この共感性は根源的懐疑の副産物として生み出されたものである。これが為に僕は常に余計な気苦労を背負う羽目になってしまったのだが、この共感性がプラスに働く事も無いではなかった。その代表例が名城を見る時の僕の視点に顕著に露わになっている。僕は彼女を一人の女性として見る以前に、一人の人間として視ていたのである。