一一、一二
木曜日の深夜の密会以来二日振りに対面した名城凉子は、第一印象で見る限り、僕が畏れていた程には怒っていない様子だった。そして実際に話してみて、彼女が本当に怒っていない事は直ぐに明らかとなった。
「どうして怒らないの?」
彼女の前にフライドポテトの皿を置きながら、僕は単刀直入に訊いた。
「だって、ああなったのはほとんど私の自業自得でしょ」
彼女はあっさりと答えた。言葉の端々に若干の強がりが垣間見えたような気もしたけれど、概ね本心である事は態度にはっきりと示されていた。
「恋愛なんて全部自己責任なんだから、どうなろうと私の勝手よ」
意外とサバサバした所のある彼女は、それ以上あの夜の事について触れなかった……或る一点を除いて。
「あなたあの時、必ず埋め合わせするぅ~って云ってたわよねぇ、あたくし確かに聞きましたわ。必ず、必ずって云っていました」
彼女はフライドポテトをつまみながら、ケチャップを先に少しだけ付けてそれを口に運んだ。彼女は店に現れる度に、おつまみメニューのフライドポテトやイカリングばかりを注文していた。カロリーの大きい料理を頼む機会は滅多に無かった。後で知った事だが、彼女には毎日外食をするだけの金銭的余裕は無かったのだ。彼女は只僕に会いたいが為に、僕と会う時間を確保する為だけに、バイトをする時間も惜しんでファミレスに通っていた。その結果彼女の経済状況は非常に逼迫して、僕の知らない所でかなりの節約をしていたらしい。そんな事を当時の僕は知る余地もなく、僕は彼女が小食なのか或いはダイエットでもしているのだろうと推断していた。
その日、僕は彼女のテーブルに殆んど専属シェフ並みに密着していた。連休の間、家族連れは遠出して近所のファーストフード店には足を運ばないらしく、又学生達も若さに任せてもっと街の中心部へ遊びに行った方が楽しいようで、店の中は意外にも閑散としていた。ウェイターの一人が女性客の占領するボックス席の前で立ち止っていても、誰も不審に思う者はいなかった。他の店員達も、僕と彼女の間に並々ならぬ関係が生まれている事を密かに察していた。
「ポテト、貰っても良いかな」
僕は彼女にさりげなく訊いてみた。店員としてあるまじき行為である事は分かっていた。それでも、彼女の前なら僕は気にならなかった。
「私のお願い聞いてくれるなら、いいよ」
彼女はポテトがこんもり載った皿をこちらに少しだけずらした。そして僕の答えには無関心を装うように、フリードリンクのメロンソーダをストローで啜った。
僕は何も答えない内に、彼女の目を盗んでポテトを一本だけ口に運んだ。カリッと揚がった衣から油の匂いがして、程好い塩味が口に広がった。背徳感にも似た感覚に、へその辺りがぞわぞわとした。
「お願いって、具体的に云うと?」
僕は二本目を口に運びながら彼女に訊いた。二本目には彼女に倣ってケチャップを付けた。トマトの酸味と甘みによって、ポテト本来のしょっぱさが一層際立った。
「簡単なお願い。私と友達になってほしいの」
それを聞いた時の僕の第一印象は、意外と控えめだな、だった。僕は彼女がもっと踏み込んだお願いをしてくると予想していた。出会ってからまだ四日程しか経っていなくとも、僕は彼女の非常識なまでの強引さをよく知っているつもりでいた。好意的に解釈すれば気さくで積極的。悪く云えば無神経且つ不躾な彼女の性格は、僕の前に充分過ぎる位よく発揮されていた。僕はその表向き目立つ性格ばかりに視野を狭くされて、彼女の湛える深みをまるで感知していなかった。だから僕は、彼女に心の隙を突かれたのも同然であった。
「そんな事で良いの?」
僕は思わず、彼女に訊き返した。黙っていれば楽に逃げられたにも拘らず。
「もっと激しい方が良かったかしら」と云って、彼女は悪戯な視線を僕に向けた。「なんなら黒井君の好きなようにしてあげてもいいけど」
「いや、友達でお願いします」
こうして、僕は彼女と友達になった。彼女が僕の事をどう思っているのか、本当の所はよく分からなかった。事の成り行きだけを見ていれば、如何にも彼女が僕を狙っているように見えたかもしれない。然し彼女はもっと落ち着いていた。狡猾な女性の策略だと云う者もあるだろう。気の無いように見せたり、押したり引いたりするのは当然の技巧だと。僕はその点を見破るのに充分な恋愛経験が不足していた事を認める。女性が秘めたる誘惑の手練手管を見破る程の知識は僕には無く、それを見抜けるだけの鋭い洞察力も備えていなかった。僕が有していたのは人をとことん疑う悪い神経だけだった。それすらも、高校生の恋人との交際でかなり摩耗していた。治癒されていたとも云えるが、それが全く完治していた訳ではなかった。僕はまだ、初対面のよく知りもしない相手に、それは性別を問わず、気を許す程には柔軟な心を持っていなかったのだ。だから僕は僕なりに、名城凉子の人となりを判断した筈だった。
彼女が突飛な発想で衝動的に僕を追い詰める可能性は低いように思われた。彼女は僕よりもずっと凄い人間で、僕の事を詳しく知ればきっと離れていくに違いなかった。僕は自分自身を侮り、彼女の気持ちを完全に過小評価していた。尤も、当時の僕に彼女の想いを推し量るだけの因果があろう筈もなかったのだが。
名城凉子と友達になった事について、僕は高校生の恋人に対して特別な説明を加える必要を感じなかった。もし名城凉子が一触即発な状態で僕に接近していたのだとしたら、それを黙って続ける事はそう遠くない内に困難な状況に陥っていただろう。僕は高校生の恋人に対して救援要請を申し出たかもしれなかった。自分より恋愛経験に富んでいそうな名城凉子を上手く海に帰す方法を知らなかったし、もたもたしていたら相手が強引な手法に訴える可能性もあった。その危険が無くなったのは、彼女が一先ず僕の友達というポジションに収まったからに相違なかった。友達というのであれば、僕にも女友達が数人ながらいた。彼女等とは大学で同じクラスになったというだけの関係で、殆んど同級生以上の何者でもなかった。然し友達ではないのかと聞かれたら、僕はやはり友達だと答えただろう。
そんな訳で、名城凉子はそれら影の薄い複数人が含まれる女友達のカテゴリーに仲間入りした。故に僕はそれ以降、名城凉子には友達の一人として接すれば良いと思ったし、女友達が一人増えた事をトピックスに挙げるのは馬鹿馬鹿しく思えた。恋人の嫉妬心を駆り立てて喜ぶような趣味は僕には無かった。無論殊更に隠す必要も無かったので、万が一大学での人間関係について高校生の恋人に尋ねられた時は正直に話すつもりでいた。只、自分からその話題に触れる事は決して無かった。
・・・
名城と友達になってからも、僕の一日の時間配分が大きく変わる事は無かった。僕の生活の大半は以前として退屈な大学の講義と、週三日各七時間のバイトと、高校生の恋人と連絡を取る時間が占めていた。僕は入学した当初、サークルや部活に入ろうかと色々見て回ったのだが、これぞという団体に巡り合えなかった。一つ二つ面白そうな非公認サークルはあったものの、どちらも大学院生の先輩がお山の大将よろしく後輩を支配していたので、僕は新歓コンパを少し覗いただけで烏龍茶の一杯も飲まずにその場を辞退した。
中学、高校と帰宅部を貫いていた僕には過去のしがらみも無かった。だから、大学生でいられる間はこれまで不足していた恋愛経験を補充して、快適な広い図書館の中で本に埋もれる生活を送るのも悪くないと思うようになった。高校生の恋人もその立ち居振る舞いに似合わず本好きだったので、大学にしかないような本の話をしてあげたらさぞ喜ぶだろうと、内心小さな期待を募らせていた。
彼女は一般人なら必ず知っているような常識的知識がごっそり抜け落ちている所があった。一方で、知りたいと思った事は幾らでも吸収出来るだけの優れた頭脳を持っていた。要するに、天才肌の女の子だったのだ。果たして、僕の期待は望み通りに達成された。
高校生の恋人が歴史に強い興味を持っている事は僕によく知られていた。僕は自分の進もうとする分野とは全く異なる文系の専門書もよく手に取り、そこで学んだ成果を彼女に披露した。それは直接会って話す事もあれば、電話越しに語り合う事もあった。僕が世界史や宗教について関心を持つようになったのは彼女のおかげでもある。高校生の恋人は年下ながら、僕に多くの事を教えてくれた。
僕達の間では思春期の青少年にありがちな抽象的議論が巻き起こる事もしばしばだった。彼女は歳を重ねても変わらない純粋さと膨大な偏った知識を武器に、僕に対して素朴な疑問を投げ掛けてきた。ある時には、「どうして時間は過去から未来にしか流れないの?」と云って僕を困らせた事もある。物理の話は僕にとっても全くの畑違いという訳ではなかったが、この問いの前に僕の未熟な頭脳は処理能力の限界にぶち当たった。僕は尤もらしい事を云って、彼女を納得させようと試みた。
「だって時間が逆に流れたら大変だろう。歴史が前に進まなくなっちゃう。一歩進んで一歩下がるみたいなものだから何も生まれないし、何も変化しない。時間が一方行に進まなかったら、そもそも時間なんてものが存在しないんじゃないかな」
「それはおかしいよ。時間もバネみたいに行ったり来たりすればいいだけじゃん?」
「ビデオの巻き戻しみたいに?」
「そう。誰かがスイッチを押した途端にぐるぐる~って巻き戻っちゃうの」
「もし本当にそんな事が起きるとしたら、因果関係がおかしな事になっちゃうね。普通は小指をタンスの角にぶつけてから痛いと感じるのに、痛いと感じてから小指をタンスの角にぶつける……みたいな」
「あれ、すっっごい痛いよね。……ああ、考えただけでもなんか痛くなってきた」
彼女は時間の話を忘れて、私とタンスの角と痛みについて云々し始めた。僕も難しい議論から逃れられる事にホッとして、彼女の痛かった経験談にしきりに相槌を打った。僕と高校生の恋人との間に起こる会話など、所詮この程度のありふれたものばかりだった。