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さだめ  作者: 唖ヰ路 むネん
第一話
7/14

九、一〇

 僕がその公園――通称水道公園、に入った事は一度として無かった。存在を知ったのもつい最近の事だった。然し、知り合ったばかりの人と懇意になるにはうってつけの環境が整っている事は、噂に聞いていただけでも何となく分かっていた。バイトを終えた僕が自転車のサドルに跨ってものの五分と経たない内に、道路沿いにそれらしき片鱗が見えてきた。


 僕はその公園の駐車場に自転車を停めると、石の階段を上って名城凉子が待っていると思われる園内へと重い足を運んだ。上った先には子供が走り回るのに充分な広いスペースがあって、その先に滑り台と砂場があるのが目に入った。滑り台は御椀を逆さまにしたような小山になっていて、小さい子供なら五人一緒に並んでも滑れる位幅の広い滑り面があった。見渡す限り公園内に照明は殆んど無く、隅の方に頼りない街灯が二、三本立っているだけで、あとはトイレらしき建物の壁に明かりが二つ点いているだけだった。僕は薄明りの中に人影が無いか、目を凝らして探した。


 奥の方へ進んで行くと、砂場の向こうに正方形の池があって、それを囲うようにしてコの字型の藤棚があった。暗いのでよく見えなかったが、匂いから察するに、藤の花が咲いて見頃を迎えているらしかった。水蓮が浮かぶ池の中を覗くと、濁った水の下に鮮やかな錦鯉の色影が微かに揺らめいた。藤棚の下にある空のベンチを見て、僕は首を傾げた。名城凉子が待っているとしたらきっとここを選ぶ筈なのに……彼女はまだ来ていないのだろうか。


 冷たい感触を尻に感じながら、僕は夕方の店で見た時の彼女の姿を思い浮かべた。あれから六時間以上経過しているが、その間彼女は何をして過ごしたのだろうか。あの時間から大学の講義があったとは考えにくいので、自宅に戻って適当に時間を潰していたと考えるのが妥当か。彼女が暇つぶしにするとしたら、どんな趣味が彼女らしいだろう。音楽系か。意外と文学女子だったりして。まあ、あり得ないけど。当然、夕食を食べたり入浴したりといった事も済ませているのだろう。だとしたら、ひょっとしたら寝巻のままやって来たりする可能性もあるという事か……。いや、待てよ。ひょっとしたら、ひょっとすると、もう寝てしまった可能性すらあるのではないか。彼女は今頃布団の中でぐっすりエンドか? それならそれで別に構わないのだが……。僕はこんな風に、名城凉子についてのあれこれを妄想していた。


 僕はおもむろにスマートフォンを取り出すと、LINEを開いて高校生の恋人へメッセージを送った。


『昨日はごめんね。今日はちゃんとバイト終わりに連絡したよ。今何してる?』


 返事は直ぐに来た。


『ちゃんと言いつけを守ってエラい! ウチは今、モーレツに感動しているのです!』

「ぷははっ、犬かよ。しかも大袈裟だし」


 僕は一人で噴き出した。


『ウチは今、宿題を終わらせてマンガを読んでいるところなのです』

『最近新刊が出たのにかばんに入れたまま読むのを忘れていたのです』

『てへぺろっ!(スタンプ)』


「ああ、君らしいね」


『マサト君は今、何していますか??』


 僕はどのように返事をすれば良いか、迷った。本当の事を伝えるのが彼女の為になるのか、それとも……でも僕の中に邪な気持ちが無いのは僕自身が一番良く分かっていて、それは絶対に保証できるものであって、しかも彼女にこれを伝える術はないのであって……。


 僕には何が正しい選択なのか、判断出来なくなっていた。そして、彼女との間に横たわる一〇〇キロの隔たりを忌々しく思った。直ぐ近くにいれば何も悩む事なんて無いのにと、その時の僕は本気で信じていた。


「あー、もう分からんッ!」


 僕は目の前の池にスマホを投げ入れて、鯉の餌にしてしまいたい衝動に駆られた。


「何が分からないの」


その声は突然、後ろから聞こえた。


「うわあッ! 吃驚した!」


 振り返ると、そこにはモコモコの黒いハイネックに、昼間のとは違う白いカーディガンを身に付けた名城凉子の姿があった。しかも上半身は割と普通なのに、ズボンは赤いラインの入った黒色のジャージだった。そのような上下不均衡は、僕にとって初めて見る類いの不思議な組み合わせだった。


「いきなり驚かせるなよ」と僕が云った。

「いきなりじゃなきゃ驚かないでしょ」と彼女も云った。

「屁理屈云うな」と又僕が云った。

「で、何が分からないの」


 彼女は僕の隣にずけずけと座ってくると、目聡く手に持っているスマートフォンを見つけた。


「あ、分かった。彼女にメールしてるんでしょ」

「メールじゃない、LINEだ」

「どっちだっておんなじよ」


 彼女は僕の手から一瞬でスマホを奪い取ると、プライベートな領域に土足で踏み込んで来た。そうして勝手に見るものだけ見ると、「ふーん、ヘンな娘だね」と云った。


「君だけには絶対に云われたくないけどね、その言葉」


 僕は直ぐに反撃した。


「で、何が分からなくて、そんなに頭抱えていたわけ」


 僕は彼女の手からスマホを取り返すと、「君には関係ない事だ」と云った。そんな僕の言葉など耳にも入っていない様子で、彼女は「待って、今当てるから」と一人で話を続けた。


「今何しているのかって訊かれて、どう返事をすればいいのか迷ってたんでしょ」


 う、図星かよ。


「アハハッ、分かり易!」


 彼女はベンチから滑り落ちそうになる程声を上げて笑った。ケタケタと、さぞかし愉快そうに。


「近所迷惑だろ、静かにしろよ」と僕が云った。

「大丈夫だって。みんなまだ寝てないから」と彼女が涙を拭きながら云った。


 そういう問題じゃないだろう、と僕は心の中で突っ込んだ。


「正直に云った方がいいんじゃないの~。その彼女、怒ると面倒臭そうだし」


 あとでばれたら大変だよ~と彼女が云った。


「何て云えば良いんだよ」

「それは自分で考えなきゃ」


 彼女は余裕しゃくしゃくの表情で足を組み、背もたれに寄り掛かりながら、フンフン鼻歌を鳴らしていた。お手並み拝見だわよとでも云いたげな感じであった。


                ・・・


「まったく、誰のせいでこうなったと……」


 僕は一生懸命頭を働かせて考えた。嘘を吐かず、それでいて彼女に変な疑いを持たれないための口実とは……。僕があんまりもたついているせいで、高校生の恋人から催促のメッセージが届いた。


『マサト君だいじょうぶ~?』

『もしかしてもう寝ちゃいましたか?』


 ヤバい、ヤバい。どうしよう。


『おフロにでも入ったのでしょうか……?』


 僕は腹を括り、一文字一文字に細心の注意を払いながら思い切ってリプライを送った。


『ゴメンゴメン、ちょっとスマホが手元から離れていてさ』


 ここまでは良いだろう。


『実は今、バイト先の近くにある公園にいるんだ』


 ここからはより一層神経を尖らせなければならない。僕は一回大きく息を吸うと、それを短く吐き出して、それから唾を呑み込んだ。


『バイトの先輩に錦鯉のいる池がある公園があるって聞いてさ』


 しくった……いるとかあるとか多過ぎた。


『凄いよね、こんな街中に錦鯉がいるなんてさ』

『ほへーそれはスゴイねぇ』


 よしよし、怪しまれていないぞ。


『だろ? で、実際に来てみたんだけど。ほら、これ見てみ』


 僕はカメラを黒い水面に向けて、写真写りの良さそうな、泳いでいる錦鯉を探した。然し、流石の鯉も夜になると寝てしまうのか、なかなか姿を現してくれない。活動度が落ちているのは明白で、緑色に濁った池の底で僅かに紅白の鱗を透かしているだけだった。ええい、これ以上待ってはおられん。僕はそれでもと思って、せめて味気なくとも水蓮の葉が二、三枚写るように画角を調整しながら、主役のいない殺伐とした池にシャッターを切った。自動でフラッシュが焚かれて水面が一瞬だけ光ったが、その奥にいる筈の美しい錦鯉の姿はとうとう写真には収められなかった。


『(池の写真)』

『ごめん。鯉は寝ているみたいで全然写らなかった。ホントごめんね』

『え~コイってねるの?』

『多分寝ると思うよ。マグロは泳ぎ続けないと死んじゃうから、泳いだまま寝るって聞いたことあるし』


 鯉だって寝るんじゃない、と僕はコメントを付け加えた。


『ウチ、魚がねるなんて考えたこともなかった』


 マサト君物知りだね、と彼女が一言付け加えた。


『もう遅いし、これから直ぐアパートに帰ります』と僕は返した。会話の切れ目を狙って、間髪入れずに言葉を紡いだ。これ以上話が続かないように、ここで一旦切り上げようとした。『また後で連絡する』

『ウチ、了解しました~』


 彼女の最後のメッセージを確認し、僕は漸くがちがちに固まっていた肩の力を抜いた。この場合、それは寧ろ抜けたと云うべきか。肘と膝が完全にくっ付いてしまった僕の隣で、名城凉子が又一人にやにやと下品な笑みを浮かべているのが、嫌になる程はっきりと伝わってきた。


「で、どうだった」


 彼女は存外平気な調子で尋ねた。それでもやはり堪え切れなかったものと思われて、最後に小さくフッと空気の抜けたような音を出した。


「嫌な気分だよ、まったく」と僕は云った。

「なに、本当のこと話しちゃったわけ」


 彼女の口調からは驚きを通り越して、軽蔑すら感じられた。


「あんた、馬鹿だね~」と彼女は云った。

「勿論、君の事なんて云ってないよ。云える訳無いだろ、そんなの」

「じゃあ、なんでそんなに落ち込んでいるのよ。上手く誤魔化したんでしょ。ならいいじゃない」


 誤魔化した。彼女にそう云われて、僕はほんの数秒前に自分が何をしでかしたのかを思い知らされた。自分が高校生の恋人にしてしまった事がどういう事なのか。それがどのような意味を持っているのか。今更ながら、僕にはその言葉の意味がとんでもない大罪の如く思えてきた。実行する前は誰も傷付かない最善の選択だと思っていた筈なのに、遣った後には同じ行為が愛すべき人への重大な裏切り行為としか思われなくなった。


「帰らなきゃ……」


 僕は跳ねるようにしてベンチから立ち上がると、即座に反転して公園の入り口目掛けて走り出した。そして突然の出来事に反応し損ねた名城凉子を置き去りにして、脇目も振らずぐんぐん加速していった。


「ねえ、ちょっとドコ行くの!?」


 肩越しに、彼女の慌て声が飛んで来た。


「一刻も早く帰らなきゃいけない!」と僕は叫んだ。「これ以上嘘は吐けない!」


 僕はその時少しだけ悪い事をしたなと思ったが、ぶっちゃけると、名城凉子に構っている余裕など無かった。ちくちくする良心の傷みを抑えながら、出来るだけ大きな声で彼女にさよならを伝えた。


「いつか必ず埋め合わせするから!」


 彼女も何か云っているらしかったが、焦っている僕の耳には届かなかった。


 唐突な二人の別れは、こちらが一方的に押し付ける形になってしまった。彼女はもう二度と、僕の前に姿を現さないだろうか。そうかもしれない、と僕は思った。女の子が夜の公園に独りほったらかしにされて怒らない道理は無かった。たとえそれが自分から恋人のいる相手に、無理やり約束を取り付けた末の結末にしても。


 僕はこの件に関して、一切の言い訳をするつもりが無い。履行出来ない約束など最初からするべきでないという批判は尤もだし、そもそも恋人がいる癖に他の女と会ってんじゃねーよと云うお叱りの言葉には、只々頭を垂れる他に無い。僕はその位の事を平気でしてしまう人間だった。しかも無知や悪意からではなく、色々と考えた上で、やっぱりそうしてしまう人間だったのだ。これはもう人間性の根幹からそうなっているのだから、そういう性分だと思って諦めるしかない。駄目だと云われても、大人しく謝罪するか、そうでなければ開き直って逆ギレするしか道は残されていないのである。僕は喧嘩が好きではないので、大人しく謝罪する方を選ぶ。


 こうして、その日の夜は名城凉子を犠牲にした事で、僕と高校生の恋人との関係は事無きを得た訳であるが、ある意味僕はその為に非常に大きな代償を払ったのだと云って良い。非常に厄介な事だが、それは幽霊お化けの類いよりも余程恐ろしい女の恨みを買う羽目になったという事なのである。しかもその相手は、何故か僕に異様な迄の執着を見せていた女である。これで何も起きない筈が無かったのだ。僕には翌日から続いた空白の時間が、嵐の前の静けさとしか思われなかった。彼女があのまま引き下がるとは到底思えなかった。最初は予感に過ぎなかったものは、時間を追うごとに確信へと変わっていった。そして公園での夜から二日が経った、その週の土曜日。遂に彼女が三度、僕の前に現れたのである。その話をする前にちょっとだけ、金曜日の夜に起きた奇妙な事件について触れておかなければならない。


 その週は丁度ゴールデンウィークの真最中だったので、木曜日と金曜日は休日になっていた。出来れば木曜日からの四連休の間ずっと、地元に戻って恋人との時間を満喫したかった僕であったが、不運にも土曜日にシフトが入っていた為、木金の二日間しか実家に帰る事が叶わなかった。それでも、高校生の恋人と過ごしている間、僕は名城凉子の事をすっかり忘れてしまう程に二人だけの時間を楽しんだ。そんな短くも充実した休日があっという間に過ぎ去り、あれよ、あれよと云う間に一人暮らしのアパートに戻ってきた僕の元に、一つの郵便が届いた。送り主は母だった。引っ越しをする時によく使うような大きなサイズのダンボール箱で、とても重かった。中には沢山の医学書と大金(一〇〇〇万円)が入っていた。それを見た僕は急いで実家に電話したが、母はそんなもの知らないと云った。もしやと思ったが、やはり父も知らなかった。僕は家族と相談して、それを警察に届ける事にした。


 それから三ヶ月後、期限を過ぎても送り主が現れなかった為、所得税やら住民税やら諸々の税金がバイトの給料分と合わせて一〇〇万円前後引かれ、残りの凡そ九〇〇万円は、僕の口座に収まった。


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