一
今になって思えば、彼女は初対面の時から随分馴れ馴れしい態度だった。
彼女と出会ったのは初夏を目前に控え、辛うじて残っている春の空気に侘しさを感じた、五月の始め。アルバイト先のファミレスで、勤務中の出来事だった。長いようで短かった高校生活が終わり、大学生になってから地方の中核都市で一人暮らしを始めた僕にとって、その頃は漸く新しい街での生活に慣れて、バイトにも精が出てきた時分であった。
それまで月給を稼ぐ必要の無い気楽な学生生活を送ってきただけあって、人生初のバイトは悪戦苦闘しながらの就業となった。最初の頃は接客の手順や店のシステムに慣れるだけで精一杯で、簡単なミスを犯して店長に叱責される度に落ち込んだ。どうしてこんな職場を選んだのかと自分を責める日もあった。けれど人間というのは凄いもので、何でもそこそこ頑張って遣っていればその内慣れてくる。時間が解決するとは正にこの事で、僕は段々仕事を楽しみながら遣れるようになった。
割と順調に新人としての階段を上っていった僕であるが、その時の僕に何か足りないものがあったとしたら、それはおかしな客への対応の経験だった。恵まれていた僕は、クレーマーといった類いの客とは無縁な接客経験ばかりを積んでいた。だから彼女との出会いは、僕にとって全くの想定外であった。
その日の僕はいつもと同じようにウェイターとして、学生で賑わう店の中を忙しく走り回っていた。学校が終わる時間になると徐々に増え始める、同じような制服を着た中高生のグループが競い合うようにしてボックス席を埋め始め、店内には下品な馬鹿笑いやヤジが飛び交うようになる。それらの弾道をかわしながら、注文された料理や飲み物をトレーに乗せて運び、厨房とフロアを何度も往復する。僕はその作業の余りにも機械的過ぎる工程に、半ば中毒症状を呈していた。これはウェイターの仕事に限った現象ではなく、ある種の単純作業には付き物の所謂バイトハイである。そんな言葉が実際にあるのかどうかは知らないが、調べるのは皆さんにお任せしておこう。この世にはグーグル先生という偉大な方がおられるのだから。
店に入って来た時、彼女も又他の客と大して変わらない装いをしていた。ただ、彼女が中高生でない事は傍から見ただけでも何となく分かった。彼女とその三人の友人は平日にも拘らず私服を着ており、中には耳にピアスを開けている者もいた。化粧の濃さも高校生とは一段レベルが違っていた。その時点では、僕は彼女に何ら特別な所を認めなかった。ありふれた客の一人として、席の案内から注文の仕方の提示までマニュアル通りに進めた。煌びやかな彼女達は僕と同じ年代に思われたが、僕は客と店員の関係からその先を想像する程には世慣れていなかった。だから、僕等の関係はそのままそこで終わる筈だった。ところが――向こうはずっと前からこちらに狙いを定めていたのである。憐れな獲物は背後まで危険が迫っている事に、まだ全く気が付いていなかった。
「では、どうぞごゆっくり」
一礼して下がろうとした僕に声を掛ける者がいた。それが即ち彼女であった。
「ねえ、君の名前なんていうの」
その時、僕は初めて彼女を一人の存在として認識した。それまで風景の中の或る人物に過ぎなかった彼女が、鮮やかな色彩を持って浮かび上がった。彼女は明るい茶色に染めたセミロングの髪を持っていた。服装は首筋から肩にかけて露わになったオフショルダーニットにデニムスカートという出で立ちであった。
「はい?」
僕は動きを止めて様子を窺った。彼女の言葉が自分に向けたものであると確信が持てなかったからだ。
「君だよ、きーみ。名前なんていうの」
彼女の視線は確かに僕を一直線に貫いていた。
「名前……でしょうか?」
「そう、名前」
一緒に居る彼女の友人達も面白そうに成り行きを観察していた。そんな彼女等の前で僕が自分の名前をつまびらかにするいわれは何処にも無かった。僕は一瞬躊躇して、結局別にどうでもいいやと思った。
「黒井と云います」
何故ですと訊く必要性を僕は感じなかった。彼女は「ふーん」と云って、何か意味ありげな表情を浮かべていた。
「私、なきりょうこっていうの」
「はあ……そうですか」
彼女の顔を見ながら、以前何処かで会ったかなと回想してみたが、別段心当たりは無かった。きっと初めて会う人で間違いないだろう、と僕は思った。こういう時、相手が覚えているのに自分だけ忘れていたら大変気まずい思いをしてしまうので、僕はかなり気を遣った。
「ご用件は以上でしょうか?」
「まだあるの」と彼女が云った。「私と連絡先の交換、してくれない」
続いて彼女の友人が一斉にヒューヒューと云った。僕はその有無を云わせぬ口調の前に尻込みした。向こうは最初から断られる事など想定していない、そういう聞き方だったのだ。どうしていきなりそんな話になるのか、僕は理解できなかった。
「連絡先とは……?」
「何でもいいけど。そうだなー、LINEにしよっか」
彼女は僕の前にLINEの画面を出して迫って来た。無言の圧力が三秒程続き、僕はその間真っ直ぐ彼女の目を見つめていた。
「お客様、大変申し訳ありません。当店ではそのような行為は禁止されておりまして」
僕は深々と頭を下げながら、思い付いた事を口から出まかせに云った。
「申し訳ございません」
彼女は答えなかった。友人達も何も云わなかった。僕も何か反応があるまで頭を上げる訳にはいかなかった。だからずっと、相手が納得するまで、そうしようと思っていた。
「ねえ、黒井君」
彼女は最初と同じ呼び掛けで、然し今度は落ち着いた口調で話し始めた。
「私は君が連絡先を交換してくれるまで帰らないよ。バイト中が駄目だって云うなら、バイトが終わるまで待つ。でもそれは出来ればしたくない、面倒だから。でもホントにするよ、いざとなったら。だから今すぐ交換して」
彼女の論理は破綻していた。まるで説得力を欠いていた。でもそこまで云われたらこちらも何か説明しなければいけないような気分になった。或いはそれは彼女の策略だったかも知れない。僕はどうして彼女がこんなにぐいぐい来るのか、その理由を知りたいと思った。
「すみません。僕には恋人がいるんです」
その先は云わなくても伝わる筈だった。僕は黙然としていた。
「あっそう。それで」
彼女は依然としてスマートフォンの画面を構えたままだった。それがどうかしたの、とでも云いたげな表情だった。
「ですから、恋人がいるので、そういうのはちょっと……」
「どうして。別に付き合ってくれって云ってる訳じゃないよ。ただ連絡先を交換してほしいだけ」
確かにそうだ。彼女は連絡先を知りたがっているだけで、僕の事をどう思っているとか、そんな話は一切していない。でも、――僕はとうとう核心に突っ込まなければならなくなった。
「どうして僕の連絡先を知りたいんですか?」
その頃にはもう彼女が余りにもしつこく食い下がるものだから、周りの三人も若干引き気味になっていた。中には「もう諦めなって」と云ってこっそり諭す者もあった位だ。彼女はそんな周りの静止をまるで意に介していない様子だった。僕と二人だけの世界に入っている、そんな感じだった。
「理由なんかない。ただ知りたいと思ったから」と彼女は云った。
さっきまでは穏やかだった口調に、少しだけ熱が篭っていた。僕はそれを聞いて「はい、そうですか」と云う訳にはいかなかった。おいそれと連絡先を交換する訳には尚の事いかなかった。当時の心境を率直に打ち明けてしまえば、恋愛に節操が無さそうな彼女の風貌や彼女の友人達は僕の好みではなかったし(むしろ高校時代には彼女の様な同級生とはなるべく関わらないようにしてきた)、何より僕には遠距離恋愛をしている恋人が「本当に」いた。恋人はまだ高校二年生で、二人の距離は一〇〇キロほど離れていたが、僕達の関係は比較的上手くいっていた。引っ越してからも、毎週末は僕が地元に帰ったり、二人の中間の街でデートしたりしていた。だから僕は彼女の申し出を断らなければならなかった、なんとしても。
「そんな理由で交換する事は出来ません」
僕はもう、自分がファミレスの店員で相手がお客様の立場である事を忘れていた。
「幾ら悪気が無いと云っても、恋人がいる身で他の女の子と連絡先を交換するなんてあり得ません」
僕の主張は正論には違いなかった。でも、この場でそれを云う事が果たして適切であるかどうかは又別の問題だった。
「恋人の事なんかどうでもいいでしょ!」
彼女は店内で口にするにはあまりに大きすぎる声で、顔を真っ赤にしながらそう叫んだ。叫んだなり立ち上がると、僕の前にずいと近寄り、僕の胸に向けて自分のスマートフォンを押し付けた。実際の感覚では叩き付けた!といった風な感じだったが。
「これ、絶対なくさないでね!」
彼女は背の高い僕を自然と見上げながらそう云った。僕は呆気に取られて、彼女の林檎の様な顔を只々見つめているばかりだった。彼女は興味津々といった様子の他の客達の視線を一身に受け止めながら、それに構う事なくずんずん店の入り口の方へと進んで行った。彼女は三人の友人とスマートフォンを残して何処かへ行ってしまった。
「お兄さんも大変だね~」
そう云ったのは彼女の友人の一人だった。店内の客は既に自分達の関心事へと注意を戻していた。店の奥からは騒ぎを聞きつけた店長がやって来て、僕に事情を聞いた。何と答えれば良いか迷っていたら、彼女の友人達が適当に嘘を吐いて僕のミスではないかのように取り計らってくれた。彼女達はその場で各々食べたい物を決めてオーダーすると、最初から三人しかいなかったみたいに普通に会話し始めた。店長が奥に引っ込んでから、僕はスマートフォンをその中の誰かに渡すべきかどうか思案した。
「これ、返します」
通路側に座っていた、髪の長い綺麗な子に差し出すと、
「どうして私に返すの? あなたが渡されたものでしょう」
と云って取り合ってくれなかった。僕は仕方なく、そのスマートフォンを暫くの間預かる事にした。お辞儀をして席を離れようとした際に、
「あの娘可哀想な子だから、気を遣ってあげて」
と云う声が聞こえた。僕はそれが誰の声だったのか判別出来なかった。もう一度深々と頭を下げてから、その場を後にした。