【第5話】茅ヶ崎日笠と真鶴茉夏
「そんなのあるわけないじゃん」
なかった。
真鶴茉夏は、僕の横で楽しげに笑う。
職員室に書類を提出した後、僕たちは本当に、一緒に下校することになった。
彼女の家は、電車で二駅行ったところにあるらしい──対する僕は、自転車通学をしていて、学校までは十五分とかからない。
通学方法は違うけれど、僕も駅の付近を通って通学しているので、駅までは一緒だ。
学校から駅までは徒歩十分くらい。
彼女が歩きなので、僕も自転車を押して歩いている。
しかし、二駅くらいなら、駅と学校の距離を考えると自転車の方が早い気がするけれど。
「私、自転車乗れないから」
「え、そうなの?」
意外な事実。
「子どもの頃からマンション住まいだったし、周りは住宅街だったから、遊びに行く時に自転車いらなかったんだよね」
「じゃあもしかして、乗ったこともない?」
「ううん、高校は自転車で通ってみようかなと思って、乗ってみたんだけど、あれって、少年少女時代を過ぎて初めて乗ると、案外難しいんだよ」
小中高と自転車を相棒にしてきた僕にはわからないことだったけれど、なるほど、基本的に自転車というのは、幼少期に一度乗れてしまえば身体が覚えるから、高校生になって初めて乗るというのは、難しいものなのかもしれない。
「だから出かけるときはいつも歩きか電車。めんどくさいから早く免許欲しいんだよね」
もう運転免許のことを考えてるのか。
彼女が車を運転している姿は、少し想像できないけれど、運転はうまそうだ。
成績優秀だし、試験も簡単に受かるだろう。
「免許取ったら、乗せてあげるね」
「楽しみにしてる」
ドライブデートに誘われてしまったぜ。
言質とったからね。
同じ委員会に入って、ペアの役員になって、ドライブの約束をして──なんだか夢のまた夢というか、ありえないと思っていたことが立て続けに起こっていて、もはや恐ろしいな。
僕、明日死ぬんじゃないかな。
「あのさ」
そこでふと、この一連の流れの根本を、彼女に訪ねてみることにした。
「どうして学級委員になったの?」
彼女──真鶴茉夏が学級委員会に入った理由。
彼女が学級委員会に入らなければ、僕も入ることはなかった──彼女とこうして話すこともなかった。
そんな立て続けに起こった奇跡を、奇跡のままにしておきたくないと思ってしまった。
「そうだなあ」
彼女は立ち止まって、空を見上げた。
僕も二歩先で立ち止まる。
今まで歩いてきた長い一本道と、その背景にゆらめく青の空と橙の夕日、そして──真鶴茉夏。
「誰も手を挙げなかったから」
「え?」
「誰も立候補しなかったから、じゃあ私がやろうかなって」
あまりに、理由として不完全だ。
不純とも言える。
『誰もやらないなら私がやる』。
それはつまり、『やりたくなかったけど仕方がないからやる』ということと、同じじゃないのか。
「違うよ──やりたくなかったわけじゃない。そんなことを言ったら、誰だって、どんな委員会だってやりたくないんじゃないかな。あのままだと、話し合いは進まないし、私がやらなかったら、きっと他の誰かが──やりたくなかった他の誰かが、学級委員になってたから」
「そんな、自己犠牲みたいなので──」
「いいんだよ」
僕の言葉を遮って、彼女は歩き出す。
「なんでもよかったの」
今度は僕の二歩手前で、彼女はそう言った。
その横顔は、僕の見たことのない──きっと、誰も見たことのない、寂寥感。
そんな彼女を、僕は──美しいと思った。
そのまま彼女は、駅の入口へと向かっていく。
「歩かせちゃってごめんね、自転車あるのに」
「ううん」
「それと、これからよろしく、芽ヶ崎くん」
そうだ。
僕はまだ、真鶴茉夏のことを何も知らない。
彼女の思いも、彼女の表情の意味も。
今まで、ただ眺めることしかできなかった彼女の、その心に触れて、僕は彼女に惹かれたんだ。
可愛いからじゃない。
美しいからじゃない。
不完全だから。
今日一日、彼女と関わったことで、真鶴茉夏という一人の人間が、完全でないことを知った。
可愛いだけじゃない。
美しいだけじゃない。
その不完全さを、僕はもっと知りたいと思った。
最低かな。
人の悪いところを、人の弱いところを知りたいなんて。
でも──それが友達ってやつだろ。
だったらまずは、自己紹介をしよう。
彼女のことを知るために、彼女にも、僕のことを知ってもらおう。
「俺の名前、茅ヶ崎だよ──茅ヶ崎日笠」
これでようやく、正しい名前で呼んでもらえそうだ。
僕もちゃんと、君の名前を呼ぶよ。
「よろしく、真鶴」