天井のシミ
独り暮らしのアパートの天井に、そのシミが現れたのは、1週間くらい前のことだ。
天井を含め、白い壁紙に覆われた1DKは、築5年にしては家賃も破格で、立地も悪くない。
私は不動産屋の店舗で、即、入居契約した。
2年前、大学進学を機に、県内の地方都市から、人口80万超の政令指定都市に引っ越してきた。
生活圏の規模が、10倍くらい広がり、私は学業もソコソコに、バイトや恋に忙しかった。
だから、その褐色のシミに気がついたのも、だいたい1週間くらい前、という程度で、正確な出現時期は、はっきりしない。
「……だから、こまめに掃除してたら気がつくものじゃないの?」
バイト仲間のユウコが呆れたように、天井を見上げた。
身長176cmを自慢にしているモデル体型の彼女は、私より至近距離でシミの正体を探った。
「どうも、上の部屋から染み出している訳じゃないみたいだよ?」
指先で擦ってみるものの、彼女の指が染まるでもない。
「やめてよー、不気味!」
気づいた時には、直径5cmくらいだった。
何か付いてるなー、と思って2、3日過ぎたら、シミは3倍くらいに広がっていた。
「あんた、何か吹き掛けたんじゃない?」
「まさか! だったら、心当たりあるから、ユウちゃん呼ばないって」
そうだよねぇ……、と私の言葉に納得している彼女は、バイト先では霊感が強いことで知られていた。
「……とにかく、霊的な感じはないよ」
「ありがとー!! 今晩から安心して寝られるー!!」
目の前の細腰に抱きつく。
「きゃっ? ちょっと、やめてよー!」
脚立代わりの古雑誌の束から飛び降りて、ユウコは軽く睨んだ。
「ユウちゃん、また痩せた?」
「うーん、レポートで徹夜したからかなー?」
「徹夜? 若いわー」
人知の及ばないアレやコレやの心配が消えたことで、すっかり晴れやかな気分だ。
「……それより。約束のご飯、行こうよ」
シミ(霊)鑑定の交換条件は、イタリアンのランチだった。
最近、駅周辺の再開発で建った商業ビル内にできた、話題のお店だ。
「了解、了解! ユウちゃんの食べたいものおごるよっ」
彼女の背中をポンポンと叩いて、私たちはアパートを出た。
-*-*-*-
その夜もバイトを終えて帰宅した私は、部屋の灯りを付けると、まっすぐカウチに倒れ込んだ。
「あー……今日も疲れたー」
ちょうど見上げた先の天井に、あのシミがある。
「ほんと……何なのよぉ……」
昼間見た時より、幾分大きく感じるのは、気のせいだろうか……?
ここ数日抱いていた不気味な不安がなくなると、単に目障りな汚れだ。
ユウコの言うように内側から付いている汚れなら、落とすことができるだろう。
そのうち、ホームセンターに行こうかな……。
私は考えながら、いつの間にかカウチで寝てしまった。
-*-*-*-
「……うそ……何で!?」
それから10日くらい経って、私は天井のシミの数が増えていることに気が付いた。
どう考えても不可解なシミは、窓枠の上の壁と天井の境目辺りから、じわじわと現れていた。
この部屋が気に入って、暮らし始めて2年余り。
大学在学中は、引っ越す予定はなかったのだが、不愉快なシミが消えないようなら、考え直す必要があるかもしれない。
バイトの給料が振り込まれた翌日、呑気な私も、さすがにホームセンターに足を運んだ。
「シミ、と言っても成分によって違うんですよねー」
制服を着たイケメンのお兄さんは、いくつかのハウスクリーニング用の洗剤を前に首をひねった。
「赤茶色っていうか、濃い目の茶色っぽい汚れなんですー」
「うーん。実際に見てみないとわからないですねぇ」
「困ったなぁ……」
お兄さんが見に来てくれたらいいのに……、と心の中だけで付け加える。
「とりあえず、コレとコレ……一番よく使われる洗剤なので、使ってみてダメなら、一度専門の業者さんに頼んでみたらいいですよ」
勧められるまま、洗剤を2種類とブラシとスポンジとバケツ、この際ついでに脚立も買って、明日の午後、配達してもらうことにした。
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翌日。
密かに抱いていた淡い期待は見事に裏切られ、配達に来たのは、中年も終わろうかという50代後半のオヤジだった。
私は不機嫌な顔で手早くサインすると、掃除道具を受け取った。
「さぁーて……」
面倒くさい。
でも、こんな出費をしてしまった以上、とりかからない訳にもいかない。
覚悟を決めて、窓を開ける。
まずは、換気確保だ。
ベランダの下の通りに、見覚えある白いワゴン車が止まっている。
管理会社の車だ。
恐らく共用部分の掃除に来たのだろう。
仕方ない。こっちも、始めるかぁ……。
ため息をひとつ付いてから、風呂掃除用のゴム手袋をはめる。
それから、花粉対策用のマスクをつけた。
『激落!!』というパッケージの謳い文句を頼って、まずは黄色いプラスチックの容器に入った洗剤を手に取った。
窓枠の上のシミ目掛けて、洗剤を吹きかける。
白い泡がシュワシュワしている内に、ブラシで力任せに擦ってみた。
「しぶといなー」
15分ほど格闘するも、頑固なシミはびくともしない。
洗剤を混ぜるのが怖かったので、私は脚立を降りると、水色のポンプ式の容器を手に、部屋の中央付近のシミに狙いをつけた。
ツン、とする漂白剤のような匂いに顔をしかめながら、スポンジでゴシゴシ擦る。
根気のない私にしては珍しく、本気で格闘したのだが……結局、どちらのシミも変化はなかった。
「……もー! やーめーたー!!」
異臭に包まれた室内で、床に倒れ込む。
2ヶ所のシミは、汗だくになった私をふてぶてしく見下ろしているようだ。
普段使わない筋肉を酷使したので、二の腕やら脇腹やら首筋がパンパンになった。
ゴム手袋を脱ぎ捨てると、スマホでハウスクリーニング業者を検索してみる。
……ある、ある。
意外と需要があるのか、市内の業者がすぐに10社近く見つかった。
相場は、50㎡で6万円。
このアパートは、だいたい30㎡くらいだから、4万円くらいだろうか。
「げー、ムリムリ!」
早々に諦めて、スマホを閉じる。
夕方の涼しい風が吹き込んできた。
このままにしておく訳にもいかず、やれやれと腰を上げる。
バケツに水を入れて、天井の洗剤を洗い落とし、雑巾で水気を拭いた。
漂白剤の匂いは少し残ったが、とりあえず収拾はついた。
残照が消え、室内がモノトーンに染まっていく。
貴重な休日を無駄遣いしてしまったみたいで、なんとも空しい気持ちになった。
-*-*-*-
「……それで? あのシミ、まだ消えないの?」
バイト先の休憩室で、制服に着替えながらユウコが聞いてきた。
「消えるどころか、ますます広がって、数も増えちゃって……」
私はロッカーに備え付けの鏡で、前髪を直しつつ答える。
「ええ!?」
驚くのも無理はない。
彼女に見に来てもらってから、ひと月くらいになる。
「もういいの。もう考えないようにしてる」
「考えないように、って……」
「そのうち引っ越すの。だから、その時、管理会社に相談することにしたんだ」
「――えっ、澤田さん、引っ越すって?」
「あ、店長」
夕方の繁忙時間が過ぎ、食事休憩に来た店長が、目を丸くしている。
「どうしたの? 今の部屋、気に入ってるって自慢してたじゃない」
「……ええ……それが……――」
成り行きで、私は天井のシミのことを話した。
「なんだろうね、それ。ちゃんと専門の業者に見てもらったら?」
店長は、まかないのホットサンドを呑み込むと、眉をひそめた。
「いやー、無理ですよ。高くって」
「そうなんだ。でもそういうのって、引っ越しの時に管理会社にリフォーム代とか請求されたりするんじゃないの?」
「えーっ!」
私とユウコは絶妙にハモる。
「原状回復がなんとか…? あたしの後輩に住宅トラブル詳しいヤツがいるから、聞いてみよっか?」
「いいんですかー?」
店長の人脈の広さには、いつも驚かされてばかりだ。
伊達に30代半ばの女性の身で、市内中心部にカフェを2つ経営している訳ではない。
「いいよー、管理会社にはまだ言うんじゃないよ?」
「ありがとうございます、店長!」
彼女の姉御気質は、本当に頼り甲斐があった。
そして、そんな温かな人柄は、私の尊敬の的だ。
「はい、それじゃ二人とも早番と交代ね」
「はぁい」
私に釣られてユウコも笑顔で頭を下げ、休憩室を後にした。
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それから1週間。
店長の知人が、バイト先のカフェに直接来てくれているとのメールを受け、私は大学から急いで職場に向かった。
「――で、今はどんな具合なの?」
店長から紹介された前嶋さんという男性は、【住宅アドバイザー】という肩書の名刺をくれた。
30代前半とおぼしき彼は、短髪にアゴ髭を短く生やし、シンプルなグレーのシャツに黒いジャケットを着ていた。
素早く左右の薬指を確認して、心の中でピースする。
……ちょっと好みのタイプだ。
「はい、ますます広がって……もう、白い所の方が少ないです」
答えながら、スマホで写した画像を見せる。
前嶋さんは真剣に覗き込み、拡大して確かめながら
「なんか……塗料じゃないのかな……? 建材用の特殊なやつ」
と独り言のように呟いた。
「こんなものが独りでに現れるはずないよ。恐らく、人為的な作業だ」
「……人為的?」
前嶋さんはアゴ髭を撫でながら、言いにくそうな顔をした。
「澤田さん、だっけ?」
「はい」
「……初対面なのに、ごめんね。もしかして、過去の彼氏に恨まれたりしてない?」
「――……はぁ?」
私は思い切り間抜けな声を上げた。
「いや……ストーカーとか、嫌がらせとか、そういう可能性、ないだろうか」
前嶋さんの考えは、私の部屋の合鍵を持ったことのある人物が、ネガティブな意図で、故意に塗料を塗っているのでは? ということだった。
「はぁ……それは、ない、と思いますよー」
「うーん……?」
「いつも私の方が振られちゃうので……未練とか恨まれたりは、ないと思うんですよねー」
努めてあっさりと答える。
前嶋さんは、ちょっと頭を掻いた。
「そうか……ごめんね」
「いえ、もう吹っ切れてるんで」
笑顔で答える。
これは、本当のことだ。
終わった恋は引きずらない。
「澤田さん、引っ越すつもりかい?」
ラージサイズのカップを傾けて、前嶋さんは話題を変えた。
「はい、やっぱり気持ち悪いので」
「そうだよね。だったら、管理会社との交渉、ちょっと厄介だと思う。僕が間に入ろうか?もちろん、澤田さんさえ良ければ、だけど」
「……いいんですか? 私、お金ないですよ」
前嶋さんはプッと吹き出した。
「いいよ、いいよ! ボランティアで」
そしてボソッと
「ここの店長には借りがあるからね」
と冗談めかして囁いた。
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それから半月程で、前嶋さんは素敵な物件を紹介してくれた。
前の部屋よりひと部屋多い2LDKなのに、家賃は1000円アップしただけだった。
ワンルームじゃなくなったことは、とても贅沢な気分だ。
私はすぐに引っ越した。
引っ越しの費用は痛かったが、貯金と実家からの応援で何とか間に合った。
最寄り駅が1つ変わり、大学にはひと駅遠く、バイト先にはひと駅近くなった。
前嶋さんは管理会社と交渉を重ね、結局【敷金との相殺】という形で落ち着かせてくれた。
入居時に納めた1月分の敷金が戻らなかったのは残念だけど、退去に伴う実費負担がなかっただけでも有難かった。
「ここはオートロックだから安心できるよ」
まだ荷物の片付いていないリビングで、前嶋さんはカウチに腰を下ろした。
「何から何まで、ありがとうございました」
ローテーブルにマグカップを2つ置く。
キリマンジャロの香りが立ち上った。
「……うん、割とすんなり片付いて良かったよね」
奥歯に何か挟まったような、歯切れの悪い言い方が気になる。
「どうかしたんですか?」
不安が膨らんだ。
「いや、気分を害したらすまないんだけど……これ、見てよ」
前嶋さんが取り出したタブレットの画面には、見覚えのある会社名とロゴが載っている。
前のアパートの管理会社のHPだ。
【築5年。○○駅から徒歩10分。大人気のモダンな内装。リフォーム済。即日入居可】
「あ、私の……前の部屋っ!?」
一瞬、気付くのが遅れたが、間違いない。ついこの前まで住んでいた、あの部屋だ。
私は、家賃を見て更に驚いた。
2年前の入居時より、1万円も高い。
「シレッとしたものさ、『リフォーム済』だって」
写真の中の『元・私の部屋』は、眩しいくらいに白い壁紙に、茶褐色の天井が、ぐっと大人びた雰囲気を演出していた。
「――まさか……」
「うん……多分、ね」
前嶋さんは、苦い表情でマグカップに口を付けた。
-*-*-*-
それから、半年も経たない日曜日。
休日の特権で、シーツの中でゴロゴロしている私を、前嶋さんが呼び起こした。
「なーにー? まだ眠いー」
寝ぼけながらリビングに行くと、バターとコーヒーのいい香りがする。
そろそろブランチの時間だ。
「早く早く、それ見て!」
エプロン姿の前嶋さんは、キッチンカウンターから身を乗り出し、右手に持ったフライ返しでテレビを示した。
昨日の深夜に起こった事件のニュース映像が流れている。
建物の玄関から、警官に連れられた男性が現れ、報道陣の一斉フラッシュを浴びている。
警察官は男性に頭から上着を被せると、カメラを押し退けながら、その人物をパトカーに乗せて走り去った。
訳もわからず眺めていると、映像に長いテロップが踊った。
【大手住宅管理会社社員、自社の管理物件に住居侵入罪で現行犯逮捕!! 会社ぐるみの計画的犯行か!?】
映像が切り替わる。
中継レポーターの背後に映る犯行現場の建物は、以前住んでいたあのアパートだった。
【終】