五年前
俺には空と言う可愛い妹がいた。
「お兄ちゃん、そろそろ出ないとバス、行っちゃうよ! 」
「これ食べたら行くから、空は先に行っててくれ〜」
俺は、この返事をした自分を、一生許さない。
「もう、早く来ないと知らないからね! お母さん、いってきます! 」
リビングから出た妹に続き、母親が妹を見送るために玄関へ向かう。
「車には気をつけるのよ」
「わかってますって」
二人の会話が聞こえ、玄関から空が慌ただしく飛び出した音から少しの間があき、玄関ドアがガチャリと閉まる音が聞こえた。
俺は残りのパンを口に詰め込むと、牛乳を口に含み席を立つ。もぐもぐ口を動かしながら壁時計で時刻を確認すると、マジで時間がなかった。
そこで歯を磨く事を断念した俺は、テーブルに置いてあった歯磨きガムを上着のポケットに放り込むと鞄を手に取る。
「じゃ母さん、俺もいってきます! 」
「忘れ物はない? 」
「大丈夫だって。じゃ、いって——」
その時、車のけたたましいブレーキ音の後、ドンッっと大きな衝突音が聞こえた。
車の事故?
この感じだと結構近そうだな。
靴を履き家から出る。
民家が建ち並ぶ道路の先、ここから50メートルくらい先のT字路でSUV車が左側の壁に衝突しているのが見えた。壁にぶつかっている車のフロント部分は、大きくへしゃげているのが見える。
そして車の下には、学生服を着た女の子らしき人の姿が——
心臓がどくんと、大きくなる。
あっちはバス停がある方角。
女の子は、先程からピクリとも動かない。
まさか。
血の気が引いていくのが自分でもわかる。
母親が俺に遅れて玄関から出てきた辺りで、俺は走り出していた。
近付いて行く途中で、車の近くにバックが転がっているのを見つける。
その鞄が見慣れている鞄ととても似ていたが、よく見る事を反射的にやめた。
そして視線の先、車の下から見えている傷だらけの足が、曲がらない方向に曲がっているのが見えた。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!
俺は車を力の限り持ち上げようとする。すると周りにいた人達も一緒になって持ち上げてくれた。その僅かに出来た隙間に、俺の後に続いて走って来ていた母親が潜り込み、空を引っ張り出す。
空はこの時、まだ生きていた。
頭も、胸も、腹も、腕も、脚も、酷く壊されていたが、懸命に生きていた。
薄っすらと開いている瞳から赤い涙を流し、何かを話そうとしていた。
空が何をしたと言うんだ!
家族思いで明るさが取り柄の優しい空が、なんで地獄のような苦しみを味わなければならないんだ!
俺は神様に祈った。
俺はどうなってもいいから、空を助けて下さいと。
何度も何度も呪文のように祈った。
しかしこの世に、神様はいなかった。
救急車で病院に運ばれる最中、空は少しづつ力が抜けていくようにして息を引き取った。
この日を境に、俺の心はほんの少しだけズレてしまった。以前の俺自体があやふやなため漠然としか言えないが、それでもどこかズレてしまった感覚だけはハッキリとある。
その後日、加害者である運転手の呼気からアルコール反応が出た事を、親族たちが話しているのを聞いて知った。
湧き上がる怒りに身を任せ壁に殴りかかろうとしたが、力が抜けてソファーにドカッと座ってしまう。
そして何気にリモコンを手に取りテレビを点けて観ていると、なんだか無性に笑いがこみ上げてきて、そのまま大声をあげて笑ってしまっていた。