スペースナショナリティ
「スペースナショナリティ」
人が旅立つとき、スペースナショナリティ駅は存在する。同様に、帰還するときもだ。
綺羅が、私を見送ってくれた日、私たちは駅の隣のあちらのデパートに面して建てられた巨大レストランで昼食を食べた。巨大レストランの二階には、私がよく通ったカントリー映画館があり、はこべ通りを挟んでほぼ真向かいに端末映画館がある。
綺羅は巻き毛の遠い目をした青年で、右頬に星屑を光らせている。たまに目が合っても決して笑ったりはしなかった。私は以前彼と一緒に買った黄色のジャンプスーツを着ていた。それは薄汚れて、黄色かった生地は灰色に変色していた。
「街の外はどんなふう?」
その質問には答えづらい。なぜなら、私の記憶はこの駅前の街から始まり、終わっていて、仕事のためにスペースナショナリティへ向かった後、または出て来る前のことは何も覚えていないからだ。
巨大レストランの張り出たテラスのガラスはすべて魚眼レンズでできており、外の風景は限りなく歪んでいる。スペースナショナリティの上空を、カワイルカの群れが飛び立って行く。彼らはどこへ行くというのだろう。ジンベイザメでさえ、その行く先を知らせてはくれず、だれもスペースナショナリティのことを知らなかった。そして、それは綺羅も同じようだった。
「十一番シートのお客様、ビンゴ致しました。への八に移動お願いします」
店内にアナウンス嬢の声が響く。どうやら、巨大レストランは巨大なゲーム盤の一部らしい。いそいそと十一番シートの客はどこへやら移動して行った。気づけばアナウンスは頻繁に移動を勧めているのだった。子供連れの親子などは、つまらない移動にあくせくして、何も口にしていないようだし、老人の夫婦に至ってはアナウンスを完全に無視している。私はそっと含み笑い、ちらりと綺羅を見た。彼は無言でその様子を眺めながら、カシューナッツをつまんでいた。そして、ふいにこちらを見ると、さっきと同じ質問を繰り返した。
私は何かを言いかけた。
「七番シートのお客様、ビンゴ致しました。四の四コマに移動お願いします」
綺羅は私の言葉を遮り、突然立ち上がると、へどもどしている私の視線を、テーブルの番号に向けさせた。七番。私たちは小鉢とコーヒーソーサーを手に、四の四コマを探すことにした。まるで、ボーリング場のようなコーナーに突き当たり、ニコニコと微笑むウェイトレスが、「四の四コマはこちらです」と案内してくれた。床がツルツルとやたら滑る。私たちはレーンを滑って、四の四コマの穴に落ちていった。
穴の底は静かでセピア色に暗い。遠くで「チェックメイト!」と言う声を聞いた。そして、いっせいに何かが崩れる音。いつしか光が現れ、そこから白い天井が見えた。光の中から巨大な口が近づいてきて、一瞬にして私と綺羅を吸い込んでしまった。
「遅い」
憮然とした声に迎えられ、私はコーヒーソーサーを持ったまま、白衣の中年男の前に座っていた。後ろを振り向くと、白衣の天使がたたずんでおり、「患者は亡くなりました。先程、冥土の土産を持ってスペースナショナリティへ出立なさいました」と、天使特有の奇妙に美しい笑顔で告げた。綺羅はいなかった。彼がレシートを持っている。今回は彼のおごりのようだ。そして、私は次に一体何をすれば良かったのか、一切忘れてしまっていた。カップの底にエスプレッソが残っていたので、飲み干した。何か叫び声を聞いたように思ったが、カップの底にはこごったコーヒーの染みがあるだけだった。
「で、どこが悪いの?」
医者はなおも言う。彼の手元の机には、リカちゃん人形やGIジョー人形が並べられており、それに添えられたむくんだ毛深い手が、見る間に白くふくよかになっていく。いつの間にか、小学生くらいのムッチリとした少年が白衣を着て座っており、紙で作った眼鏡をいじりながら、「トーニョービョーでケンショーエンです」と言った。
私は少年の頭をなでて、スペースナショナリティからは遠い薄生年金病院を出た。