べこべこ小路
「べこべこ小路」
駅前広場の東の方にべこべこ小路はある。すごく入り組んだ路地で、気が付くと迷っていたりする。迷ったまま出てこられなくなって、べこべこ小路には、そういう人がたくさん住んでいる。建て増しに建て増しを重ねた、ベコベコと鳴るトタン屋根の危なっかしいアパート。そういうのを目にすると、六面のサイコロが丁度角で地面に立ったものを思い出してしまう。
私はキラと歩いていた。キラはかわいい少年で、いつの間にか自己紹介をして、私と一緒にべこべこ小路まで来てしまったのだ。キラのくるくるとした巻き毛、右頬には星屑が光っている。それに引き換え、私は元が何色かも分からないジャンプスーツを着ている。
私はべこべこ小路の立体三角公園の向こうの端末映画館で上映されている、カンヌ映画を見に行くところだった。カンヌかカンナか知らないが、あまりよく知られていない地味で演技の上手な日本人の出てくる映画らしい。それがどこだかの国で賞を取って、なぜだか、誰も来られそうにないべこべこ小路の小さな映画館で上映されている。
べこべこ小路の細くて狭い道は、全然舗装されていない。でも土剥き出しじゃなく、ぎっしりと六面体の石が敷き詰められている。坂になると、その六面体の石が転がりだし、私は歩いてもいないのに、ベルトコンベアーで移動していくみたいに、いつの間にかどこかにつれ去られてしまった。たどり着いた小路は行き止まりで、後ろを振り向くと平坦な道がずっと続いている。
遠くの方で、「べこやー、べこや」と言う、よく分からないものを売っているおじさんの声が聞こえてくる。
平坦だった道が急に曲がりくねり、勾配の急な坂になった。私は垂直に近い道の上の方を見上げ、キラが平然とその道を普通に歩いて降りてきているのを見た。
トタン屋根がぐねぐねと自在に曲がりくねっているけれども、キラはそれを完全に、見事に無視して、片手に水風船に毛が生えたようなものを持って、ストンと私の隣に立った。
差し出された毛風船は「べこ」らしい。その風船を振ると、ぐらぐらと足元の道が揺らぎ、やめると道はおとなしくなった。キラは澄まして、トタンを重ねて作った家の壁を、カンカンと叩いている。いつの間にか、壁は鉄琴に変わっていて、キンコンカンときれいな音を奏で始めた。
「べこやー、べこや」の声が、カウンターテナーになり、複雑で説明困難な雑然とした小路中に、オペラが上演され始めたようだ。第一場がどこかで終わったらしく、大喚声が私のいるところにまで聞こえてくるけれども、私の歩いている小路はただの寂しい路地でしかない。
わずかな空さえも、所狭しと建て増しされたトタン小屋に隠されて、余りよく見えない。はるか遠くのスペースナショナリティから発つ、船の影がかいま見えた。しかし、空は次第にトタンの黒い裏面に覆い隠されて行き、私は隣にいるはずのキラを探しながら、まったくの暗闇を擦り抜けて行った。手に触れるのは波立ったトタンの板の感触だけで、先に何があるのか見当もつかない。
「べこやー、べこや」の声がやけに近くで聞こえる。カラカラと何かがから回る音もそれに混じって流れて来る。ため息や熱い吐息が耳元をかすめ、ふと手に触れたものはビロードのカーテンだった。そっとはぐって出てみると、大通りへ抜けるはこべ通りに飛び出してしまった。サァッと明るい日差しが目を突き、私は顔をしかめた。私はたった一人で、はこべ通りに立っていた。
背後の端末映画館から、大勢の観客がぞろぞろとはこべ通りに出て来た。スルスルとまた彼らはべこべこ小路の透き間に分け入り、姿を消した。
手にしている毛風船を見やると、それは巨大なたんぽぽの綿毛だった。風が吹き、綿毛はさぁと私の手の中から擦り抜けて飛んで行ってしまった。綿毛の芯は琥珀色のべっ甲飴で、口に入れてみると、春の香りがしたように思えた。




