第7話 母の聖域、娘の戦場
1. 崩落する平穏
床に落ちた結納の目録が、静まり返ったフロアで不吉な音を立てた。
母の顔から血の気が引き、震える指先が私たちの姿を指している。
「真琴……あなた、こんなところで何を……。その人は、誰なの?」
私は反射的に成瀬君を突き放そうとした。
けれど、成瀬君は私の肩を抱く手に力を込め、逃がしてはくれなかった。
「……お母さん、違うの。これは……」
「何が違うの!」
母の叫びが、無人のオフィスに反響する。
いつも穏やかで、一歩引いて父を支えてきた母の、初めて見る剥き出しの感情だった。
「佐伯さんのお父様から預かった大切な書類を、忘れたあなたが心配で……。それなのに、深夜に若い男の人と抱き合って……。挙句、会社のパソコンで何を盗んでいるの? あなた、自分が何をしようとしているのか分かっているの!?」
母の視線は、画面に表示された『コピー完了』の文字と、私の手の中のUSBメモリに注がれる。
母は商社の実務は知らなくても、娘が「やってはいけないこと」をしていることだけは、本能で理解していた。
2. 冷徹な共犯者
沈黙を破ったのは、成瀬君だった。
彼は私を庇うように一歩前へ出ると、驚くほど冷静な、それでいてどこか哀れむような笑みを母に向けた。
「お母様、誤解です。真琴さんは、自分を守ろうとしているだけですよ。……佐伯さんが彼女に何を強いているか、ご存知ないのですか?」
「……な、何を言っているの。佐伯さんは、真琴を……高峯家を、一番に考えてくれているわ」
「それは『支配』と呼ぶんです。……真琴さんは今、佐伯さんが行っている背任行為の証拠を確保しました。これを使わなければ、彼女は一生、あの男の『所有物』として殺される。……お母様、あなたは娘を売りたいんですか? それとも、助けたいんですか?」
成瀬君の言葉は、母の最も柔らかい部分を無残に抉った。
母はふらりとよろめき、近くのデスクに手をついた。
「……うるさいわ。あなたみたいな、どこの誰とも分からない若い子に、家族の何が分かるっていうの……。真琴、その子を離しなさい。今すぐそのメモリを返して、佐伯さんに謝るのよ。そうすれば、まだ間に合う……お父さんには私から上手く話すから……」
母の言葉は、もはや祈りに近かった。
彼女にとっての「正解」は、娘の自由ではなく、波風の立たない「平和な家庭」を維持することなのだ。
3. 35歳の決別
私は、震える手でUSBメモリを胸に抱きしめた。
母の顔を見る。
そこには、私を愛しているがゆえに、私の魂を殺そうとしている一人の女性がいた。
「……お母さん。もう、間に合わないの」
「真琴……?」
「私はずっと、お父さんやお母さんの『理想の娘』を演じてきた。東大に入って、商社に入って、立派な婚約者を連れてきて。……でもね、一度だって、私の仕事の中身を、私の戦っている姿を、見てくれようとしたことなんてなかったじゃない」
涙が溢れる。
けれど、声は不思議と冷たく、澄んでいた。
「佐伯さんは私を壊そうとしているの。……このメモリの中身は、私の十五年間の誇りを取り戻すための武器なの。……お母さん、お願い。今回だけは、私を放っておいて。……私を、『お母さんの道具』にしないで」
母は、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
その時、フロアの電気が一斉に点灯した。
「――実に感動的な親子喧嘩だな。録音しておけばよかったよ」
入り口に立っていたのは、佐伯さんだった。
彼は冷ややかな笑みを浮かべ、手に持ったスマートフォンを私たちに向けていた。
「お義母さん、夜分にすみません。真琴が会社の機密を持ち出そうとしているというアラートが、僕の端末に届きましてね。……まさか、あなたまで共犯だったとは」
佐伯さんはゆっくりと近づいてくると、私の手からUSBメモリをひったくろうとした。
「さて、真琴。……このガキと、お前の母親。どっちから先に『社会的死』を与えてほしい? ……選ばせてやるよ。僕の、最後の慈悲だ」
佐伯の冷徹な眼光が、絶望に暮れる母と、私の隣で不敵に笑う成瀬君を射抜いた。




