第6話 硝子の夕餉(ゆうげ)
1. 祝杯の予兆
深夜のオフィスに鳴り響いたスマートフォンのバイブ音は、まるで静寂を切り裂く警告音のようだった。
ディスプレイに表示された『父』の二文字。
私は隣に立つ成瀬君から目を逸らし、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし、お父さん。こんな時間にどうしたの?」
『真琴か。夜分に済まん。……先ほどな、佐伯君のお父上から連絡をいただいたのだ』
父の声は、かつてないほど弾んでいた。厳格だった元銀行員の父が、子供のように声を上ずらせている。
『式の日取り、来年の五月三日に決まったそうだ。佐伯君が「真琴のキャリアに配慮して、大型連休に合わせたい」と配慮してくれたらしい。……素晴らしい男じゃないか。お前をそこまで大切に思ってくれるなんて、高峯家の誇りだ』
足元が、音を立てて崩れていく感覚。
佐伯さんは、私の「進退」を役員会議で削り取ったその足で、私の「外堀」を家族経由で埋めたのだ。
「……そう。彼が、そんなことを」
『週末、お祝いに帰ってきなさい。母さんも健太も、みんなで待っているからな』
電話を切った後、私はしばらく動けなかった。
成瀬君が、闇の中から私の顔を覗き込む。
「……外堀、埋められましたね。彼はあなたの『逃げ道』をすべて塞ぐつもりだ」
「分かってる。……でも、私はまだ、この手を離せない」
私は、彼から受け取ったUSBメモリを握りしめた。
これが、この地獄を終わらせる唯一の鍵だ。
2. 善意という名の絞殺
週末。
神奈川にある実家のダイニングは、祝祭の空気に包まれていた。
テーブルには母が得意の鯛の塩焼きを並べ、弟の健太が奮発したというシャンパンの栓を抜く。
「姉貴、おめでとう! 佐伯さん、あの日取りを調整するためにかなり無理してくれたんだってな。本当に姉貴のこと、愛してるんだな」
健太が私のグラスに泡を注ぐ。
その隣で、母が嬉しそうに和服のカタログを広げた。
「真琴、白無垢はこれがいいわ。あなたの肌の色なら、少し生成りがかった方が映えると思うの。……ああ、楽しみ。あなたがこの家を出る時は、絶対に最高に綺麗な姿で見送りたいのよ」
母の瞳は、純粋な喜びで潤んでいる。
父は、満足げに頷きながら私を見た。
「真琴。仕事の方はもういいだろう。佐伯君から聞いたぞ、君をサポート役に回すよう手配してくれたと。……女が一生、商社の最前線で戦うのは無理がある。彼のような男の陰で、賢い妻として生きる。それがお前にとって一番の『幸福』なんだ」
「……お父さん。私は、その仕事に十五年かけてきたの」
小さな、消え入りそうな反論。
だが、父の表情は一瞬で険しくなった。
「まだそんなことを言っているのか。キャリアだの自己実現だの、そんなものは若いうちの夢だ。お前はもう三十五なんだぞ。いい加減、自分の『価値』がどこにあるのかを理解しなさい」
視界が歪む。
美味しいはずの料理が、喉を通るたびに石に変わる。
この家には、私の「意志」を置く場所なんてどこにもない。
私が「高峯真琴」であるためには、彼らの望む「理想の娘」という着ぐるみを着続けなければならないのだ。
3. 深夜の共犯潜入
実家から逃げるように戻った日曜日の夜。
私は、静まり返ったオフィスビルにいた。
成瀬君から教えられた通用口のパスコードを使い、守衛の目を盗んで佐伯さんの所属する生活産業部のフロアへ忍び込む。
内部統制の隙を突く。
佐伯さんが個人PCに保存しているはずの、インフラ案件の裏金に関する「真の帳簿」。
USBのウイルスソフトを使い、彼のサーバーへ直接アクセスを試みる。
「……怖いんですか?」
背後から、低い声。
成瀬君が、いつの間にか私の真後ろに立っていた。
彼の指が、キーボードを叩く私の手の上に、重なるように置かれる。
「……成瀬君。どうしてここに」
「見届けに来たんですよ。あなたが、過去と決別する瞬間を」
彼の体温が、薄いブラウス越しに伝わる。
佐伯さんの冷たい独占とは違う、心臓を直接揺さぶるような、熱い衝動。
成瀬君は私の後ろから腕を回し、マウスを操作する私の手を導く。
「……ここです。この隠しフォルダに、彼が現地コンサルタントを通じて還流させた裏金の証拠が眠っている」
画面に、膨大な数字の羅列が浮かび上がる。
佐伯さんの失墜を意味する、決定的なデータ。
これを開けば、私は「佐伯真琴」になる未来を永遠に失う。
そして、この東都物産という居場所も。
「……真琴さん。今、あなたの心臓の音、僕にまで聞こえてますよ」
成瀬君が私の首筋に顔を寄せる。
彼の吐息が耳元で跳ね、全身に鳥肌が立つ。
私は彼の方へ振り向こうとしたが、その瞬間、彼に強く抱きすくめられた。
「逃げちゃダメだ。……これを開いて、すべてを終わらせて、僕のものになってください」
「成瀬君……。あなたは、私を愛しているの? それとも、復讐のために私を使っているだけなの?」
「どちらでもいいじゃないですか。……あなたが今、この世界で一番求めているのは、僕でしょう?」
彼の唇が、私の耳たぶに触れる。
狂おしいほどの情熱と、底知れない悪意。
私は、彼の腕の中で、自分自身が溶けていくのを感じていた。
パソコンの画面上で、コピー完了を告げるバーが100%に達する。
――その時、フロアの入り口から、バサリと書類が落ちるような音がした。
反射的に入り口を見る。
そこには、手に持った結納の目録を落とし、呆然と立ち尽くす「母」の姿があった。
「……真琴? あなた、何をしているの……? その人は、誰なの……?」
実家に忘れた書類を届けに来たのか、あるいは……。
一番見られたくない相手に、密会と、そして「裏切り」の瞬間を見られてしまった。




