第5話 沈みゆく銀の檻
1. 審判の円卓
リスク管理部、第4会議室。
重厚なオーク材のテーブルを囲むのは、会社の「守り」を司る冷徹な面々だ。
窓のない部屋の空気は、エアコンの微かな駆動音さえも拒絶するほどに張り詰めていた。
「高峯君。今回のL/C(信用状)発行の遅延、および現地のコンソーシアムとの交渉停滞……これは単なる『不可抗力』で済まされる問題かね?」
リスク管理部長の問いに、私は背筋を伸ばして答えた。
「現地の外貨規制は急なものでした。ですが、現在、代替の決済スキームを構築中です。あと三日あれば……」
「三日? 商社の三日は、数億円の逸失利益に等しいんだよ、高峯」
遮ったのは、オブザーバーとして同席していた佐伯さんだった。
彼は役員たちの前で、いかにも「婚約者の不始末を案じる誠実な男」という顔をして溜息をついた。
「部長、失礼します。彼女は非常に優秀ですが、最近は少し……私生活での心労が仕事に影響している節があります。特に、派遣社員の管理において不適切な距離感があるという報告も受けており、判断力が鈍っているのではないかと」
血の気が引いた。
管理不適切?
判断力の欠如?
彼は、会議の場で私を庇うふりをしながら、最も致命的な「プロフェッショナルとしての信頼」を組織的に削り取ろうとしている。
「佐伯さん、それはどういう意味ですか。私は公私を混同してなど……」
「真琴。君を責めているんじゃない。守りたいんだよ」
佐伯さんは私の言葉を優しく封じ、部長に向き直った。
「今回の案件、メイン担当を私に変更し、高峯には私のサポートに回るよう提言します。彼女には、結婚準備という『本来の役割』に集中できる環境を整えてやるのが、会社としての温情ではないでしょうか」
部長たちが頷き合う。
私の十五年間のキャリアが、わずか数分の「配慮」という名の毒によって、事務職の補助同然に格下げされようとしていた。
2. 資産価値の査定
会議終了後。廊下を歩く佐伯さんの背中を追った。
「……佐伯さん! どうしてあんなことを言ったんですか! 私を降ろすなんて、実質的な更迭じゃないですか!」
佐伯さんは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
そこには、会議室で見せた「誠実な男」の影も形もなかった。
「更迭? 心外だな。僕は君に『出口』を作ってやったんだよ」
彼は私の腕を掴み、人気のない資料室へと押し込んだ。
閉じられた扉の陰で、彼の声が低く、冷たく響く。
「いいか真琴。三十五歳の女が、商社でこれ以上上に行けると思っているのか? 周りを見ろ。同期の男たちはとっくに海外支店のトップだ。君に残された『資産価値』は、僕という将来の役員候補の妻になることだけなんだよ」
「……っ」
「成瀬とかいうガキと夜中に抱き合っていたことも、部長には伏せておいてやった。僕への感謝を忘れるな。……今夜、親父に『真琴が仕事をセーブして家庭に入る準備を始めた』と報告しておく。逆らうなよ。お前に居場所なんて、もうここ(僕の隣)にしかないんだから」
彼は私の頬を、まるで品定めするバイヤーのように指先でなぞり、去っていった。
震えが止まらない。
私は、自分が積み上げてきたキャリアが、彼にとって「結婚までの余興」に過ぎなかったことを突きつけられた。
3. 共犯者たちの月光
その夜。私は一人、誰もいないオフィスに戻った。
デスクの上の書類を片付けながら、涙が止まらなかった。
十五年間。
風邪を引いても、親が倒れても、私はこのデスクにしがみついてきた。
それなのに、最後は「女だから」という理由で、出口のない暗闇に放り出される。
「……やり返しましょうか。あの男に」
暗闇から、声がした。
成瀬君が、給湯室の入り口に立っていた。
彼はいつもの柔和な笑みを消し、冷徹な狩人のような瞳で私を見つめていた。
「……成瀬君。聞いていたの?」
「佐伯さんがリスク管理部で何をしたか、社内の噂は速いですよ。……真琴さん、あなたは本当に、あんな檻の中で一生を終えるつもりですか?」
彼は私のデスクに歩み寄り、一冊の古い、手垢のついた日記帳を置いた。
「僕の兄……あなたの初恋の人だった成瀬徹は、佐伯さんに嵌められて、この会社を追われた。そして、自ら命を絶った。……その時、あなたが佐伯さんを選んだことも、兄は最期まで許していなかった」
心臓を素手で握りつぶされたような衝撃。
そうだ。あの時、私は徹君が不正の疑いをかけられた時、佐伯さんの「僕が君だけは守る」という言葉を信じて、徹君の手を離したのだ。
自分の保身のために。
「……復讐、なのね。私を、壊しに来たのね」
「いいえ。僕はあなたを『奪い』に来たんです。佐伯の手から、そして、あなた自身の呪縛から」
成瀬君は私の手を取り、日記帳の中に隠されていた一枚のUSBメモリを握らせた。
「これには、佐伯さんが今回のインフラプロジェクトで私腹を肥やそうとしている、決定的な裏金の流れが入っています。……これを使えば、佐伯は終わる。でも、それを使えば、あなたも『内部告発者』として、この会社にはいられなくなる」
彼の指が、私の指に絡まる。
それは、愛というよりも、地獄への招待状のような冷たさと熱さだった。
「僕と一緒に、すべてを壊しませんか? 真琴さん」
月光が差し込むオフィスで、私たちは「共犯者」になった。
佐伯を破滅させることは、私の今の人生すべてを捨てること。
家族の期待も、社会的地位も、安定した未来も。
私は、震える手でUSBメモリを握りしめた。
成瀬君が、私の耳元に唇を寄せる。
「……大丈夫。一人にはしません。地獄まで、僕がエスコートしますから」
その瞬間、フロアの電話が鳴り響いた。
深夜の着信。
ディスプレイに表示されたのは、私の「父」の名前だった。




