第4話 不可視の足枷
1. 砕かれた静寂
白々としたLEDの光が、影を切り裂く。
抱きしめられた腕の熱が、急速に冷めていくのを感じた。
「……誰?」
私の震える声に、成瀬君はゆっくりと腕を解いた。
扉の向こうにいたのは、夜間巡回の警備員だった。
ライトの残光が、誰もいないはずのフロアを無機質に舐めていく。
「高峯さん、まだ残ってたんですか。……あまり遅くなると、労務管理から警告が行きますよ」
警備員の事務的な言葉が、魔法を解く呪文のように響く。
そうだ。ここは商社だ。
すべてが管理され、効率と倫理を天秤にかけ、一分の隙もなく利益を追求する場所。
深夜の抱擁なんて、コンプライアンス違反以前の、論理の欠如でしかない。
「すみません、今帰るところです。……成瀬君、行こう」
私は、彼の顔を見ることができなかった。
拾い上げたバッグの中には、佐伯さんが強引にねじ込んだ「結納の進行表」が入っている。
その紙の端が、指先に刺さるように痛かった。
2. リスク・マネジメントの罠
翌朝、オフィスはさらに過酷な戦場と化していた。
東南アジアのインフラプロジェクトで、現地パートナー企業から「信用状(L/C)の発行が遅れる」という最悪の連絡が入ったのだ。
「高峯、どういうことだ。与信枠の審査は通っていたはずだろう!」
川田課長の怒号が飛ぶ。
私は電話の受話器を握りしめながら、目の前のモニターに並ぶ貿易実務のデータを睨みつけた。
「現地の提携銀行で、急な外貨準備規制がかかったようです。……今、リスク管理部とヘッジ手段を協議しています」
専門用語が飛び交う中、私は機械のように解決策を打ち出す。
三十五歳、課長代理。
この席を守るために、私はどれだけの夜を犠牲にしてきただろう。
感情を殺し、数字を積み上げ、誰にも文句を言わせない「完璧な商社マン」を演じてきた。
(なのに、どうして……昨夜の、あの温もりを思い出してしまうの)
不意に、視界の端に佐伯さんの姿が映った。
彼は自分のデスクで涼しげな顔をして電話をしていたが、私と目が合うと、唇を歪めて小さく頷いた。
それは「昨夜の件、分かっているな」という無言の威圧だった。
そこへ、私のPCに一通の社内チャットが届く。
佐伯:「昨夜、警備のログを確認した。24時過ぎまで残っていたようだな。成瀬とかいう派遣と一緒に。……あまり隙を見せるな。僕の立場も考えてくれ」
心臓が冷たく収縮する。
彼は私の仕事を心配しているのではない。
自分の「資産」である私の価値が下がることを恐れている。
私は返信せず、ウィンドウを閉じた。
この会社で、佐伯さんは「先輩」であり「婚約者」だ。
彼に背くことは、このキャリアすべてを捨てることに等しい。
3. 優しい呪いと、亡霊の囁き
ランチタイム、私は逃げるように地下のカフェへ向かった。
ひとりになりたかった。
けれど、スマホがまた震える。母からだ。
「真琴、週末のドレスフィッティング、お父さんも一緒に行くって。楽しみにしてるわよ。……それから、健太の奥さんが言ってたけど、最近の真琴、少し痩せたみたいね。あまり無理しちゃダメよ。結婚すれば、仕事なんてサブでいいんだから」
サブ。
私が人生を賭けて、砂を噛むような努力で築いてきたこの場所は、母にとっては「結婚までの暇つぶし」に過ぎないのだ。
家族の愛は温かい。
けれど、その温かさは私をゆっくりと窒息させる真綿のようだ。
(誰も、私の『戦い』を見てくれない)
その時、向かいの席に誰かが座った。
成瀬君だった。
彼は何も言わず、私の前に一本の栄養ドリンクを置いた。
「……成瀬君。ここは、社員が見てるわ」
「そうですね。だから、これは『サポート業務』の一環です」
彼は昨夜の抱擁などなかったかのような、涼やかな顔で微笑んだ。
けれど、その瞳は私の奥底を見透かしている。
「真琴さん。……あなたは、どうしてそんなに自分を殺そうとするんですか?」
「……大人だからよ。35歳で、責任のある仕事をして、親を安心させる義務がある。それが、私の選んだ人生なの」
「『選んだ』んじゃなくて、『耐えている』ように見えます。……僕の知っている真琴さんは、もっと自由に、世界を飛び回ることを夢見ていたはずだ」
私の手が、微かに震えた。
「僕の知っている真琴さん」。
それは、派遣社員の成瀬涼が知るはずのない、十数年前の私の記憶だ。
「……あなたは、誰なの? どうして、私の過去を知っているの?」
私が問い詰めた瞬間、成瀬君の表情から笑みが消えた。
彼は身を乗り出し、耳元で囁く。
その吐息に、心臓が痛いほど跳ねる。
「……『あの人』が残した日記を読みました。……真琴さん、あなたが彼を裏切って、この商社を選んだ日のことも」
血の気が引く。
私の、唯一の、そして最大の罪。
初恋の彼を捨てて、私は「安定」と「キャリア」という名の、この銀の檻を選んだのだ。
「――だから、僕はあなたを救いに来たんです。あるいは、裁きに来たのかも」
成瀬君はそう言い残すと、栄養ドリンクを残して席を立った。
入れ違いに、佐伯さんがカフェの入り口に姿を見せる。
彼は成瀬君の後ろ姿を忌々しげに睨み、私に向かって冷たい声を放った。
「真琴。午後からリスク管理部の定例会議だ。……君の進退に関わる、重要な決定があるかもしれないぞ」
戦場と、過去の亡霊。
私は、逃げ場のない嵐のど真ん中に、独り立たされていた。




