第3話 綻びのワルツ
1. 牙を剥く戦場
週半ば。
東南アジアのインフラプロジェクトは、現地の政情不安という最悪のニュースによって暗礁に乗り上げていた。
会議室には重苦しい空気が漂い、煙草を吸わないはずの役員たちが、焦燥感に指を震わせている。
「高峯、現地のコンソーシアムとの交渉はどうなっている。返答が遅すぎるんじゃないか?」
上司の鋭い声が飛ぶ。
私は手元の資料を握りしめた。
「現在、現地の担当者と調整中です。ただ、現地の規制変更が壁になっていて……」
「言い訳はいい。君の『細やかさ』に期待して任せたんだ。結果が出せないなら、この案件からは降りてもらう」
商社の論理は単純だ。
数字と結果。
それ以外の努力や苦悩は、すべてノイズとして切り捨てられる。
私は唇を噛み、俯いた。その時だった。
「失礼します。高峯さんの指示で、現地の規制当局の最新動向と、過去の類似トラブルの解決策をまとめておきました。こちらを共有します」
成瀬君の声だった。
彼は淀みのない手つきでタブレットを操作し、モニターに鮮やかなグラフと打開策を表示させた。
「……ほう。これは、どこから持ってきたデータだ?」
「現地の提携銀行の知人からです。高峯さんが夜通し交渉を続けてくださっていたおかげで、信頼関係が構築できていた。その『果実』を僕が形にしただけです」
彼は嘘をついた。
現地銀行に知人などいないはずだ。
彼はきっと、私の知らないルートで情報を引き出したのだ。
会議の流れが一気に変わる。
危機を脱した安堵感が広がる中、成瀬君は私に一度だけ、微かな笑みを送った。
だが、その様子を冷徹な目で見つめる男がいた。
私の婚約者、佐伯さんだ。
2. 独占という名の暴力
会議室を出た廊下。
佐伯さんが私の腕を強引に掴み、人目のない非常階段の踊り場へと引きずり込んだ。
「……佐伯さん、痛いです。何を」
「何を、だと? 真琴、お前いつからあんなガキと組んでるんだ」
彼の声は低く、怒りで震えていた。
いつも余裕を見せている彼が、初めて剥き出しの嫉妬を見せている。
「成瀬君は私のサポートです。今日の資料だって、彼がいなければ……」
「黙れ。あんな薄っぺらい手柄で恩を売るような男、商社には腐るほどいる。……それより、お前の態度だ。さっき、あいつと目配せしていただろう」
佐伯さんの手が、私の肩に食い込む。
彼は私を壁に押し付け、逃げ道を塞いだ。
「真琴。忘れるな、お前はもうすぐ僕の妻になるんだ。僕の両親だって、お前が『賢い嫁』であることを期待している。派遣の男に鼻の下を伸ばしているなんて知れたら、どうなるか分かっているのか?」
「私は、そんなつもりじゃ……」
「分かればいい。今日の夜、食事のあとで指輪を買い直す。お前が僕の所有物であることを、自分でも再認識しろ。……いいな?」
逆らえない。
父の顔、母の期待、弟の笑顔。
すべてが重しとなって、私の声を奪う。
私は力なく頷くしかなかった。
3. 雨の夜、触れた熱
深夜。
結局、指輪選びは佐伯さんの「急な接待」によってキャンセルされた。
彼は私をタクシーに乗せて帰らせようとしたが、私はどうしてもオフィスに戻らなければならなかった。
やり残した仕事ではなく、胸の中に溜まった「泥」を吐き出す場所が必要だったのだ。
激しい雨が降り始めた。
窓を叩く雨音だけが響く静かなオフィス。
私は自分のデスクで、消灯したフロアの闇を見つめていた。
「……まだ、いらしたんですね」
振り返ると、成瀬君が立っていた。
彼は傘も差さずに戻ってきたのか、ジャケットの肩がしっとりと濡れている。
「……成瀬君。どうして戻ってきたの?」
「忘れ物をしたんです。……あなたの『心』を」
突飛な言葉だった。
けれど、今の私にはその冗談がひどく切なく響いた。
彼はゆっくりと近づき、私のデスクの前に立った。
「佐伯さんに、何を言われたんですか。……あなたの肩、まだ震えてますよ」
「関係ないわ。私は、あの方と結婚するの。それが一番、みんなが幸せになれる道なのよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど、涙が不意に溢れ出した。
三十五歳。泣き言なんて、もう何年も封印してきたはずなのに。
「……本当の幸せって、誰かの期待に応えることなんですか?」
成瀬君の手が、迷いながらも私の頬に伸びた。
その指先が、流れた涙をそっと掬い取る。
「僕は、あなたが笑っているところが見たい。……あの人の代わりに」
「あの人……?」
私が問い返す前に、彼は私の肩を引き寄せた。
雨の匂いと、微かなココアの残り香。
そして、抱きしめられたその胸の鼓動は、驚くほど速かった。
「……駄目よ、成瀬君。私は……」
拒絶しなければならない。
けれど、佐伯さんの冷たい独占欲とは違う、包み込むような温もりに、私の身体は逆らうことができなかった。
彼の手が、私の背中を優しくなぞる。
「少しだけ。……このまま、少しだけ」
暗いオフィス。
雨音に紛れて、私は彼の胸に顔を埋めた。
それが、一時の逃避だと分かっていても。
婚約者の指輪をはめるはずだった指先が、彼のシャツを強く握りしめていた。
その時だった。
「カツン」と、廊下で靴音が響いた。
フロアの入り口のセンサーライトが反応し、白々とした光が私たちを照らし出す。
私は慌てて彼を突き放そうとしたが、成瀬君はさらに強く私を抱きしめた。
「……そのまま。見られちゃいけないのは、向こうの方ですから」
扉の影に立つ人影。
それが、戻ってきた佐伯さんなのか、それとも別の誰かなのか。
私の心臓は、壊れそうなほど激しく打ち鳴らされていた。




