第2話 亡霊の残像
1. 射し込んだ光と、止まった鼓動
月曜日の朝、商社のフロアは一週間で最も殺気立っている。
あちこちで電話が鳴り響き、キーボードを叩く音が銃声のように重なる。
私はその喧騒をBGMに、先ほど提出したプロポーザルの修正案をチェックしていた。
「真琴さん、ちょっといいかな」
上司の川田課長の声に顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。
窓から差し込む鋭い朝光を背負い、逆光の中に佇むそのシルエット。
「今回のインフラプロジェクト、人手が足りないだろ? 本社から臨時のサポートとして派遣を一人呼んだ。今日から君の下に付ける。……おい、成瀬君、自己紹介を」
青年が一歩、前に出た。
その瞬間、私の指先から体温がスッと消えた。
「初めまして。今日からお世話になります、成瀬涼です。よろしくお願いします、真琴さん」
耳に届いた声。
少し低めで、語尾がわずかに跳ねるような独特の響き。
私は手に持っていたタブレットを落としそうになり、慌ててデスクに置いた。
指先が微かに震えている。
(嘘……でしょ……)
ウェーブがかった柔らかな髪。
涼しげだが、どこか寂しげな光を湛えた瞳。
そして、笑うと少しだけ片方の口角が上がる癖。
十年以上前、私が人生のすべてを賭けて愛し、そして私の前から永遠に消えた「彼」に、あまりにも似すぎていた。
「……真琴さん? 顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
成瀬君が、怪訝そうに私を覗き込む。
その距離、わずか五十センチ。
彼から漂うのは、清潔な石鹸の匂いと、微かな雨の匂い。
かつての「彼」が愛用していたトワレと同じ香りがした。
「……あ、いえ。すみません。少し、寝不足なだけです」
私は必死に声を整えた。
三十五歳の課長代理が、新入りの派遣社員を前にして動揺するなど、あってはならない。
私は「商社マン」の仮面を被り直し、努めて事務的な微笑を浮かべた。
「成瀬君、ですね。私はこのチームの責任者を務めている高峯真琴です。まずは資料の整理からお願いすることになるけれど、いいかしら」
「はい。何でも仰ってください。……あなたのお役に立てるなら、光栄です」
彼は深く頭を下げた。
その丁寧すぎる物腰に、フロアの視線が集まる。
二十六歳。私より九つも下。
分かっている。彼は「彼」ではない。
けれど、彼が顔を上げるたびに、私の心に溜まっていた砂が、激しく舞い上がるのを感じた。
2. 領土を侵す者
午前中のオリエンテーションを終え、私は成瀬君に大量の英語資料のファイリングを頼んだ。
彼が隣のデスクで静かに作業を始める。
その横顔を、私はどうしても視界の端で追ってしまう。
ペンを回す癖。
考え事をするときに、眉間に少しだけ皺を寄せる癖。
すべてが、私の記憶の中の亡霊と重なる。
「真琴、ちょっといいか」
背後からかけられた声に、私は弾かれたように振り返った。
佐伯さんだ。
彼は自分のデスクから歩いてきて、当たり前のように私の肩に手を置いた。
「昼、予約しておいたぞ。例のイタリアンだ。結納の進行表を詰めておきたいからな」
周囲の視線も構わず、彼は私を「自分の所有物」として扱う。
いつもなら、私はその重みに安心感を覚えようと努力した。
けれど今は、肩に置かれたその掌が、ひどく不快に感じられた。
「……佐伯さん、今は仕事中ですから」
私が小さく肩をすくめて手を避けると、佐伯さんは意外そうに眉を上げた。
「なんだ、冷たいな。ああ、そういえば新しい派遣が来たんだったな」
佐伯さんの視線が、隣の成瀬君に突き刺さる。
成瀬君は作業を止め、静かに立ち上がった。
「成瀬涼と申します。今日から高峯さんのサポートをさせていただきます」
「ふうん。佐伯だ。見ての通り、真琴とは結婚を前提に付き合っている。……まあ、彼女は仕事に厳しすぎるからな。若い君には少し荷が重いかもしれないが、せいぜい彼女の足手まといにならないように頼むよ」
佐伯さんの言葉には、明らかな棘があった。
相手を自分より下の存在だと決めつけ、格付けを完了させた者の、傲慢な響き。
成瀬君は、怒る風でもなく、ただ真っ直ぐに佐伯さんの目を見返した。
「足手まとい、ですか。……僕は、彼女が誰かに寄りかからなくても歩けるように、その隣にいたいと思っているだけです」
「……なんだと?」
佐伯さんの顔が、不機嫌そうに歪む。
フロアの空気が一瞬で凍りついた。
「成瀬君、言葉が過ぎるわ。……佐伯さんも、彼はまだ初日です。そんな言い方はやめてください」
私が間に割って入ると、佐伯さんは鼻で笑った。
「冗談だよ。真面目すぎるな、君たちは。……真琴、一時半には戻るぞ。遅れるなよ」
佐伯さんはそれだけ言い残すと、悠々と去っていった。
嵐が去ったような静寂の中、私は成瀬君に向き直った。
「……ごめんなさい、成瀬君。彼は、少し口が悪いところがあるけれど、悪気はないの」
自分でも驚くほど、白々しい嘘だった。
悪気がないはずがない。
彼は明確に、自分の「領土」を誇示したのだ。
成瀬君は、私の嘘を責めることもなく、ただ優しく微笑んだ。
「いいんですよ。……でも、真琴さん。あなたは、あんなふうに言われて、悲しくないんですか?」
「え……?」
「仕事に厳しすぎるとか……僕が見ているあなたは、誰よりも誇り高く戦っているように見えますけど」
心臓の奥が、熱いナイフで撫でられたような感覚に陥った。
親も、友人も、婚約者でさえも言わなかった言葉。
私が一番欲しかった肯定を、出会ったばかりの、しかも初恋の男に似た青年に投げかけられた。
「……仕事に戻って。午後は長いわよ」
私は突き放すような口調で言い、逃げるように自分の席へ戻った。
頬が熱い。
パソコンの画面が、涙で微かに滲んで見えた。
3. 解かれた記憶の封印
その日の夕方。
佐伯さんとのランチは、案の定、披露宴のゲストリストと親の顔色についての打ち合わせで終わった。
私の仕事の話は、一度も出なかった。
残業を終え、独りオフィスを出ようとした時だった。
給湯室の入り口で、成瀬君と鉢合わせた。
「お疲れ様です、真琴さん。これ、よろしければ」
彼が差し出してきたのは、紙コップに入った温かいココアだった。
「……ありがとう。でも、どうしてココア?」
「真琴さん、疲れると無意識に左の眉を寄せるでしょう。そういう時は、コーヒーより甘いものの方が効くって、誰かに教わりませんでしたか?」
私は、コップを受け取る手が止まった。
左の眉を寄せる癖。
疲れた時の、ココア。
それは、亡くなった「彼」だけが知っていた、私の小さな秘密だった。
「……どうして、それを」
「さて。どうしてでしょうね」
成瀬君は、いたずらっぽく笑った。
その表情は、やはり、あまりにも残酷なほどに「彼」そのものだった。
「お疲れ様です。……また明日」
彼が去った後の廊下には、甘いココアの香りと、解決できない謎だけが残された。
私は震える手でココアを口に含んだ。
温かい。
なのに、体中の震えが止まらない。
彼が来たのは、本当に偶然なのだろうか。
それとも、私の過去が、私を裁くために呼び寄せた「亡霊」なのだろうか。
――砂を噛むような日常に、明らかな「亀裂」が入った夜だった。




