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最終話 砂の城を越えて

 1.  鏡の中の他人


 拘置所の面会室。

 厚いアクリル板の向こう側に座る男は、かつての「エリート商社マン」の影もなかった。  

 無精髭が伸び、光を失った瞳で私を見つめる佐伯さん。

 彼は震える声で、最後の手札を晒した。


「……真琴、知っているか。あの日、君の初恋の相手……成瀬徹が不正の泥を被った時。……実は、彼を密告したのは僕じゃない。君の父親だ」

 心臓が、ドクリと跳ねた。

「お前の親父さんは、銀行員時代から徹を疎ましく思っていた。娘をあんな『夢想家』に預けたくなかったんだよ。……僕はただ、そのお膳立てに乗っただけだ。……どうだ? お前の信じていた家族も、僕と同じ穴のムジナだったんだよ」

 彼は歪んだ笑みを浮かべ、私の絶望を待っていた。

 呪いの言葉で、私を一生「過去」という檻に閉じ込めておこうとしたのだ。  

 だが、私は静かに息を吐き、彼を見つめ返した。

「……そう。教えてくれてありがとう、佐伯さん」

「……何?」

「でも、それはもう『終わったこと』なの。父が何を思い、あなたが何をしたか。それを背負って生きていくのは、私じゃない。あなたたち自身よ」

 私は立ち上がった。

 アクリル板に映る自分の顔は、驚くほど晴れやかだった。  

 佐伯さんは呆然と私を見送り、叫び声を上げたが、その声は防音の壁に吸い込まれて消えた。  

 私は一度も振り返らなかった。


 2.  十五年の重み、一グラムの決意


 一週間後。

 私は外資系コンサルティングファームのオフィスにいた。  

 提示された条件は破格だった。

 だが、私は渡された契約書をそっと机に戻した。

「……申し訳ありません。このお話、一度白紙に戻させてください」

「なぜですか、高峯さん。君なら、我々のチームで即戦力として……」

「今の私は、まだ誰かの看板を背負って戦う準備ができていないんです。十五年間、東都物産の『高峯』として生きてきました。……これからは、ただの『高峯真琴』として、自分の実力がどこまで通用するか試してみたいんです」

 驚くスカウトマンを後に、私はビルを出た。  

 冬の終わりの柔らかな陽光が、丸の内のビル群を照らしている。  

 肩書きも、婚約指輪も、家族からの期待も、何もない。  

 けれど、自由だった。  

 冷たい風が頬を撫でるたび、自分が「生きている」ことを、砂を噛むような疲労ではなく、確かな熱量として感じることができた。


 3.  終わりのないプレリュード


 夕暮れの海。  

 かつて、徹君と一緒に歩きたいと願ったその浜辺に、私は立っていた。  

 潮騒の音が、過去の傷跡を優しく洗っていく。

「……遅かったですね」

 背後から、懐かしい声。  

 成瀬君が、波打ち際に立っていた。

 彼は私の隣に並び、遠い水平線を見つめた。

「佐伯さんとは、決着がつきましたか?」

「ええ。全部置いてきたわ。……お父さんのことも、徹君のことも。……いつまでも、死んだ人の影を追って生きるわけにはいかないもの」

 私は成瀬君に向き直った。  

 彼は、兄の復讐のために私に近づき、そして私という一人の女に囚われた。

「成瀬君。……あなたは、これからどうするの?」

「僕は、兄が果たせなかった『世界を繋ぐ仕事』を、自分のやり方で始めようと思っています。……会社には属さず、フリーのコンサルタントとして。……かなり、前途多難ですけど」

 彼は少し困ったように笑った。

 その顔は、もう亡霊の面影などなかった。

「……奇遇ね。私も、自分の会社を立ち上げることにしたの。まずは小さな貿易実務の代行からだけど」

「……一人でやるんですか?」

 成瀬君が、探るような視線を私に送る。  

 私は、わざと悪戯っぽく微笑んだ。

「さあ、どうかしら。……有能なビジネスパートナーが、地獄の底まで付き合ってくれるって言っていた気がするけれど」

 成瀬君は一瞬驚いたように目を見開き、やがて今日一番の柔らかな笑みを浮かべた。

 

 彼は私の手を握った。  

 それは「救済」でも「独占」でもない。  

 同じ荒野を歩む者同士が交わす、静かな誓いだった。

「……契約成立ですね、真琴さん」

「ええ。……報酬は高いわよ、成瀬君」

 私たちは、手をつないで歩き出した。  

 背後には、私たちが捨ててきた「砂の城」が夕闇に溶けていく。    

 三十五歳。  

 物語はここで終わるのではない。  

 誰の台本でもない、私だけの物語が、今、ここから始まるのだ。

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